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まっつん.のブログ一覧

2016年05月31日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その九 馬ノ口編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その九 馬ノ口編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前回まで三原城の東築出というエリアを追っかけてきましたが、今回は、東築出の南側に続いていた「馬ノ口」と呼ばれた石垣についてご紹介します!

この馬ノ口という石垣は、

『城の外堀であり、馬の口の型をした内港でもある。満潮時には水面下となり、防波兼外船進入妨害用石垣。』

と現地の石碑に記されています!



要するに、港でいうところのコレです!




写真:松浜港(三原市糸崎)

まさに、三原城が城郭兼軍港であったといわれる特徴的な施設がこの馬ノ口の石垣ですね。

それでは、まずはいつものように場所の確認からいきましょう!昔の絵図でいえばココになります!



拡大するとこんな感じで。



おそらく、外堀〜船入には多くの船が係留されていたんじゃないでしょうか。

また、『みはら雑学王』という本に載っている現代の三原の地図に城の絵図を重ね合わせた図によればこんな感じで、現在の国道2号線に沿った形で馬ノ口は存在していたらしいです。



では、馬ノ口があった場所の現在の風景を見てみましょう!

この写真のマンションのあたりが船役所があった場所で…



撮影ポイントで直角に折れ、まっすぐ西に石垣が伸びていって…



この石碑の先で北側(右)に折れ曲がって…



ってな具合に

全っ然痕跡なんて残ってない!!!

非常に残念ながら、城郭兼軍港の防波堤の役割を果たした馬ノ口という石垣は、現在ではその痕跡は全く残っておらず、石碑によってのみ、そこにそういう施設が存在したということを辛うじてうかがい知ることができる…という状況でした。

ちなみに、以前、その七 東築出の歴史編でご紹介したように、明治維新後、新政府の発した「廃城令」により三原城は解体され、この馬ノ口の内側=外堀は魚の養殖場として利用されたようです。


明治31年測量の地図

そして、大正期の埋め立てによって姿を消した…という感じで。

歴史の流れの中で、もはや城も軍港も無用の長物と化し、そして消滅してしまったんですね。

うーん、切ない!!(>_<)



つづく
Posted at 2016/05/31 21:17:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年05月15日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その八 東築出の痕跡編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その八 東築出の痕跡編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回まで4回にわたって取り上げてきた東築出(ひがしつきだし)エリア編はこれにて最後となります。

前回、東築出というエリアは、東築出堀を挟んで東側は船乗りさんの町で、堀の西側は武家屋敷、幕末には大砲鋳造場や構武所が存在する場所であったことをご紹介いたしました。

今回は、現地を歩いて見つけた東築出の痕跡をご紹介します。

明らかにそうだといえるものから、僕の妄想混じりのものもありますので、どうか今回も温かい目で見守っていただければ幸いです(^_^;)

まずはおさらいですが、東築出というエリアは現在の地図でいうとこの範囲。



トップの画像にもあるイオン三原店に代表されるような商業地になっています。

昔の絵図ではこの範囲になります。



イオン三原店のあたりは、「構武所」「大砲鋳造場」があった場所かな?

○郵便局前の石垣

東築出エリアの中で一番確かで分かりやすい遺構はこれでしょう。



場所は、イオン三原店の隣にある三原郵便局の駐車場の脇です。

ただし、これは当時のままの姿の石垣というわけではなくて、廃城によって崩された石垣の石を大正~昭和時代頃に積み直したものがさらに埋め立てによって地中に隠れてしまい、それが現代になってまた姿を現した、というもののようです。



郵便局の内部にある説明パネルにそのへんのことが書かれています。ちなみに、線路と駅の場所が変なことになってるのがなんとも惜しい(^_^;)



Google mapと昔の絵図で確認すると、このあたりになると思います。



○東築出東端の曲線の痕跡?

さて、ここからは妄想が入ってきます(笑)

どうも、三原城の絵図と現在の地図を重ね合わせた画像をいくつも見ていると、ここが東築出の東の縁(へり)ではないかと思う場所があるのです。

まず、その場所をGoogle mapで見るとコチラ!

この緩やかなカーブの路地です!



次に、三原城の絵図と現在の地図を重ね合わせたものを見ると、東築出の東の縁(へり)は現在の和久原川の流れている場所よりも内側になっていて、ちょうど上記の路地と重なっている(ように見える)んですよねぇ。



現地に行ってみると、本当に狭い路地なので、用事がなければスルーしてしまいます(^_^;)

目印はガスショップ三原店。



ガスショップ三原店の角を曲がると金丸小児科の看板が見えます。そして、路地の奥の方が微妙に右側にカーブしているのがお分かりいただけますでしょうか。



さらに進んでいくとこんな感じで。マンションの駐車場に沿って路地が南に伸びていき、右に緩やかにカーブしています。



反対側から見るとこんな感じで。



多分、これは三原城の絵図でいうところのこの部分の東築出の東の縁(へり)の曲線の痕跡だと思うんですが、どうでしょうか。



ちなみに、『みはら雑学王』という本の中でも、「三原城下の名残を感じることができる」場所として紹介されています!



真偽のほどはいかに!?

○今橋(藤井橋)から南に伸びる道

これもかなり妄想が入っていますが(^_^;)

絵図と地図を比べてみたら、そうとしか思えないんですよね~。



現地はこんな感じで。今橋(藤井橋)を背に南側を撮影。橋のすぐ南の道が微妙にクネってるのも絵図のまんまだと思うんですが。



道路を隔てて、道は薬局と商店の間を通ってさらに南に伸びていく。



さらに南へ続いていく。



振り返って今橋の方角(北側)を向いて撮影。



駐車場から今橋の方向(北側)を撮影。



この駐車場や家は「網打場」だった場所かな?左側(西側)には、前々回、東築出堀の痕跡なんじゃないかと騒いだ溝があります。

右側のマンションが建っている場所が「御舩手多聞」「多聞長屋」など船乗りさんたちが生活を営んだ場所かな?このマンションの駐車場の縁(へり)の曲線が先ほど紹介した東築出の東の縁(へり)となるわけです。




というわけで、今回もたくさんの画像とともにお送りしてまいりましたがいかがだったでしょうか。

ほとんどが絵図との対比で妄想しているので、真偽のほどは定かではない部分が多いのですが、きっとそうなんじゃないかなー!(о´∀`о)

これで、4回にわたってご紹介してきた三原城東築出シリーズは終了です!

次回からはまた別の場所を妄想混じりにご紹介してまいりますので、お楽しみに!



つづく
Posted at 2016/05/15 18:18:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年04月23日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その七 東築出の歴史編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その七 東築出の歴史編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

2回にわたって東築出堀(ひがしつきだしほり)について妄想してきました。

今回は東築出(ひがしつきだし)という曲輪(くるわ)それ自体に残る三原城の痕跡を辿り、東築出シリーズを終えたいと思います。

・・・が、色々調べているとこのエリアの説明だけで長くなってしまったので、また2回に分けてアップしようと思います(^_^;)

ちなみに、トップの画像は三原駅にある三原城の模型のうち、今回取り上げる東築出エリアを撮影したものです!

さてさて。

まずは、東築出の場所の確認です。いつもの三原城絵図でいえば大体この部分になります。



この東築出をGoogle mapで記してみると、大体この範囲かと。



現在はその大部分が商業地になっています。

それでは、東築出はどんな場所だったのか。

『三原市史』第四巻には、江戸時代の1804年に編纂された『三原志稿』という書物(地誌)が掲載されているんですが、そこにこのような記述があります。

築出(東築出) 百九十二間
御築城の折から築出されし地也といふ、爰の海手の船入の家居は船問屋にて、今にても問屋株残れり、又上手の町並みは水主町也、前の空地は網打場也、今は過半庶民居住す(『三原市史』第四巻(『三原志稿』巻之一))

この中で気になるワードを調べてみると・・・

192間=349.091mということなんですが、これは東築出のエリアが南北に192間の長さだってことかな。

「船問屋」とは、コトバンクによりますと、

江戸時代から明治初期までの廻船問屋をいう。積荷の集荷,船主との契約による積荷の運送などの業務を営んだ

とのこと。

ちなみに「問屋株」とは、「株仲間」といういわゆる「カルテル」のことで、『三原志稿』編纂の20年くらい前まで幕府の老中だった田沼意次(たぬまおきつぐ)が推奨した経済政策だったみたいで、どうやらこの書物が書かれたころにまだそれが残っていたみたいですね。

田沼意次とか高校の時の日本史以来だなぁ(笑)

「水主」とは、またまたコトバンクによりますと、

船の乗組員。ふなのり。かこ。

とのこと。

要するに、東築出というエリアは船に関わる人たちが生活を営んだ町だったのでしょう。

とはいえ、江戸時代と一口に言いましても250年ありますから、町の様相も少しずつ変化が見られます。

この絵図は、1644(正保元)年に幕府が提出させた「備後国之内三原城所絵図」(正保城絵図)という三原城の絵図で、現存する最古の三原城の絵図といわれています。



この絵図での東築出エリアを見てみると・・・



東築出堀東側の「町屋」エリアは、詳細は描かれていませんが、『三原志稿』の記述からすると船に関係する人たちの居住地だったのでしょう。

一方、堀の西側のエリアは絵図上に「侍屋敷」や「侍町」と書かれているので、どうやら武士の住まいだったようです。

この侍屋敷・侍町エリアには二重櫓(にじゅうやぐら)が4基建っていますが、これは小早川隆景の築城当時からあったものではなくて、福島正則が関ヶ原の合戦後に安芸・備後の領主になった際に築造したものといわれています。

ちなみに、福島正則は4/17放送の大河ドラマ「真田丸」に登場!大酒呑みの市松として豊臣秀吉から紹介されていました。これからの活躍が楽しみです♪



また、侍町の門は石垣や堀で作ったクランク喰違虎口になっていたようです。海から敵が攻めてきた時の備えかな?この門の右脇に「船入」があって、船を停泊させてここから上陸できますからね。


そんな東築出エリアに時は流れ・・・

幕末に描かれた「備後國三原城繪図」だと、東築出はこんな感じに変化します。



この絵図では町屋エリアの詳細が絵図に書き込まれています。

『三原志稿』で「水主町の前の空き地が網打場」だと書かれているので、御舩手多聞は船乗りさんの住居で、「海手の船入の家屋は船問屋」だと書かれているので、多聞長屋は船問屋なのでしょう。

そしてもう一つ。侍屋敷エリアには屋敷がいくつかあるものの、新たに「構武所」「大砲鋳造場」が設置されています。




「構武所」
とはWikipediaによりますと、

幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。


とのこと。

一方、「大砲鋳造場」は、幕末なので、異国船を打ち払うための大砲を造る目的で設置されたのでしょうけど、隣の構武所で練習してたんですかね。


そして最後にその後の東築出エリアについて触れておきます。

明治維新後、新政府の発した「廃城令」により三原城は解体され、この東築出では、船入があった外堀が魚の養殖場として利用されたようです。

そして大正時代には外堀も埋め立てられ、やがて工場用地となり、現代では商業用地へと変遷していったそうです。


というわけで、東築出というエリアがどんな場所だったのか調べてみた内容をお伝えいたしました。

今回も長い文章になってしまいました(^_^;)

読んでくださった方に感謝です!ありがとうございます!

さて次回は、現在のこのエリアに残っている東築出の痕跡を辿ります!



つづく
Posted at 2016/07/21 19:05:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年04月13日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その六 東築出堀(妄想)編②】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その六 東築出堀(妄想)編②】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前回、「コンビニの裏の石垣のある溝は堀の痕跡だ!」と妄想したんですが、性懲りもなく今回はその続きです!(^_^;)

またもや、断定できるような資料がなく、勝手に妄想してみた結果ですので間に受けないようにお願いします(笑)


○溝は堀があった痕跡??

で、まずはおさらいですが、前回、コンビニの裏でこんな石垣のある溝を発見したわけですが。



今回はその溝の続きを探ってみます!

溝の続きはこんな感じで暗渠(あんきょ)になって道路の下を通って南側に続いていて・・・



コンクリートで固められた実に近代的な溝はさらに南へと伸びていき・・・



イオン三原店の東側の脇を通って・・・




途中で東側に折れて・・・



住宅地を通って・・・





この先の和久原川へ流れて行く・・・というわけです。

これを毎度おなじみGoogle mapで確認するとこんな感じ。



で、これは前回の石垣の溝と同じ東築出堀のあった痕跡・・・というか名残りなんじゃないかと妄想するわけです。



Google mapと昔の絵図を比較するにあたって基準になるものを探してみると・・・どうやら、東町の小路(つまり、東町の町割り)と、和久原川に架かっている橋(今橋)の位置は変わっていないようなので、これを基準にして比べてみるとこんな感じ!



ホラホラ!なんだか堀があった場所に溝が作られているように見えてきませんか〜?(笑)


でも、今回の溝にはわかりやすく石垣があるわけでもないので本当に堀があった場所なのかどうかはっきりしませんが、図書館で『三原市史』をめくってみると、この溝に関してわかったことが一つありました。


○水路と大正時代の新開

『三原市史』第三巻によれば、大正時代に東築出の南側が埋め立てられたとき、その埋め立て地(新開)を水田として使うのに必要な農業用水を引き入れるため、ちょうど和久原川の水刎があった場所に堰堤を作ってそこに樋管を通し、和久原川の水を館町を流れる「泰雲寺小川」へと流し込み、その水を今回追いかけている溝、そしてその先の埋め立て地(新開)へ送る・・・という計画があったということでした。結局、和久原川に堰堤は作られなかったようですが。

要するに、今回の溝は農業用水路として作られた可能性があるってことですね。


『三原市史』第三巻にはその図が載っていたんですが、図書館でそれを撮影するわけにもいかなかったので、自分でGoogle mapに書いてみたんですが、こんな感じでした!



ヘタでわかりにくいと思いますが(>_<)

今は途中で東側に折れ曲がっているこの溝は、元々はさらに南側へと続いていたようです!

『三原市史』に載っていた図を見ると、この水路は東築出堀の縁(へり)、そして東築出の曲輪の南端の縁(へり)に沿って続いているようでした!

ということは、この水路は曲輪に隣接する堀の縁(へり)を利用して作られた水路だったってことではないでしょうか!

ちなみに、平成27年2月発行の広報みはらに載っていた干拓や埋め立ての歴史の図に「渡辺新開」と記されている場所が、大正時代に造設された東築出の南側の埋め立て地です。



ついでに「泰雲寺小川」にも触れておきますと、今は川があったとはわからない風景になっていますが、この狭い路地が川だったのだそうで、「昔はここに川が流れていた」っていう話をこの近くに住む高齢の方から聞いたことがあります。



また、写真を見てみても、この狭い路地にグレーチング(網目状の溝のフタ)がいくつも続いているのがおわかりいただけるかと思いますが、要するにこの道の下が暗渠になっていて、下に水が流れているということですね。

そう思って見てみると、左の駐車場とこの路地の境目に小さな高低差がありますが、路地の方が低くなっていますよね。これは川であったときの痕跡なのかもしれません♪

・・・って、気がつけば、東築出堀について書いていたはずなのに、いつのまにか全然別の場所の小川の話になってしまってますね(^_^;)

溝の話に戻しますと・・・

結局、東築出から大正新開(渡辺新開)にかけての土地は、1917(大正6)年に日本ラミー紡績(後の東洋繊維・トスコ)の工場が開設されるなど工場地となり、その時点でこの溝は農業用の水路として使われることはなくなり、いつの時点かはわかりませんが、流路を途中で東に曲げて、小川の水を和久原川に流すようにした・・・ってことかなぁと妄想するわけです。



というわけで、今回は長々と、しかも気がつけば全然お城の時代ではない大正時代の歴史の話になってしまうという大脱線ぶりで自分でも驚きを隠せませんが、結論です!

この溝の東側に折れ曲がってるところから北側の部分は昔の東築出堀の縁(へり)を利用して作られた水路だった‼︎

という妄想でした!

ふぅ、長かった・・・(^_^;)



つづく

Posted at 2016/04/13 21:56:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年03月26日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その五 東築出堀(妄想)編①】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その五 東築出堀(妄想)編①】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回は、前々回ご紹介した和久原川の水刎を現地で確認する過程で発見した石垣について考えてみようと思います。

個人的には「これは多分、東築出堀(ひがしつきだしほり)という三原城の堀の石垣の一部なんじゃないかな・・・」と思うんです。

が、図書館に行って『三原市史』をめくってみても、三原城の遺構の記述の中で「東大手門南付近の石垣」という記載はあるんですが詳細は書かれていないんですよね。

それではっきりしないので、今回のタイトルは「東築出堀(妄想)編」とさせていただいております(^_^;)

さて、まずはいつものようにGoogle mapで場所の確認です。今回はココ!



拡大するとこんな感じ。



そう、コンビニの裏の溝です(笑)



これ、全然知らなかったんですけど、水刎の付近をウロウロしてたらたまたま見つけて。



なんとも雰囲気のある石垣が溝の奥にあるのがお分かり頂けると思います。



よく見ると矢穴もあるし♪

【矢穴】石垣に使う石を割るときに開ける穴。



溝の東側の石垣は南へ続いていく。西側のは比較的新しい石積みでしょう。



南側に回りこむと・・・



半分から上は新たに積み足されたものですが、半分から下は石垣の角が算木積みになっていて、見るからに古そう。

【算木積み】崩れやすい石垣の角の強度を高めるための石の積み方。直方体に加工した石を使って、石の長辺を石垣の角の両面に交互に出すように積む。



さて。この石垣は、和久原川の水刎の位置を参考にして昔の絵図で確認すると・・・ココか?



『三原市史』に記されているように、東大手門の南付近だし。



まぁ、形状が違うけど、Google mapと幕末の絵図じゃ正確性に差があって当然だし。

ちなみに、第二回目でご紹介した船入櫓跡で見つけた近年の三原の地図と三原城の絵図を重ね合わせた図によればこんな感じ!





・・・これ、せっかくのいい資料なのに、かなり色あせてるうえに地図が古く、今とはまた道路とか違うんで何とかして欲しいんですけどね(^_^;)

でもまぁ、こっちの方が堀と溝の形状が近いようには見えますけどね〜


というわけで、長々とお話ししてきましたが、今日の結論!

この溝の石垣は、「元々は東築出堀だったが、近代になって埋め立てられて幅が狭められ、それでも残った三原城の石垣」だと思いたい‼︎



という妄想でした(笑)






つづく
Posted at 2016/03/26 20:18:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

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「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
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