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sato (水曜どうでしょう)のブログ一覧

2012年03月20日 イイね!

「女川町商店街復幸祭」

今日のどうでしょう 藤村さんの日記より 

さて、昨日の夜、我々は宮城県女川から帰ってまいりました。

仙台空港まで、女川の蒲鉾屋「高政」の高橋くんがわざわざ車で送ってくれて、「じゃあ、ありがとう」って搭乗口に行こうとしたら、「いや、ちょっと寂しいんで・・・」と高橋くんが言うので、嬉野さんが「じゃあね、ちょっとお茶でも飲みましょうかね」と、空港のレストランに入って、搭乗時間まで話をしておりました。

「いやぁーなんか、夢のような3日間でした」と、彼は言っておりました。

3日前の土曜日。

同じように高橋くんが仙台空港まで迎えに来てくれて、我々は女川に向かいました。

空港から、無料になっている高速道に乗り、石巻のインターで降りました。

「ちょっと遠回りになりますが、海岸沿いの道をいきます」

そう言って、車は石巻の被災地を走りました。そこには、テレビで見た通りの風景があって、1階部分が筒抜けになっているような家が点在しており、いまだに建て直しのできていない、壊れたスーパーマーケットがありました。これは 私が去年まで働いていたスーパーです。

悲しいとか、言葉が出ないとか、私にそういう感情はなく、「元々ここにはなにがあったの?」というようなことを高橋くんに聞きました。それに対して高橋くんも、「あ、ここにはびっしり家が建っていました」というようなことを普通に答えておりました。

やがて車は、女川町に入りました。女川町に入ったあたりの家は、先ほど見た石巻の沿岸部とは違って、普通に家が建っている感じでした。

「ここらへんは変わってないの?」
「そうですね、ここらへんは床上浸水ぐらいだったので」
「あぁーそうなんだ」

でもなんだか、車窓から見る海岸の風景に違和感のようなものを感じたので、聞きました

「なんか、海がやたらと近い感じがするんだけど・・・これって、昔からこんな感じ?」
「いや、全然変わりました。土地が1メーター以上沈んだんで、海がすぐそこまで来ちゃいましたね」
「おーやっぱりそうなんだねぇ・・・」
「道路もだから、かさ上げしてるんですよ。そうしないと満潮で道路が沈んでしまうんで」

「なるほどねぇ」なんて思いながら、しばし、異常に近過ぎる海岸線を眺めていると、そのうち車は海岸線を離れ、山道に入りました。

「あの、こっからちょっと、風景がガラリと変わるんで・・・」

と、高橋くんが言い、車は山道を下りはじめました。

するといきなり目の前に、なにもなくなった、さら地の、女川の町が見えました。

「あー・・・」

ショック、というのはなかったです。

だって、テレビで何度も見たことのある風景ですから。港の近くの茶色い「マリンパル女川」という建物が、壊れたまま残っており、その隣にあった3階建てのビルが横倒しになっていて、それはテレビで何度も見たことのある風景だったから。

夕暮れの迫った女川の、さら地の中に車が降りていき、そして、高台にある病院の駐車場まで再び坂道を登り、車を停めました。ここは去年健康診断をした女川町立病院です。

車を降りて、駐車場から、さら地となった女川の町を眼下に一望してみる。

実際にそこに立ってみると、テレビの映像で見ていたものとはまるで違う、「なにか」を感じました。

その「なにか」は、たぶん人それぞれで違うと思います。でも、実際に立ってみると、「テレビの映像とは違うなにか」が、それぞれに感じるはずです。

私の場合はまず、「女川の町って、狭いんだなぁ」と感じました。

そして、「こんな狭いところに、何千人もの人たちが住んでいたんだなぁ」と思いました。

「人間は、そういうところに町を作って暮らしているんだなぁ」と

「人々が作り出す町」というものの、なにか根源的なカタチを見ようとしていました。

私は、元の女川の町の様子を知らないので、眼下に広がっているさら地となった現在の様子から、元の町の姿を想像してみました。

「海沿いには市場があって、たぶんあそこが交差点で、その周りにはたぶんお店が立ち並んでいて・・・」と。

そうやって、想像の中で、女川の町を組み立てていました。

すると高橋くんが不意に、「津波はこの病院の1階まで来たんですよねぇ」と言いました。

そこで初めて愕然としました。

「いや、ウソだろう?」って。

だって、海は、はるか眼下にあるんです。

「でも、ほら、あのマリンパルの屋上まで津波が来たんですよ。あそことここって、ほぼ同じ高さでしょう」

確かに。確かにそうなんです。でも、どう考えても、眼下に見える海がここまで来るっていうことが、想像できないんです。

それは、テレビの映像ではわからない、実体でした。

実際にそこに立ってみると、「どう考えてもあり得ないこと」が、「実際にここで起きた」ということが、いやおうなくわかります。

恐怖、とかではなく、畏れというか、太刀打ちできないなにか、というか・・・。


「あのとき、実際にどんなことを感じたんですか?」

私は遠慮なく、いろんな人に聞きました。

「あー・・・・って言うしかないんですよね。あーあーって」

「あとは、笑っちゃうんですよね。信じられなくて。いやいや、おいおいって、笑いながら、泣いてるんですよね」

太刀打ちできないものに直面したとき、人はなにもできない。

そうやって、なにもできないうちに、いろんなものを失ってしまう。

「そういう絶望的なところから、どのぐらいで立ち直るというか、次のことを考え始めるんですか?」

「2か月ぐらい経ってからかなぁ」
「おれはもう3日目ぐらいから動こうと思ってた」
「おれは年が明けてから、ようやくだな」

人それぞれに立ち直るまでの時間は違い、まだまだそんな気持ちになれない人もいるだろうけれど、でも、人間は「またここから」やり直そうとするんです。

また、あの狭い土地に、ひしめきあって暮らしたいと思うんです。

それは、知性とか理性とか感情とか、そういうものではなく、どうしようもなく沸き上がってくる人間の「本能」ではないか、と思ったんです。

太刀打ちできない自然に対して、人間はまず本能で向かっていくしかない。

「生きてく」「暮らしていく」という単純な本能に目覚めた者が、次に、知性と理性を使って、またここで生きていくための方策を立ち上げていく。

「今はもう、やるしかないですもんね。絆とかなんとか、いろいろ言ってるけど、そんなものはもう、言われなくてもわかってんです。次のことを考えていかないと」

今回、女川で復興イベントを立ち上げた人たちの口から、「悲しい」という言葉は一度も聞きませんでした。感情を表す言葉で、彼らが口にしていたのは「うれしい」、という言葉だけでした。

彼らはもう、「またここで暮らしていく」という本能に突き動かされて、そのための方策に邁進している。

日曜日に開かれたイベントは、女川の若手たちが企画し、自分たちで実行した「祭り」でした。

「祭り」という言葉に、拒絶反応を起こした人たちも少なからずいたそうです。それでも彼らは「祭り」と銘打ったイベントを、女川でやった。

町民の10人にひとりが命を失った女川の町で、彼らは、1年後に「祭り」をやったんです。

それは、多くのテレビが、あれから1年経った今でも、震災という「事実」と、それに対する人々の悲しみややるせなさという「感情」ばかりを押し出して、余計な気遣いしかコメントできない報道とはまったく違い、人間が自然に立ち向かう本能に根ざした、力強く、正直なイベントでありました。

「女川町商店街復幸祭」という名に刻まれている「商店街」は、まださら地のままです。まだ復興していません。でも、会場となった総合運動場には、日曜日、数多くのテントが並び、そこに女川町の名産品が並びました。

祭りの開催宣言をした若き女川町長は、満面の笑みでこう言ったそうです。

「ご来場のみなさま、本日はお時間の許す限り、そしてご予算の許す限り!祭りをお楽しみください」

その的を得た言葉に、みんな笑ったそうです。

女川町にあった「秀光堂」というレコード屋が、テーブルをひとつ出し、そこに、ゲストに呼ばれた樋口さんのCDを並べました。

樋口さんはステージの上から、こう言っておりました。

「僕は普段、CDを買ってくださいなんて言わないけど、今日は言います。買ってくれ」

テーブルの前に行列ができ、この日、秀光堂は復活の第一歩を刻みました。

「とにかく人に来てもらって、女川を見てほしい。そこから始めないと、なにも始まらない。女川に人が来なくなったらダメになる」

そのわかりやすい趣旨に賛同し、我々は女川に行きました。

初日の夜は、女川の工務店の敷地に建てられたコンテナの居酒屋で、イベントの実行委員会の連中といいだけ酒を飲み、バカ笑いをし、2日目の夜は、石巻の「BAMBOO SHOOT」という店で、「女川さいがいFM」のスタッフたちと、店のマスターといいだけ酒を飲み、最終日は、「高政」でビールを飲みながら蒲鉾を食い、昼メシは港の「おかせい」で、毛ガニと特上寿司をいただいて、満腹で仙台空港に向かいました。

被災地に行って、こんだけ満喫してきた我々は、「不届き者!」と呼ばれるかもしれませんが、いやいや、女川にはいっぱい美味いものがあるんだからしょうがない。

そして、楽しい連中がいるからしょうがない。

日曜日にイベントに来てくれたみなさん、どうもありがとう。

おかげさまで、祭りの来場者は、1万人。女川町の人口を超えたそうです。

祭りに来られなかった人も、機会があれば、ぜひ女川に足を運んでみてください。町の様子にショックを受ける人もいるかもしれませんが、それ以上に、テレビでは伝わらないなにかを感じるはずです。

それは、人間にとって、とても大事なもののように思います。

私も嬉野さんも、そして一緒に行った四宮さんも、女川の町の写真は一枚も撮りませんでした。

私たちにとっては意味がないと思ったからです。写真を見せても何も伝わらないと思ったから。

私は、今はさら地のこの町が、これからどうなっていくのか、そこにすごく興味があります。それは、おおげさではなく、世界中の人類が注目していることだと思います。飲みながら、こんなことを言いました。

「キミらは間違いなく、世界のトップを走っているんだよ。人類がこれからどうやって生きていくのか、どうやって立ち直っていくのか、それをみんなが見ている。ものすごい犠牲を払っているんだから、それを利用しない手はない。したたかに、したたかに、やっていこうよ」

町のある人は言いました。

「これまでの1年は、ある意味、みんな平等だったと思います。みんな、それぞれに被害を受けた。でもここから、先に行こうとする人と、それに追いつけない人との差が生まれてくると思います。追いつけない人を放っておいて先に行ってはいけない。そこも取り込んでいかなければいけない。それがたぶん、これからの問題になってくる。そこが一番難しいでしょう。だって、本来なら100年かかって作る町を、10年ぐらいでやろうとしてるから、問題もきっと大きい」

とても冷静な視点だと思いました。

「でも、おれらが先に行かないと何も始まらんよ。おれは先に行くことを考える」

別の人は、そう言いました。

また、女川町に行こうと思います。この町がどうなっていくのか、この町の人々がどうやっていくのか、見ていきたいと思います。でまた、いいだけ一緒に酒を酌み交わしたいと思います。

普段の生活をしているみなさん できれば 被災した街に遊びに行ってみては貰えないでしょうか

少しでも その土地が 立ち上がる手助けを お願いします。

本日 他のタイトルでブログを書こうと思っていましたが ぜひみなさんに 藤村さんの 心の一文を読んで欲しくて 題材を変えました。

長文 お付き合いありがとうございます。
Posted at 2012/03/20 19:00:49 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2012年03月19日 イイね!

宝物

宝物3月4日のラグーナ蒲郡で『MINIの日チャリティオークションオフ会』の前日

みんカラ友達の 銀ちゃん&てでぃ ちゃんと 楽しい知多半島オフ会での 夜景写真

銀ちゃん から 写真のデーター もらったので 引き伸ばしてみました

A1サイズ さすがに 迫力あります

宝物が一つ増えました。

ありがとう 銀ちゃん&てでぃ。



Posted at 2012/03/19 18:52:22 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2012年03月13日 イイね!

【お知らせ】 「女川町商店街復幸祭」

【お知らせ】 「女川町商店街復幸祭」18日(日)水曜どうでしょうの 藤村さん、嬉野さん、そして樋口了一さんも!宮城県女川町に来るそうです。

「女川町商店街復幸祭」のイベント告知サイトがオープンしました。

http://serve-it.jp/onagawa/index.html

1.皆さん十分暖かい格好で
2.時間は早めで
3.車がある方はマイカーで、あるいは友達同士乗り合いで

お越しいただければと思っています。

・・・とのことでございます。

どうでしょうの今日の日記より

3月12日月曜日。藤村でございます。

昨夜、東京MXテレビさんで、最新作の放送がスタートいたしました。

関東圏では順次、放送がスタートいたします。

たいへんお待たせいたしました。

1年ほどお待ちになりましたな。

昨年の今ごろは、東北各地で新作の放送がスタートした時期でありました。

1年が経ちましたか。

あの日、宮城県の女川では、こんなことがあったそうです。

高台に、車に乗った人々が続々と避難してきた。真っ暗闇の中で過ごす最初の夜。周りにいる人たちに向かって、ひとりの男が、こう叫んだと。

「ここをキャンプ地とする!」

周りにいるみんなは、思わず笑ってしまったそうです。

その男は、高橋という名で、彼の家は女川で「高政」という蒲鉾屋をやっています。「高政」の工場は、津波の被害が他よりも少なく、浸水はしたけれど、動かせるラインがあった。そして、工場の冷蔵庫には、蒲鉾の材料になるすり身が大量にあった。それで「高政」は、震災の数日後にはそのラインを動かし、どんどん蒲鉾を作り、町の人たちにどんどん配ったそうです。

その高橋という男が、わざわざ札幌まで足を運び、我々に会いに来てくれました。

今週末、18日の日曜日に女川でイベントがあるそうです。そのイベントに、来てくれないかと。

彼は、今回のイベントの意味をこう話してくれました。

「もう、野次馬でも物見遊山でも構わないから、今は、とにかくたくさんの人に女川に来てほしいんです。両親を亡くした女子高生の子は、これまで取材が来るたびに逃げていました。でも今は、自分から『取材を受けます』と言っています。ぼくも、テレビだろうが雑誌だろうが、それがどういうふうに扱われようと、取材を受けていこうと思います。だって、一番怖いのは、女川を忘れられてしまうことですから。忘れられて、誰も来なくなったら、復興なんかできませんから」と。

それを聞いて、嬉野さんは言いました。

「だったら、私のような人間でも、ようやく被災地に行けます。自分は震災の被害を受けていない人間だから、あなたたちの気持ちはいくら想像したってわからない。『わかったつもり』すらできない。だから、一緒に悲しむこともできない。気の利いた言葉をかけることもできない。それどころか不謹慎なことを言ってしまうかもしれない。そんな人間だから、震災の話も簡単にはできない。でも、こんな人間でも来ていいと言ってくれるのなら、私もようやく行けます」と。

日曜日、私と嬉野さんで女川に行きます。

東北の諸君。遅くなりました。

すぐに行けず、申し訳ありませんでした。

諸君はもう、十年以上も前から我々の番組を知っていてくれました。ずいぶん前から我々の友だちでいてくれておりました。

でもこの番組は北海道で生まれたから、諸君は、幼なじみの友だち、という間柄ではないでしょう。でも私は、北海道からやって来た転校生に、最初に声をかけてくれた、涙が出るほどうれしい友だち、そんな間柄であると、勝手に思っています。

キミたちは、この1年を、どう過ごしていましたか。

ずいぶん遅くなってしまったけれど、勝手に親友と思っているキミたちに、ようやく会いに行こうと思ってます。

一緒に、酒でも飲みましょう。

日曜日に女川の総合運動場で開かれるイベント「女川町復幸祭」でお会いしましょう。

イベントの詳細は、まもなく告知されるそうですので、お待ちください。


高橋くんの家は、その後、「女川で生き残っている数少ない会社ですから」と、女川の人たちを新たに従業員に雇っているそうです。無理をして。

でも、「高政」が作っている蒲鉾は、バカみたいに肉厚で、バカみたいに美味しいです。女川に来て、たくさん食べたほうがいいですよ、これは。

ぜひ たくさんの参加をお願いします。
Posted at 2012/03/13 22:38:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | どうでしょう | 日記
2012年03月09日 イイね!

あれから一年……

あれから一年……私の生まれた街です,
現在も震災当時と一つも変わっていません。

東北地方太平洋沖地震による津波で壊滅的な被害を受けた岩手県上閉伊郡大槌町が、地震当時、津波にのみこまれていく様子を被災者の方が撮影した動画がYouTubeに投稿されています。

動画ではわずか数分で町が飲み込まれていく様子が映し出されるとともに、最初は興奮してふざけていた周囲の人たちも次第に黙り込んでいくその心境の変化が伺えます。


撮影者の佐藤明広さんはYouTubeに以下のコメントを投稿されています。

 撮影者です。撮影当時、自分の町が流されていく様を目の当りにし映画のような感覚で実感が無く、意外と冷静だったような気がしています。

 しかし、時間を重ねるにつれ重く耐えられない日々、そして自分の町が元には戻らない悲しさを痛感しながら今を生きています。

 いまだ、片岸方面からトンネルを越えるといつもの風景で、町並みが戻っていると錯覚を起こしてしまいます。しかし、すぐに現実に戻され「何も無い……」涙があふれて来ます……。

 このビデオも当初、津波によるメカニズムの検証と今後の街作りのために、復興のために役立てていただきたいと大槌町役場とNHKにのみ渡しあまり公の場には出さないようにしておりました。

 しかし、打越先生と知り合い全世界の方々が、復興を信じ支援活動をして頂いている事を知り、私自身この画像を見るのがとても辛いのですが、

 当時の状況を少しでもわかって頂けるのならと、今後の支援活動に役立ってくれるのならと、お渡しいたしました。

こちらの動画は私の実家の裏の方が撮影されていたものです



皆さんにも この日を忘れないでほしいです。

この動画を見て 不快に思われた方には,
お詫び申し上げます。
Posted at 2012/03/09 19:39:17 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記
2012年03月06日 イイね!

MINIの日合同オークションオフ

MINIの日合同オークションオフ3月4日 MINIの日合同オークションオフ が 開催されました

3月2日 夜 7時過ぎ ちょっと 早いですが 出発



出発時 33145K

岩手県は雨降りでしたが 宮城に入ると 吹雪いてきました

福島に入り 栃木まで 猛吹雪 那須付近でストップが度々

上り坂の途中で大型トラックが何台も立ち往生

矢板あたりまで来たら やっと雨にかわりました。

やっと休憩 12時過ぎてました。 軽く食事して

とりあえず北関東道までは今日中に行きたいと思い

さらに走り 波志江Pまで来たら1時過ぎてました。

仮眠 なかなか眠れず 2,3時間で 起床

ちょっと 走るが また眠くなり また仮眠

それを繰り返し

11時過ぎに 刈谷ハイウエイオアシスに到着しました



白銀 & テディ との待ち合わせまで 時間があるので 散歩して ご飯食べて また寝て

いよいよ 対面 

早速 銀ちゃんの 先導で 知多半島へ



後ろ姿が かっこいい \(^o^)/



銀ちゃんお気に入りの場所で 2代並べて


さらに走り チッタナポリで




日本じゃないみたい。

更に 夕日を見に






ミラーレスでも ここまで写ります。

この後 星空も見に行ったんだけど 画質が悪くて見せれません 

たぶん 銀ちゃんが最高の星空をアップしてくれると思います (^v^)

更に 名港トリトンも見たかったんですが 車で温まると 眠気に襲われ
 
あえなく断念 一日目は 爆睡でした。

2日目 朝6時15分

受付時間よりかなり早くない?

道の駅で たつやん32さんと 待ち合わせ



さあ出発

(メ・ん・)? なんか山に登ってない ?

カーブが すごいし おいおい こちとら スタッドレスタイヤ だよ 

更に きつくなり ズリズリ状態 

なんとここは 三ケ根山スカイライン でした 



駐車場には 結構な車が 居られ しばらく 拝見

時間も 時間なんで そろそろ出かけます 

ラグーナ蒲郡へ着くと もうすでに沢山のMINI MINI


オークション が終わり 昼食を 食べてきたら 本格的に雨が (´;ω;`)

ホワシル 並べて撮りましょう 





サイコー の 画面 です

この後 ガーデン へと移動

たくさんの MINIオーナーの方でいっぱいでした

しばしウダウダ 

その後は 銀ちゃん & テディ 宅で てびり (旦那) さんと焼肉パーティ

持参の 和牛と 銀ちゃん&テディ の 故郷の ラム肉で 腹一杯になり

銀ちゃんのお宝写真 すごかったです。

てびりさんに 送ってもらい ホテルに帰宅。

その日も 風呂に入ってダウンしました。

本当は 帰り道 銀ちゃんと 富士山,見に行くはずだったんですがあいにくの雨で

見れませんでした。

3月5日 朝6時過ぎにホテルを出発

衣裏豊田道路を通り 伊勢湾岸道に乗り 東海環状自動車道へと入り 土岐JCT 中央道へと入ると

雪が降り出し 恵那峡 のあたりで チエーン規制  長野自動車道 上信越自動車道に入り

東部湯の丸で高速を降ろされ チエーン スタットレス 確認の為 しばらくストップ 軽井沢 松井田妙義
付近で積雪がひどくなり 峠を超えると だいぶ走りやすくなり 関越道から東北道郡山付近までは順調に来れたんですが 本宮ICでまたストップ 



今日中に帰れるか と思ったら 降ろされたらそのまままた上げられなんとか 無事帰れました。


到着時 35205Kでした 超大作になってしまいましたが お付き合いありがとうございました。
Posted at 2012/03/06 22:21:41 | コメント(4) | トラックバック(0) | オフ会 | 日記

プロフィール

「先週の 弾丸イン北海道 http://cvw.jp/b/682410/27732934/
何シテル?   09/14 10:32
水曜どうでしょうです。よろしくお願いします。
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