首塚

福島市内国道115号から高子街道(県道4号)を伊達市方面へ向かいます。
保原町町内へ入り上保原駅方面へ右折します。
駅をすぎたら右折し、直ぐ左折します。
住宅地のハズレに階段が有りますので上って到着です。
駐車場はないので、道路の広い場所に駐車しました、ってか自転車で行きました。
ここは、首塚です。
天文9年(1540)のころに伊達家(桑折西山城主)で植宗は
子どもたちの多くを近隣の大名たちに縁づけていたが、
そのことで常時意見の対立があった。
植宗が三男実元を越後上杉家に入嗣させようとしたことが導火線となり、
大合戦となった。
最初植宗方に優位に展開したが、子の15世晴宗が、
親の植宗を桑折西山城に幽閉してしまった。
小高城主相馬顕胤(娘婿)はさっそく掛田俊宗氏とともに西山城から植宗を救出し、
掛田城に移して晴宗方と戦いとなり、
両者に加担する多くの大名や家臣を巻き込んだ長期の合戦に発展した。
この合戦を「天文の乱」といわれるが、
この合戦のうち相馬顕胤軍と晴宗の軍とが阿武隈川をはさんでの激戦を、
保原地方では、「高子原合戦」と称する。
この合戦では、多くの死者が出た。
このとき相馬顕胤は、
敵味方の別なく戦死者の首を敵味方の別なくひとまとめにして龍背厳山上に葬り、
その霊を弔ったという(首塚という)。
そのため戦国武将相馬顕胤の思いやりが後々まで評判になったのであるが、
この戦いは、最終的には、子の晴宗側が勝利した。
親の植宗は丸森城に引退した。また、桑折西山城は廃城となった。
これ以後伊達氏が伊達郡内の城を本城とすることはなかった。
後に伊達氏は米沢城から岩出山城を経て仙台地方に移って行った。
昭和の初め、日本赤十字の調査団が保原の首塚を訪れた。相馬顕胤の行いは日赤の博愛精神に通ずるものがあったと推測される。
今でも時々相馬地方の方がここにやってくるのが見受けられるそうな。
「奥相茶話記」によれば首塚は2つあったらしい。
さて、もう一つは何処ですかね?
お勧め度 ☆★★★★(個人的判断です)
学習 度 ☆☆★★★(個人的判断です)
女性向度 ★★★★★(個人的判断です)
家族向度 ★★★★★(個人的判断です) ☆が多いほど良い感じの判断です。
※ 営業時間 何時でもみれます
※ 定休日 無休
※ 売店 ×(途中に自動販売機有り)
※ トイレ ×
※ 駐車場 ×
※ 2011・06 訪問
住所: 伊達市保原町上保原字 福島県伊達市教育委員会(問合先)
電話 : 024-577-3245
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