かつて、私はいつも言葉に縛られていた。「好き」とか「嫌い」とか言って、自分の言葉に縛られていろんな人を憎み続けたり、必要以上に愛し続けたりしてしまった。最近はいろいろな人によく同じ質問をされるので、同じ言葉を繰り返しているうちに息苦しさを覚えるようになった。溜まってしまった言葉を捨てて、空っぽになりたい。そう思って、熊野の地を訪れたのだった。
以前、『週刊文春』を読んでいたら、谷川俊太郎と阿川佐和子の対談が載っていた。そこで谷川が、詩を書くことについて面白いことを語っていた。
なんでも、以前は天から言葉が降りてくるような感じだったんだけど、今は日本語という美しい土壌に埋没していくような感じなんだそうだ。
詩を書くということが、以前は天とコンタクトすることだったけど、今は地とコンタクトすることになっている……、そんなふうにも受け取れて不思議だった。どちらにせよ、自分は空っぽなんだそうである。
この空っぽっていう言葉を読んで「そうかあ!」と思った。私も空っぽになりたい。空っぽになるために、こうして行楽は行楽でも「行」の行くは「ぎょう」である苦行の1000㌔越えのロングドライブである。生活して、毎日を送っていると自分に中身ができてしまう。中身があると私はダメなんだ。
なんでだかわからない。とにかく中身がいっぱいになっちゃうとマズイのだ。
中身が詰ったら何も書けなくなっちゃう。そう思うので、中身が詰りそうになると逃げ出す。逃げるところはだいたい自然の中だ。
自分が空っぽになるって、どういうことなのかなあと改めて思った。空っぽになるって、よく使われる言葉だけど、いったいそれはどういう状態の何を表わしているんだろう、そして、それによって人間はどうなるっていうんだろう。
そんな事を、しみじみと考えていたら、いつのまにか熊野に着いていた。
同じ事を繰り返すとダメになる
毎日会社に行って、顧客と現場リーダ、営業部門の上長、部下、同僚との間に入っての潤滑剤としての役割、円滑に作業が流れるための
打ち合わせ、委員会という名の適正のない委員が集まった会議体・・・・・・
繰り返し繰り返し同じようなタスク、自分の言葉によってどんどん自分が埋まってしまうような、奇妙な錯覚に捕われるようになった。これは、自己暗示に近いものかもしれない。
何度も何度も同じ考えを表明していると、だんだんその部分のパイプが強くなって、他の考えに至れなくなってくる。質問に対して毎回違う答えをするのは、いかにもいい加減な気がしたので、なるべく同じように答えようとすると、その言葉に今度は自分が縛られてしまうのである。
そうしているうちに、なんだか自分の言葉で、自分の中身がいっぱいに詰ってしまって、息苦しくなってきた。
たぶん、今、私がこうしてここに存在しているのは、無数のモザイクの破片が、それはもう驚くばかりに細かく作用しあった結果なのだと思う。その天文学的な偶然の産物として「今」この瞬間を生きているのだと思う。
だけど、それを言葉で説明しようとすると、無数のモザイクの中の一つを取り出して、そこを特化して伝えることになる。そして、それを繰り返していくと、一つのモザイクが全体を象徴するかのごとくなってしまう。
本当は違うのに、と思う。森羅万象を構成する小さなモザイクの断片が、有機的に組み合わさった結果として「今」があるのにと思う。そしてそれは、この瞬間も運動を続けている。そういう恐るべき調和の中で私も、そしてすべての人も生きているのに……と思う。
だけど、その中からたった一つの因果関係を取り出して説明していると、自分のなかの全体性が失われてしまう。
たぶんね、心が元気でいられるのは、万華鏡のようにめくるめく変化するモザイクの動きの中で、自分がたった「今」を生きているという、その森羅万象のダイナミズムを感じているからなのかもしれない。
「これこれこういうわけで、こうなったんです」という説明をするたびに、自分の中に言葉が蓄積していって、そしてその言葉に縛られてしまう息苦しさを感じた。なぜ今自分がこうしているのか、そのことを解説することの、なんという困難さだろうと痛感した。
溜まってしまった言葉を捨てて、空っぽになるために、突然、私は和歌山の山の中に行こうと思い立った。行かなくちゃならないと思った。
熊野本宮旧跡地にて
ホテルから1時間ほどのところに、熊野本宮大社がある。前日に那智大社と速玉大社はおまいりを済ませていた。メインはここである
大社の本宮が本当のお目当てではない、熊野本宮の旧跡地がメインである。
靖国神社の鳥居より巨大な鳥居が聳えている
ここは、100年ほど前に、大きな水害があって、この場所から今の場所へ本宮は移転した。そこは、ただ単なる広場だった。何にもない。柔らかい雑草の新芽におおわれた空き地。周りを取り囲むように桜が植えられていている。
春の陽光が新緑を照らしていた。その光のなかで、杉木立の間から川が見えた。こんなに川に近いから水害にあってしまったんだな、って思った。
ここって、なんだかとても気持ちの良い場所である。「な~んにもないのに、空気が清明で、優しくて、明るくて、光に満ちていて、せつなくなりますね。不思議なところだなあ」私の言葉にツレは頷いた。
この場所にいつから本宮があったのか定かではないんですが、恐ろしく昔、少なくとも千年以上前から、この場所はずっと祈りの場所だったという。だから、きっと、この場所そのものが浄められているのかもしれないですね」
かつてここには道路がなく、人々は水路を利用して参拝に来た。何日もかけて川を漕いで来た。そしてあの川べりに船を着けてお参りしたんという、そこまでして、この地の果てに来るほど、ここは大切な場所だったんであろう、
高貴な人々が、何度も熊野を訪れているという。何のためにだろう。何を祈るために来たのだろう。もしかしたら、昔の人たちもただ「空っぽ」になるためにここまで来たんじゃないかなあ、ってそんな気がした。
身体のつまりが取れる気がした、春の陽光の下ぽつんねんとがらんとした草原の真ん中に寝そべって、春の一日陽光を見ていた。
本当に、立っているだけで身体のなかを風が抜けていくような、清々しい気持ちになってくる。ずっと同じ言葉、同じ考えを繰り返し人に話していたら、自分ががんじがらめになってしまいそうになって、
「同じ言葉を繰り返すというのは、一種の呪術ですからね」
ああそうか、そうだよなあと思った。繰り返しているだけで言葉は別の力をもってしまうのだ。だからたとえ誤解されようと、オマエはいつも言うことが違うと非難されようと、言葉は解き放たなければいけないんだ、そう思った。
その瞬間に閃いてしまったことを話せばいいんだよな。前はこう言ったとか、あの人にはこう言ったとか、そんなこと考えないで、生きている瞬間瞬間に言葉を解き放てばいいんだよな。そうすれば言葉が身体に詰ることはなくなるに違いない。