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ご自由に
いったんマッドアングラー隊に左遷の後、南米・ジャブローへ降り立つシャア。攻撃部隊の新モビルスーツとして披露された「ゾック」を見て、シャアが言ったセリフが『あれがか……見掛け倒しでなけりゃいいがな』だ。

 シャアは自身も現場の人間だ。自分で見たもの以外は信用しない。自分がスタンドプレイで出世してきたためか、部下のスタンドプレイも厳しく咎めることはしない。ただし、責任については厳しい。

 「シャア自身は人に聞いたことは全然信用しない。自分から現場に出てしまう人ですね。部下から見たときには、『こうすれば弾は当たらない。こうすればいい』とやりかたは教えてくれるがが、でも自分でやれと突き放す。極めて本人次第のところがあります。でも部下は慕っている。それは成果主義なところがあったからじゃないでしょうか。細かいことをくどくど説明したり、縛ることはなく大枠で説明する。部下のスタンドプレイについても、ものすごく咎めるという形ではない」

 「1年戦争の後半でマリガンという副官が付く。試作モビルアーマーのザクレロが出撃したとき、ザクレロがあることをシャアは知らない。シャアはマリガンに、『自分は聞いてないけどどういうことだ?』と聞くと、マリガンは『仇を討つために彼は出て行ったんです』と答える。対してシャアは、『そんなモビルアーマーがあることは私は聞いていない。後で責任は取ってもらうよ』といって不問にするんです。不問にするんだけど、こんなプレッシャーはない」

 縛るんじゃなくてチャンスを与えてやる。奮い立つ人もいれば、プレッシャーを感じる人もいる。部下からすればこれをチャンスと捉えるかどうかだろうか。

ちなみに私は 事故覚悟で上司に報告のみをしたら、「俺は聞かなかった事にしておくと」言われた事が、文書にすると
暗黙の了解とも取れるが 当時の私には責任回避にしか思えず がっかりしたものでした。
上司の仕事って部下の邪魔をしないこと、つまり、その気にさせてあげることだと思うんです。チャンスととらえるか、プレッシャーと感じるか、部下を見て言葉を選びたいと思う

画像はゾック、前後対照なデザイン、恐らくMSの中では最も不人気なMSと思われます
どうもおぼっちゃん育ちが身にしみこみすぎる
 圧倒的な戦力で木馬(ホワイトベース)を包囲することに成功したジオン軍。モニター越しにこれを見、「これなら必ず勝てる!」と叫ぶガルマ──。これを見たシャアがつぶやいたセリフが『どうもおぼっちゃん育ちが身にしみこみすぎる』だ。

 木馬は避難民輸送の名目で休戦提案し、それによってジオン軍の包囲が完成した。当然、これを予想していたはずの木馬。何かの意図が隠されていると考えるべき。

 「ガルマは浮かれちゃう。文化祭の実行委員とかによくいるタイプ。サークル活動とか、わぁっと騒いで自分がすごい仕事をした気になってしまうタイプ。友人としてはいいけれど(『君はいい友人だったが』)」

 「シャアが客観視して物事を見るのに対して、ガルマは都合のいいようにものを見てしまう。本当の意味でプラスではなく、マイナス要素に目をつぶってプラスしか見ない。それがガルマ。
塩野七海のローマ人の物語で、世の中には自分の都合のよいことだけを見る人と、都合のよくないことまで見る人の2通りいるという言葉が出てきます。この二通りの対象が、まさにガルマとシャア。
都合の悪いことまで見ながら、『認めたくないものだな若さゆえの過ち』と言う人間と、『これで勝てるぞ』と言ってしまう人間の差が、“お坊ちゃん育ち”という言葉に象徴されているのでしょう

ベターは「最善を尽くして最悪に備える」これがビジネスマンにとってベターですが、人として、漢としては、覚悟、なにがあっても大丈夫
っていうぐらいの受け止める覚悟っていうのが魅力でしょう~ 女性にモテます(笑) 無謀と覚悟は違いますので念のため

『認めたくないものだな』
 『認めたくないものだな……自分自身の、若さ故の過ちというものを』──。シャアのセリフの中でも、最も有名なものの1つといえるだろう。

 サイド7で、勝手に暴発し連邦軍と戦ってしまう部下。ところがガンダムが起動してしまい、結果2機のザクが失われてしまう。部下の暴発を押さえられなかったこと、そして上司に報告をせず勝手に追跡して、2機のザクを失ってしまったシャア──。

 「このときのシャアは全然反省していない。過ちだと思う話し方をしていないんです。楽しんでいるというか、余裕がすごくある。マイナスをプラスに変えることをもう考えている。『この失敗をフォローしよう』というタイプではないんです」

 「ビジネスでいえば、上司の判をもらわずに勝手に決済してしまった、それが焦げ付いてしまったという感じです。しかし、焦げ付きを隠しながら取り返せるバクチにいくという人ではなかった。殊勝に報告して、『自分が失敗したんですから、それだけ大きな案件です。追加補充をください』ということを言うわけです」

「戦いとは二手三手先を・・・・」のセリフの直後、大気圏突入を許してしまった後のエピソードである。
 シャアが上司であるドズルに報告したときの流れはこうだ。まず「連邦軍のV作戦を発見しました」「よくやった。さすがシャアだな」とドズルがほめる。続いて「3機のザクを失いました」「何をやっておる!」「3機のうち、2機は連邦軍のモビルスーツにやられました」「なに、それはそんなにすごいのか?」

 「この理屈です。ずるいですが。そして『補給をください』『そこまでのものだったら補給をやろう』──。人間としては微妙なところも感じますが、まぁこれは仕事のことだから、で割り切れるところもあります。仕事とプライベートの切り分けができる人はこんな感じかもしれません。『失敗しちゃってどうしよう。あぁ』とは思わず、自分は生きてるんだし能力もあるし、この失敗から逆に『よくやった』と言わせられるんじゃないか。そういう切り分けができる人なんだと思います」

 失敗をチャンスに変える。こういったずるさもシャアに見習うべきところだろう。
でもドズルは男気はあっても利口じゃないし。。。ギレンなら更迭、キシリアならもくろみバレバレ、末弟ガルマなら適当にごまかし
相手見ることも大事、ギレンの野望、キシリアの美貌、ドズルの無謀~ガルマの甘えん坊~って事で

- 熊野の春の日 [ macky_tokyo ] 2010/05/04 13:26:01
かつて、私はいつも言葉に縛られていた。「好き」とか「嫌い」とか言って、自分の言葉に縛られていろんな人を憎み続けたり、必要以上に愛し続けたりしてしまった。最近はいろいろな人によく同じ質問をされるので、同じ言葉を繰り返しているうちに息苦しさを覚えるようになった。溜まってしまった言葉を捨てて、空っぽになりたい。そう思って、熊野の地を訪れたのだった。

 
以前、『週刊文春』を読んでいたら、谷川俊太郎と阿川佐和子の対談が載っていた。そこで谷川が、詩を書くことについて面白いことを語っていた。

なんでも、以前は天から言葉が降りてくるような感じだったんだけど、今は日本語という美しい土壌に埋没していくような感じなんだそうだ。
詩を書くということが、以前は天とコンタクトすることだったけど、今は地とコンタクトすることになっている……、そんなふうにも受け取れて不思議だった。どちらにせよ、自分は空っぽなんだそうである。

この空っぽっていう言葉を読んで「そうかあ!」と思った。私も空っぽになりたい。空っぽになるために、こうして行楽は行楽でも「行」の行くは「ぎょう」である苦行の1000㌔越えのロングドライブである。生活して、毎日を送っていると自分に中身ができてしまう。中身があると私はダメなんだ。

 なんでだかわからない。とにかく中身がいっぱいになっちゃうとマズイのだ。
 中身が詰ったら何も書けなくなっちゃう。そう思うので、中身が詰りそうになると逃げ出す。逃げるところはだいたい自然の中だ。
 自分が空っぽになるって、どういうことなのかなあと改めて思った。空っぽになるって、よく使われる言葉だけど、いったいそれはどういう状態の何を表わしているんだろう、そして、それによって人間はどうなるっていうんだろう。

 そんな事を、しみじみと考えていたら、いつのまにか熊野に着いていた。
 
同じ事を繰り返すとダメになる

毎日会社に行って、顧客と現場リーダ、営業部門の上長、部下、同僚との間に入っての潤滑剤としての役割、円滑に作業が流れるための
打ち合わせ、委員会という名の適正のない委員が集まった会議体・・・・・・

繰り返し繰り返し同じようなタスク、自分の言葉によってどんどん自分が埋まってしまうような、奇妙な錯覚に捕われるようになった。これは、自己暗示に近いものかもしれない。

何度も何度も同じ考えを表明していると、だんだんその部分のパイプが強くなって、他の考えに至れなくなってくる。質問に対して毎回違う答えをするのは、いかにもいい加減な気がしたので、なるべく同じように答えようとすると、その言葉に今度は自分が縛られてしまうのである。

そうしているうちに、なんだか自分の言葉で、自分の中身がいっぱいに詰ってしまって、息苦しくなってきた。
たぶん、今、私がこうしてここに存在しているのは、無数のモザイクの破片が、それはもう驚くばかりに細かく作用しあった結果なのだと思う。その天文学的な偶然の産物として「今」この瞬間を生きているのだと思う。

だけど、それを言葉で説明しようとすると、無数のモザイクの中の一つを取り出して、そこを特化して伝えることになる。そして、それを繰り返していくと、一つのモザイクが全体を象徴するかのごとくなってしまう。

本当は違うのに、と思う。森羅万象を構成する小さなモザイクの断片が、有機的に組み合わさった結果として「今」があるのにと思う。そしてそれは、この瞬間も運動を続けている。そういう恐るべき調和の中で私も、そしてすべての人も生きているのに……と思う。

だけど、その中からたった一つの因果関係を取り出して説明していると、自分のなかの全体性が失われてしまう。
たぶんね、心が元気でいられるのは、万華鏡のようにめくるめく変化するモザイクの動きの中で、自分がたった「今」を生きているという、その森羅万象のダイナミズムを感じているからなのかもしれない。

「これこれこういうわけで、こうなったんです」という説明をするたびに、自分の中に言葉が蓄積していって、そしてその言葉に縛られてしまう息苦しさを感じた。なぜ今自分がこうしているのか、そのことを解説することの、なんという困難さだろうと痛感した。

溜まってしまった言葉を捨てて、空っぽになるために、突然、私は和歌山の山の中に行こうと思い立った。行かなくちゃならないと思った。
 
熊野本宮旧跡地にて
 ホテルから1時間ほどのところに、熊野本宮大社がある。前日に那智大社と速玉大社はおまいりを済ませていた。メインはここである
大社の本宮が本当のお目当てではない、熊野本宮の旧跡地がメインである。
靖国神社の鳥居より巨大な鳥居が聳えている

ここは、100年ほど前に、大きな水害があって、この場所から今の場所へ本宮は移転した。そこは、ただ単なる広場だった。何にもない。柔らかい雑草の新芽におおわれた空き地。周りを取り囲むように桜が植えられていている。

春の陽光が新緑を照らしていた。その光のなかで、杉木立の間から川が見えた。こんなに川に近いから水害にあってしまったんだな、って思った。

ここって、なんだかとても気持ちの良い場所である。「な~んにもないのに、空気が清明で、優しくて、明るくて、光に満ちていて、せつなくなりますね。不思議なところだなあ」私の言葉にツレは頷いた。

この場所にいつから本宮があったのか定かではないんですが、恐ろしく昔、少なくとも千年以上前から、この場所はずっと祈りの場所だったという。だから、きっと、この場所そのものが浄められているのかもしれないですね」

かつてここには道路がなく、人々は水路を利用して参拝に来た。何日もかけて川を漕いで来た。そしてあの川べりに船を着けてお参りしたんという、そこまでして、この地の果てに来るほど、ここは大切な場所だったんであろう、

高貴な人々が、何度も熊野を訪れているという。何のためにだろう。何を祈るために来たのだろう。もしかしたら、昔の人たちもただ「空っぽ」になるためにここまで来たんじゃないかなあ、ってそんな気がした。

身体のつまりが取れる気がした、春の陽光の下ぽつんねんとがらんとした草原の真ん中に寝そべって、春の一日陽光を見ていた。

本当に、立っているだけで身体のなかを風が抜けていくような、清々しい気持ちになってくる。ずっと同じ言葉、同じ考えを繰り返し人に話していたら、自分ががんじがらめになってしまいそうになって、

「同じ言葉を繰り返すというのは、一種の呪術ですからね」
ああそうか、そうだよなあと思った。繰り返しているだけで言葉は別の力をもってしまうのだ。だからたとえ誤解されようと、オマエはいつも言うことが違うと非難されようと、言葉は解き放たなければいけないんだ、そう思った。

その瞬間に閃いてしまったことを話せばいいんだよな。前はこう言ったとか、あの人にはこう言ったとか、そんなこと考えないで、生きている瞬間瞬間に言葉を解き放てばいいんだよな。そうすれば言葉が身体に詰ることはなくなるに違いない。

 




 シャアは大気圏突入時に、ホワイトベースに攻撃を仕掛けるという作戦を立案、実施している。この時期においては例を見ぬ作戦だった。燃え尽きるまでに戦闘可能な時間はわずかに2分──。

 このときシャアは2分間でホワイトベースを撃沈できなかった場合のことも考えていた。

 「例えばホワイトベースが大気圏に突入するとき、シャアは敵の側面に攻撃を集中させていました。こうすれば撃沈こそできなくても、軌道がずれてジオンの勢力圏である北米に降下させることができる 
この作戦は、攻撃の方向を一方向に集中させるだけで、次の準備ができる。無駄のない洗練された形で」

 補給を待たずに突撃要員の招集を命じたシャア。副官のドレンが「補給艦の到着を待つのではないので?」いう質問に答えたセリフが『戦いとは、いつも二手三手先を考えて行うものだ』というものだ。同様に大気圏突入時の作戦も、まさに二手三手先を考えたものだといえる。この作戦を賞賛するドレンに対し、シャアは「戦いは非情さ」と答えた。

 「つまり、常に二手三手先を考えるということは、二手三手先が出てこなかった作戦もあるということです。すごく無駄なことをしている。考え方によっては。二手三手先を考えるという時間をきっちり取って用意しておく。そのための布石を打つ。それも、できる限り無駄にならないように」

 「最初の作戦が失敗したから二手目があるわけですが、『うまくいくだろう』という楽観で行動していない。無駄を承知で考えている。ただし行動としての無駄は最低限にしたい」

 楽観で行動せず、二手目につながる一手目を無駄のない形で考える。ここにビジネスの行動指針につながる教訓が1つある。
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