
こんにちわ
さてさてそろそろ本題に入ります
そもそも今回の目的は
熊野神社の例大祭に参加して神輿陸尺に参加することです。
今年は天候に恵まれました。
多くの参加者が昨年に続いて2度目の人も・・・皆知っている顔ばかりです(^O^)
京都 愛媛 東京 宮城 三重
全国各地からこの神輿を担ぎに集まりました。
総勢100人以上!!
大半は宮城県内に留まりボランティアを行っている方ばかり
昨年も一緒に同行してくださった
三重県
四日市市の諏訪太鼓のメンバーさんも一緒です。
↑この太鼓は震災当時、津波で沖合20kmまで流されてしまった太鼓です。
昨年、一緒に同行した諏訪太鼓の奏者によって初めてその音色を神社内で轟かせました。
※通常和太鼓は湿気で割れてしまったり、革が敗れてしまうのですが・・・・
さすが神太鼓デスね、見事な音を奏でていました。
紹介が遅れましたが、なぜ三重県の四日市諏訪太鼓さんが一緒に同行しているか手短ではありますが紹介させて頂きます。
熊野神社の氏子さんがいらっしゃったのですが、地震と津波によって多くの氏子さんがお亡くなりになりました。それと同時に、半纏や祭りの道具まで流されてしまい、先祖の供養と亡くなった方の鎮魂ができない 春の例大祭が行えない・・・・
その情報を聞き動いたのが、今回お世話になった
四日市のNPO団体『防災一座』さんです
団体代表の
松野博さん(ご本人の了承のもと投稿してます)が四日市諏訪太鼓さんに相談を持ちかけたところ、『今新たに作っている最中の半纏があるからそれを送ろう』っということになり・・・・

送った半纏が↑コチラ
そこから交流が続いています。
半纏の模様は龍が描かれたまたま宮城県の熊野神社の守り神ということもあり、大変喜ばれたと伺っています。
不思議なご縁で、三重県にも熊野と言われる地域があります
三重県の熊野の特産品がさんまの押し寿司でして・・・・
実は、
女川町もまたさんまが特産品であります。
病院の窓にもサンマが描かれておりますヽ(*´∀`)ノ
偶然とは言え、三重県と女川町いろいろご縁が重なりました交流が続いております。
そして
8月3日 三重県四日市市にて
特大 ビッグイベントが開催されます(本投稿について了承済み)
大四日市まつり
女川獅子舞と諏訪太鼓の出会い~女川町と三泗の伝統芸能市民文化交流事業~

大四日市まつりに 女川獅子舞を招待するというイベント 現在計画準備進行中です
私もできる限り協力したいなぁっと意気込んでおります。
っと・・・・話が脱線してしまいましたが・・・
本題に戻ります(^_^;)
皆口を揃えて言います。
『今年は晴れましたね!』 『
去年の雨は悲惨でしたネ』
天気同様、参加者の顔が明るく輝いていました。
↑昨年の様子
↑今年の様子(アングルは違いますが同じ場所で撮影してます)
本当に天気が良かった
まだまだ随所にがれきの山が残ります
芝桜で『We ♥ 女川』の文字
おおよそ500kgの神輿を担いで
街中を練り歩きます
この日の歩数はスマホ上で
約19000歩
距離にして約14kmくらいでしょうか?
結構歩きました。
昨年の大雨に比べたら疲労感は大したことありませんが
普段以上に歩きました。
私は主に撮影がメインなので神輿を担がれる方に比べたら大したことありませんが
それでも、舗装されていないところ・・・
階段続き・・・急斜面・・・っと通常では体験できないゾーンばかり
プライバシーを考慮してYouTube動画配信はしませんが
Facebookをご覧の方はどのような坂道、どのような階段かはご想像つくかと思います。
( ̄▽ ̄;)ハハハ・・・疲れましたぁ

道中行く先々でいろんな方からの差し入れが嬉しかった

愛媛県市民ボランティアの皆さんが曳く
リヤカーには
愛媛県さんのミカンが♪
メッセージカードの入った袋は住民の方に配られました

私も一つ頂きましたが・・・
皮がとても分厚く
歯ごたえがあってとてもジューシーなみかんでした。
みんなで汗を流し頂いたみかんは格別の味でした
『チョーサイ』 『チョーサイ』と声を掛けながら神輿で練り歩き 同時に賽銭箱をもって移動します。
行く先々で、祝詞を上げ、2礼2拍手1礼、を行い 亡くなられた方へ黙祷をします
行く先々で『ココでは何人の方が亡くなられた・・・』
とか逃げる時の様子やお話を聴き
ただただ
涙が溢れます。
家や車は保険で直っても・・・・
人々の心はまだ癒えていません
一緒に回られた方が大きな声で叫びます
『○○~今年も来たぞ! 皆元気だぁ~!安心してくれ~!』
『みんなで神輿担いで来たぞ~』
私の心に何かが刺さります。私は被害者でもなんでもないけど・・・辛かった
何もできない自分の無力さ
お墓が一角だけ新しい・・・・
きっと津波で流されたのでしょう・・・・
スミマセン
あまりに衝撃的でカメラには収められませんでした。
しかし、いまでも私の脳裏に焼きついてます。
しかし、これが現実・・・・
よく政治家や偉い人が『想定外』なんて言葉を使う
許せない言葉だ・・・
地球が誕生して47億年以上
人類が文明を開いて早2000年
気象予報の技術が進化したのもここ数年
たかだか数十年で、地球の何を知ったのでしょう?
想定外?馬鹿な話です、想定なんて出来るはずがないのです。
人類が文明を開いた時間なんて、地球の誕生から見ればホンの一瞬・・・・
女川の原発を作る過程でも防波堤を何メートルにするかで議論が重ねられたそうです
16mにするべきか17mにするべきか、
結局18.5mの防波堤を作りました
結局震災時、地盤沈下で1m沈み 17.5mの防波堤
到達した津波の波高は17m
奇跡的に50センチの余裕が命運を分けたそうです
こんなこと誰が想定できるでしょうか・・・
女川原発が無事だったのはたまたまなんです。
とある方のお話です
防波堤なんてネ、意味がないんですよ・・・
最近は政府がいたるところに防波堤を建設しているけど
あんなの意味がない・・・
そう話を切り出して下さった。
本当はネ、もっともっと沢山の人を助けたかった・・・
でも、嫁さんのお腹には赤ちゃんが居た、近所には耳の遠いお婆さんが住んでいた
息子と嫁さん、そして近所のおばあさんを助けることで精一杯だった
もし、嫁さんのお腹に赤ちゃんがいなくて、お婆さんがいなかったら、
私はここに居なかったかもしれない
私の性格上、ひとりでも多くの人を助けたかった・・・・
救えなかった命もたくさんある
津波が来る直前、潮が引いて静まり返った、『津波が来る』多くの人が感じていた・・・
どの程度の津波が来るのか?興味本位で海岸まで行ったものも居たでしょう
ラジオで津波の情報は聞いていた・・・
車を止めている女川病院の駐車場は海抜16m・・・・
なんだか外が騒がしい・・・
やってきた津波は18mだった・・・
たった
2mの差で生死が別れた瞬間だった
津波が来たとき、ココまで逃げてこればいいだろう・・・
では助からない っと言います。
これ以上高いところは無い
そこまで逃げた人だけが助かった。
つまり地盤沈下で2m下がっていてはたとえ18mの高さ以上のところへ逃げたとしても
助からないワケです。
津波は一回だけでは無かった
何回も何回もやって来た
津波の速度は時速60km
街の地形でぶつかり合い渦を作って迫ってくる
ありとあらゆる物を飲み込み、黒い海へ連れて行った
『言葉が出ない 俺の人生がすべて終わった』
そう思った・・・
お金なんて意味がない、何もないから・・・
ずっと街の中を津波が何もかも持っていった翌朝まで車のホーンが響き渡った
車の中から人の助けを求める叫び声のように街中にコダマした
四方八方から車のホーンが轟き・・・・
今でも耳に残っていると・・・
今でも、車にホーンを連続で鳴らされると、
あの時の光景がフラッシュバックされるとおっしゃっていました。
あの音だけはもう聞きたくない・・・
ただ、夜が明けた後の
朝日だけがとても美しかった・・・
電力会社、行政が進める防災対策・・・・はたして是等を信じていいのか?このままでいいのか?
最後に判断するのは我々ひとりひとりの国民です。
ボランティア活動報告⑤に続きます