
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
2回にわたって
東築出堀(ひがしつきだしほり)について妄想してきました。
今回は
東築出(ひがしつきだし)という曲輪(くるわ)それ自体に残る三原城の痕跡を辿り、東築出シリーズを終えたいと思います。
・・・が、色々調べているとこのエリアの説明だけで長くなってしまったので、また2回に分けてアップしようと思います(^_^;)
ちなみに、トップの画像は三原駅にある三原城の模型のうち、今回取り上げる東築出エリアを撮影したものです!
さてさて。
まずは、東築出の場所の確認です。いつもの三原城絵図でいえば大体この部分になります。
この東築出をGoogle mapで記してみると、大体この範囲かと。
現在はその大部分が商業地になっています。
それでは、東築出はどんな場所だったのか。
『三原市史』第四巻には、江戸時代の1804年に編纂された
『三原志稿』という書物(地誌)が掲載されているんですが、そこにこのような記述があります。
築出(東築出) 百九十二間
御築城の折から築出されし地也といふ、爰の海手の船入の家居は船問屋にて、今にても問屋株残れり、又上手の町並みは水主町也、前の空地は網打場也、今は過半庶民居住す(『三原市史』第四巻(『三原志稿』巻之一))
この中で気になるワードを調べてみると・・・
192間=349.091mということなんですが、これは東築出のエリアが南北に192間の長さだってことかな。
「船問屋」とは、
コトバンクによりますと、
江戸時代から明治初期までの廻船問屋をいう。積荷の集荷,船主との契約による積荷の運送などの業務を営んだ
とのこと。
ちなみに「問屋株」とは、「株仲間」といういわゆる「カルテル」のことで、『三原志稿』編纂の20年くらい前まで幕府の老中だった田沼意次(たぬまおきつぐ)が推奨した経済政策だったみたいで、どうやらこの書物が書かれたころにまだそれが残っていたみたいですね。
田沼意次とか高校の時の日本史以来だなぁ(笑)
「水主」とは、またまた
コトバンクによりますと、
船の乗組員。ふなのり。かこ。
とのこと。
要するに、東築出というエリアは
船に関わる人たちが生活を営んだ町だったのでしょう。
とはいえ、江戸時代と一口に言いましても250年ありますから、町の様相も少しずつ変化が見られます。
この絵図は、1644(正保元)年に幕府が提出させた
「備後国之内三原城所絵図」(正保城絵図)という三原城の絵図で、現存する最古の三原城の絵図といわれています。
この絵図での東築出エリアを見てみると・・・
東築出堀東側の「町屋」エリアは、詳細は描かれていませんが、『三原志稿』の記述からすると船に関係する人たちの居住地だったのでしょう。
一方、堀の西側のエリアは絵図上に「侍屋敷」や「侍町」と書かれているので、どうやら武士の住まいだったようです。
この侍屋敷・侍町エリアには
二重櫓(にじゅうやぐら)が4基建っていますが、これは小早川隆景の築城当時からあったものではなくて、
福島正則が関ヶ原の合戦後に安芸・備後の領主になった際に築造したものといわれています。
ちなみに、福島正則は4/17放送の大河ドラマ「真田丸」に登場!大酒呑みの市松として豊臣秀吉から紹介されていました。これからの活躍が楽しみです♪
また、侍町の門は石垣や堀で作ったクランク
喰違虎口になっていたようです。海から敵が攻めてきた時の備えかな?この門の右脇に「船入」があって、船を停泊させてここから上陸できますからね。
そんな東築出エリアに時は流れ・・・
幕末に描かれた
「備後國三原城繪図」だと、東築出はこんな感じに変化します。
この絵図では町屋エリアの詳細が絵図に書き込まれています。
『三原志稿』で「水主町の前の空き地が網打場」だと書かれているので、
御舩手多聞は船乗りさんの住居で、「海手の船入の家屋は船問屋」だと書かれているので、
多聞長屋は船問屋なのでしょう。
そしてもう一つ。侍屋敷エリアには屋敷がいくつかあるものの、新たに
「構武所」と
「大砲鋳造場」が設置されています。

「構武所」とは
Wikipediaによりますと、
幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。
とのこと。
一方、
「大砲鋳造場」は、幕末なので、異国船を打ち払うための大砲を造る目的で設置されたのでしょうけど、隣の構武所で練習してたんですかね。
そして最後にその後の東築出エリアについて触れておきます。
明治維新後、新政府の発した「廃城令」により三原城は解体され、この東築出では、船入があった外堀が魚の養殖場として利用されたようです。
そして大正時代には外堀も埋め立てられ、やがて工場用地となり、現代では商業用地へと変遷していったそうです。
というわけで、
東築出というエリアがどんな場所だったのか調べてみた内容をお伝えいたしました。
今回も長い文章になってしまいました(^_^;)
読んでくださった方に感謝です!ありがとうございます!
さて次回は、現在のこのエリアに残っている東築出の痕跡を辿ります!
つづく
Posted at 2016/07/21 19:05:46 | |
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