2011年08月07日
私事徒然筆記
私は酒精との相性がいいらしく、ビールやら焼酎やらを十杯以上は飲んできたのだが、顔色も精神状態も変わることがなく(若干、冷静な感情になる傾向はある)、一時間をかけ、徒歩で帰宅していた。
その後、再び仕事がオンライン経由で入っていたことに気付いたのであるが、酒がうまい具合に抜けていたので、先ほど終わらせたという次第。
手際が良い。
私は晩酌では少量しか飲まないのであるが、今日は突発的に開催された飲み会が仕事後にあった。四人で向かったのだが、三人と飲むのが初めてであるばかりか、私は彼らや彼女たちと一年に一度顔を合わせるかどうかという関係でしかない。
HさんとIさんは自転車で居酒屋に向かうとのこと。Tさんと私はバスで後を追うこととなった。
Tさんは非常に美形である。そして会話や顔立ちからして私と同じくらいの年齢かと思いきや、ずっとずっと年上であった。年齢不詳の顔立ちといえばそうかもしれない。
粋なHさんは、居酒屋に遅れて現れた私たちが到着してしばらくして、花束をTさんに贈呈した。今日はTさんの誕生日だったのであった。Tさんはものすごく感激していたし、こういう心遣いのできるHさんというのは、本当に素晴らしい人だなと感心した。
Iさんとの出会いは不思議なもので、私が一人で隠れるようにタバコを吸っていたときに、後ろから声をかけてくださって、「仲間がいました」と嬉々として一緒にタバコを吸うようになったことが機縁であるが、出会いはそのときを含めて二回しかない。
そう、Hさんにせよ、Tさんにせよ、私の同僚ではない。しかし、どういう組み合わせなのか飲み会が実現した。
以下、独白ゆえに意味の掴みかねる箇所もあるだろうが、適宜読み飛ばしていただきたい。深い意味はなく、現在考えていることと、これからの展開を結びつける鍵となる事柄を発見したような気がしたから、本文を認めたまでであるから。
Hさんは私の仕事ぶりをよく観察していた。私は仕事でもなんでもやるときは一所懸命にやることが一番自分のためにも周囲のためにもいいと考えているタイプだが、そうした私の姿勢を見事に読み取っていた。
昼間は気がつかなかったのだが、Hさんは思弁的な面もあり、非常に知性的な人である。
この飲み会ではだいぶ酔っているようにみえたIさんとHさんとの対話がほとんどであったが、Iさんは知性的というよりも、直感的に本質を捉える才があるように思えた。
その点はHさんも把握していたようだ。
そんな二人の問答をうなずきながら時折コメントするのがTさんだったというわけだ。
帰路に一番最後まで一緒だったのがTさんなのだが、思考の深みがとてもあるように思えた。しかし、その沈静さや謙虚な話し方が異性との縁を遠ざけているのかなとも思った。美形のTさんには彼氏がいないそうなのである。
今一人の女性のIさんは男受けしそうな酔い方をする。
甘えたような口調になり、次第に態度や目線も甘えそのものになるのだ。
この点、素面のときの気さくさが、酔ったときにもきちんと出ているように思えた。
Hさんは思弁的だが諧謔的な面もあるように思えた。私はこのHさんが私にとって、今後何らかの鍵になるのではないかと思った。理由は多少は挙げられるが、オンライン上の日記には掲載しない。ここでは備忘録的に徒然と自己心情を記すのみである。
TさんはMさんと深いつながりがあるそうだ。私はMさんを尊敬しているし、Mさんとはよく顔を合わせる。改札で別れるときのTさんの台詞に私は何らかのメッセージが込められているのではと思った。Mさんも鍵になる人だと思う。
Tさんとは会う機会が頻繁にあるのかどうかわからないが、あの場面でMさんの話が出たということに私はメッセージ性を感じた。だから、私はTさんの言葉を非常に大切にしたいと思った。
それにしても、たらふく飲んで、私はお三方にご馳走になり、確認の上で700円余分にいただいた。私にはこういうことが多い。お金に対する態度が素直なのかもしれない。いただけるものはありがたく頂戴するから。
女子高生らしき売り子が熱心にご当地もののハンカチを進めるから、気持ちよく購入した。二つ購入した。「さすが大人」と言われたので、一瞬だけ気分が良くなった。熱心な人に対してはそれなりの暖かみを以て接したいので、私は女子高生二人の売り子
のアプローチを好意的に感じていた。だから、気持ちよくお金を支払った。
どうやら、その辺りから金銭の流れがよくなってきたような気がする。
私が欲しいなと思っていた色合いのテニスラケットが五百円で売られていたし(それは十分に使用可能な程度のものである)、しかもそれは私が兼々いいなと思っていたダンロップブランドのものであった。
お得感というか金銭以上の豊かさに自分が包まれている気がする。
再び、酒席の場面に戻る。
Hさんに何をしてみたいのかと問われた。
凝縮して述べると、「表現」に携わりたいと述べた。
この時に、私はいつもそう問われると同じ回答になるんだなとごく冷静に自己分析していた。
表現とは文章に限らない。もっと広義の意味を持つ。
自分や世界を彩ってみたり、その素晴らしさを抽象化・具象化してみたり、とにかく表現という解釈をしてみたいのであった。
ユダヤ教やキリスト教に関する書籍を読んでいる。なかなか興味深い本なので、折あれば紹介しよう。
一神教の神様は人間の倫理や道徳を超越したところにいる。
例えば、旧約聖書のカインとアベルの話。彼らはアダムとエバの子供である。
カインとアベルは神に捧げ物をする。が、神はなぜかアベルを褒め、カインを邪険にする。それに怒ったカインはアベルを殺害する。人類最初の殺人である。
これを理不尽と感じるのであれば、一神教の信者にはなれまい。
唯一絶対の存在であるがゆえに、どんなに矛盾と思えることであれ、それはそのまま享受するほかないのだ。
つまり、つべこべと言わない。
私は最近、唯一神(つまりはヤハウェだ)というものがわかるようになってきたように感じる。不可解とされる神の子イエスの言動も私にはとてもよくわかる。
といって、ユダヤ教徒にもクリスチャンになる気はないが、私はこの一神教的思考というものを内包しているのかなと思うようになった。
余談だが、偶像崇拝に興味はないし(鑑賞は好きだが)。
さて、話をどうまとめよう。
以上書いたことは私の内面的な事柄を徒然に記したものゆえに、論理的な整合性を一義としていない。もしかしたら、村上春樹の小説のときとして謎めいた構成も、彼の内面の徒然を彼は思いのままに表現しているのではないかなと今思った。
ブログ一覧 |
とりとめもないこと | 日記
Posted at
2011/08/07 03:37:35
今、あなたにおすすめ