
夏の終わり頃、詳しくは聞いていなかったが隣街の住む私の妹から「お父さんが体調悪いから病院連れて行く!」とメールが入った。
あらゆる重病を経験してるし、ずっと加療してたから正直またか!と思った。
不仲だったのはご存知?の通り、気にしていなかった。
9月初め、仕事中に母が泣きながら来た。
その時に初めて白血病と知った。
その日の夜半に家族が病院に呼び出されて、病状なり治療予定なり、そして告知するか否かを問われた。
突然にそんな事を聞かれても…とは思ったけど多少の知識はある私は告知しないで症状緩和の対処療法希望すると意見した。
妹は積極的に加療を望んだが、母親の気持ちを加味して告知しない方向でと意見はまとまった。
年齢、現病歴、さまざまを持ち寄ったらそうすべきと私は思ったし、医者も専門知識と経験から同じ考えだった。
それほど困難な病気だ。
白血病は輸血によって見かけの症状は一時的に緩快する。
入院退院を何度も繰り返していた。
白血病自体の症状が悪化していくと言うよりは二次的感染が怖い。
最初の退院が決まった時、父の乗っていたトヨタの四駆がタイミング悪く車検が切れる寸前で、自分の病を知らない父は経済的にも厳しい私に当たり前のように新車を買ってくれと言ってくる。
気持ちはわからない訳ではないが、医療費に四苦八苦している私にとって物理的に無理な相談だったし、目も耳も悪く、何時心臓発作が出てもおかしくない状況下ではもうクルマは乗らないで欲しかった。
思い通りにならない息子なんだと思った筈だ!
現病状を話す訳にもいかず、葛藤の苛立ちが頂点に達して、気性がソックリな父と何時ものように衝突した。
顔を付き合わせたら衝突してしまう親子だから、その度に血圧を上げてしまうだろうし、その状態で限りある僅かな寿命を更に縮めてしまってはいけないと思った。
しばらくして、格安の軽自動車を買ったと母親から聞いた。
また入院して、肺炎を併発したらしいと連絡があった。
タイミングが悪く、また後日に綴るつもりではあるが、私にとって下手をすると人生を左右するかも知れない事がおきていた。
11月の18日、具合が少し落ち着いているから様子を見に行ってあげてと連絡が入った。
仕事終わりに入院先に出向いた。
肺炎の為、呼吸はかなり辛そうだった。
寝るに寝れない状態が続いていたようで朦朧とはしていたけど、話をする事が出来た。
話というよりは現病状を全身で伝えようとしてたみたいだった。
パジャマのボタンを自ら外して説明しようとする。
それを「身体冷えるから…」と端から私がとめていく。
また明日来るよ!と夜10時頃だったから病室を後にした。横になれない状態だったからベットの上のテーブルに肩肘ついたまま父は片手をあげた。
翌日、診療室で昼頃、弁当箱の蓋を開けた時にカミさんの携帯が震えた。
席を外して電話に出る遠くで聞こえる「エッ…」と言う絶叫に近い声。
私は直ぐに察して手をつけていない弁当箱を閉じた。
訃報だった。
午後の患者の逆キャンセルの連絡をカミさんに託し、スタッフは帰宅するよう促してプリメーラに飛び乗った。
時間帯にもよるけど15分で病院に着く。
妙に落ち着いていた自分に驚いていた。
同時に自己嫌悪でもあった。
母は予期していた事もあって涙ながら冷静だった。
死んでいく瞬間に立ち合えたのは母だけで辛かったろう…
医者や看護師達は父の遺体を整えてくれているらしく私達は富士山がよく見える面会室のような所で待っていた。
あらかじめ医者に、とにかく苦しまないようにと念を押してお願いいた通り、割と静かに息を引き取ったらしい。
前日には病院食も全部食べたと言うし、車イスで富士山が見たいと出歩いたらしい。
親父の親父、つまりじいちゃんの亡くなった日を1日超えられたと冗談混じりで母に話をしていたと言う。
そう、偶然にもじいちゃんの亡くなった年齢プラス1日まで父は生きた。
スタッフのコ達は帰らないで患者の連絡をかって出てくれ、カミさんも慌てて病院に来てくれた。
なんと安らかな死に顔だろう。
今にも目を開けて私にまた文句でも言い出すのではないかな…そんな気がしてならなかった。
そうあって欲しかった。
前の日、「明日来るよ!」と約束したじゃない。
仕事がらみでゴタゴタしてるのになんで今なんだよ!
聞いておきたかった親父の人生、まだまだ知らない事ばかりじゃない…
まだ、伝えたかった息子の本当の気持ち、言ってないじゃないか。
(私の)娘が嫁に嫁ぐまでは絶対死なないって言ってたじゃない。
母親独りにしたら困るじゃないか。
喧嘩したまま二度と私から謝れないなんて卑怯だよ。
まだ貴方の自慢の息子は半人前のままじゃないか。
…ああ!
母は一刻も早くその病院から父の亡骸を出したいと言った。
住んでいた家は父は嫌っていたから家には帰したくないと言った。
予想していたみたいで葬儀やるなら母が病院に通ってくる途中の家族葬専門の施設に全て託す事にした。
ごく内々で…とは言え、訃報を伝えるのは大変だった。
私達家族、親父の兄弟とその家族…
父の姉の家族に連絡出来たのは式当日の数時間前だった。
母は喪主、私は施主になるが、今まで母に全てを任せっきりだったし、せめて最後位はとほとんど私が仕切った。
緊張感とか忙しさ、そんな事もあるだろうが訃報聞いてから親父の死に顔を近くで見ていても不思議と涙は出なかった。
まだ実感がなかったのだとも思う。
通夜は進み、挨拶は私が行った。
決まりきった原稿を渡されありきたりな挨拶を話していたが、原稿を途中で畳んでしまい私達親子の思い出なんかを話してみたくなった。
思いを言葉にしようとしたその時、何故だか急に涙が止めどなく出てきた。
誰が見たって恥ずかしい位にクシャクシャになった。
言葉は言葉にならなかったが気持ちはみんなには伝わったと思う。
もちろん親父にも…
この時の私の恥態も、経を読んで頂いた縁のなかったお坊さんにも伝わっていて、後に坊さんに挨拶をした時、心を打たれたと言って下さった時にまたぼろぼろに泣けてきた。
不思議な事があった。
通夜の次の日、葬儀儀式でお経を聞いていたが、私の妹の四才の息子が突然騒ぎだし旦那が外に連れ出した。
後で聞いた話なんだけどその子はお棺から「じいちゃんが出てきた!」と言っていたらしい。
子供って正直だ。わざわざ嘘をついてふざけるなんて考えにくい。
信じられないけどきっとそうなんだろう。
荼毘にふされた親父の骨はけっこうしっかりしていた。
私は専門の下顎を入れた。
普段沢山見ているからこんなに小さかったんだと変な感じを受けていた。
このブログを投稿するにあたり、ずっと躊躇していた。
父親が居なくなってもう1ヶ月も経ってしまった。
未だに実感わかず、未だに落ち着かない。
しなければならない事も何一つ出来ていない状況だ。
大事な人が死んでしまうと残された人間は心情的にも時間的にも、そして言いたくないけど正直経済的にもこんなに大変なのだと初めて知った。
だから、それだけの理由で人は死んではいけないと思った。
もちろん本人が一番辛い想いなのは間違いないのだけど…
親父は今、何処にいるのだろうか?
コッソリと私の背後で説教でもたれてるんだろうか?
それともダメ長男の私に愛想尽かして天国への階段でも昇っているんだろうか?
親父はどんな気持ちで旅だって行ったのか…私の気持ちとか伝え切れず、知らぬまま旅立ってしまった親父は最後は何を思っていたのか?
何もかもが中途半端なまま、永遠に別れる事になってしまった事に、悲しいとかそれ以前に自分が情けない。
言えなかった事、ここに記しとく!
ホントごめんね!
そして、ありがとう!