
お疲れ様です。
今日は病院に行く為有給を。
午前中は薬を飲んで…
2リッター全部飲まなあかん😱

ブローしながら(笑)

サイドステップに貼り付けてた物を少し移動しました。
詳しくは整備手帳ボルテックスジェネレーターもどき取り付け②に。
昼から病院に。
内視鏡手術もとりあえず無事に終わり…
病院から我が家まで5キロ位か。
天気良いしたまにダラダラ歩いて帰るか…
国道113号東港線。
新潟東港方面に進みます。

昔は毎日娘を保育園に送り迎えで走ったが…
途中石油コンビナート横を。

昭和39年新潟地震時に大火災になりました。

1964年(昭和39年)6月16日13時2分頃、マグニチュード7.5の新潟地震が発生し、新潟県から東北南部にかけて震度5を観測した。この地震で、死者26人、負傷者447人、家屋損壊70,000棟以上の被害が発生した。
新しくリニューアルした吉相が(-_-)

2日ぶりのまともな食事です。

バカみたいに噛みながら(笑)
ダラダラ歩いてたら…
トーアマート発見!

そう言えば東区にオープンとか言ってたな。

最近流行りの3D立体マスクが150円!
その他も半額半額でお買い得。今度車で(笑)
113号から横道に。
こっからは坂道😅

じゅんさい池に到着。

2つの砂丘湖が自然のままの赤松の森におおわれている公園です。

2 つの池がある落ち着いた雰囲気の公園。春は桜、夏は蛍が楽しめる。敷地内に神社がある。
じゅんさい池から今度は下り道で空港通り方面に。
あと家まで1.8キロ(笑)
ショートカットを🙆

車じゃ走らん田圃道を。
わかる人はわかると思うが…
もうすぐ到着(笑)

ヤバい日が沈む😓
通船川に到着。

阿賀野川から信濃川につながってます。
かつて阿賀野川の下流域は複雑な乱流と蛇行を繰り返し、たびたび洪水を起こして流路が変わるなど、新田開発もままならない状態であった。新発田藩第6代藩主・溝口直治は1730年、信濃川に合流していた阿賀野川の河道を日本海へ直接流出させるため松ヶ崎(現新潟市東区下山・北区松浜付近)に掘割(捷水路)を開削した。だが、この捷水路(松ヶ崎掘割)は翌1731年春の融雪洪水によって決壊し、阿賀野川は日本海へ直接注ぎ込むようになった
その後、この旧流路は「通船川」に改称。両河川の下流域の水運に用いられていたことが由来である。1773年、新発田藩第8代藩主・溝口直養によって流路整備などの改修を受けた。
前まで日本一汚い川だったが最近はきれいに。

阿賀野川方面と新潟湊に船を行き来できるようにするため、今の新潟市本所から海老ヶ瀬まで運河を掘りました。
しかし、阿賀野川からの入り口がすぐに土砂で埋まってしまうため、この運河は使われなくなってしまいました。 その後、以前の阿賀野川本流の跡を船が通れるように整備したのが、通船川の始まりです。
あと越後は上杉と良く聞きますが…
新発田藩と上杉は敵対で。
上中越はまあ…上杉でも。
越前 越中 越後言いますやん。
越後は上越位やないかなと。

下越新潟市から北側は新発田藩です
新発田藩(しばたはん)[新潟県]260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである関東・甲信越地方の「新発田藩」(しばたはん)[新潟県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。越後国(えちごのくに:新潟県)を領有してきた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、豊臣秀吉の命により会津へ移ったのは、1598年(慶長3年)のこと。
それに替わって同地には、高田(福嶋)、坂戸、村上、新発田に分割して、豊臣方の重臣が配されました。
新発田の地を与えられたのは、「溝口秀勝」(みぞぐちひでかつ)です。織田信長に才能を見出され、「本能寺変」以降は秀吉の配下となり、1586年(天正14年)は豊臣姓を下賜。
秀勝は、「関ヶ原の戦い」には参戦しませんでしたが、時期に越後一帯で発生した、上杉旧臣らによる一揆の鎮圧に尽力。
これは、言わば己の身に降りかかった火の粉を払ったものでしたが、それでも徳川方に反発していた上杉家が裏で糸を引いた一揆勢力を征伐したことは、徳川方の東軍に味方する行為とみなされ、この軍功により6万石を与えられて、正式に新発田藩(しばたはん:現在の新潟県新発田市)が成立しました。
当時の領地は、現在の新発田市のみならず越後平野一帯に及ぶ広大なもの。しかし、当時の名を蒲原平野と言ったように、このあたりは水草の生い茂る低湿地帯で農地には適していませんでした。それを干拓や治水工事により、日本を代表する穀倉地帯にまで開拓したのは正しく、新発田藩の功績だったのです。
新発田には代々勤王の伝統があり、「王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓であり、勝敗は問うところではない」との考えは、広く領民にまで浸透していました。
「大政奉還」後、朝廷から10万石以上の諸大名に対して「列侯会議」(れっこうかいぎ)を開くために上洛の勅命が出された際にも、新発田藩は他藩に先駆けてこれに応じ、幼君・直正の名代として江戸詰の家老を派遣。
「戊辰戦争」においても尊王を掲げる新政府寄りの立場を取ろうとしましたが、周辺諸藩がいずれも旧幕府寄りだったことから、その圧力に抗しきれず、やむなく薩長に対抗するために結成された「奥羽越列藩同盟」に加盟することとなったのです。
同盟側は新発田藩の参加を確実なものにしようとして、当時の藩主「溝口直正」(みぞぐちなおまさ)を人質に取ろうと謀りましたが、新発田藩の領民達からの強い抵抗によって、阻止。
いよいよ戦火が迫ると、結局新発田藩は、元々の方針に帰って新政府軍に合流し、参戦を決断します。新発田藩の内応によって、新政府軍の海上部隊は佐渡から急襲。奥羽越列藩同盟は、壊滅的打撃を受けて敗退します。
その一方で、新発田の地は戦火の被害から守られることとなりました。同じ越後の長岡藩では、多くの民が戦火で家を失うことに。田畑を荒らされたことと比べれば、新発田藩のこの選択は正しかったとも言えるのです。
しかし、当時としては裏切りには違いなく、「新発田は裏切り者」との悪感情は、今もなお、新潟県民の中に残っているとも言われます。新発田の人々もそうした誹りを受け続けてきたせいか、どこか排他的で他の市区町村に対して非協力的だとする声もあるです。
第二次大戦においては、やはり裏切り者のイメージがあったため、新発田連隊は取り分け過酷な戦地へ送られたとするもありました。ともあれ溝口氏は、豊臣家臣~外様大名と、常に反主流の立場にありながら、その巧みな舵取りによって、明治時代に至るまで取り潰しに合うこともなく、12にわたって新発田の地を統治し続けたのです。
大河ドラマならんかな🤔
腹がゴロゴロと😰

あちこち立ち寄りブローしながらなんやかんや到着。

久々に歩いたが車だとあっという間に通りすぎてきずかない事が色々とありました。
たまに良いな🙆
ブローしながらはキツいが…
Posted at 2022/05/10 19:40:41 | |
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