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国立国会図書館デジタルコレクション - 紙漉重宝記
昨年、和紙がユネスコ無形文化遺残登録になりましたね。
和紙の歴史と言うと高句麗から渡来した曇徴という僧が西暦610年に伝えたと言われる事が多い。
Wikiにあるようにこれは日本書紀に書かれている記述。
あちこちに書かれているけどその日本書紀の記述は、
十八年春三月、高麗王貢上僧曇徴・法定。曇徴知五經。
且能作彩色及紙墨、并造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟。
これの現代語訳は、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。
曇徴は五経を知れり。また彩色及び紙墨を能く作り、
併せてみず臼(水車の動力を利用した挽き臼)を造る。
すなわち、大和朝廷に高句麗王が曇徴を貢とあり、曇徴は「紙を能く作り」とある。
すなわち日本書紀では曇徴は大和朝廷に貢がれた立場であり、紙の作り手で製紙を伝えた
との記述は無い。
曇徴が大和朝廷に高句麗(紀元前37年~668年)王から貢がれたのは日本書紀によると610年。
この頃、半島の南端には任那日本府が存在した。そしてこの時代に大和朝廷の許しが無いと
造れない前方後円墳が半島南部全体から発掘されている。
半島南部まで勢力を拡大して前方後円墳まで作る程までに浸透していた大和朝廷。
だからこそ僧曇徴を朝廷に貢いだ。
ご存じのように高句麗は唐によって滅亡させられたけど、一部は日本に渡り埼玉県の高麗に
移り住んだ。乱暴な言い方をすると、滅亡させられた高句麗を滅亡させた側が祖先として
高麗神社で崇めるのはある意味滑稽だなと思う。
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正倉院に残されている文書料紙の調査で、和紙特有の方法ではなけらば作ることが出来ない
紙が数例発見されているが、現代に名前が韓紙と変わった漉き紙の特徴を持つ紙は無い。
すなわち、この時期には和紙特有の製法の確立があったのではないかと思う。
日本、中国、韓国ではそれぞれ道具と漉き方が違う。
中国では紙料水を掬い余分な紙料水を捨てる、朝鮮半島では紙料水を簀桁に掬い流し去る。
日本では桁が四方にある簀桁を使い、日本固有の流し漉きという方法で製紙する。
↓島根県石見地方の石州半紙
Sekishu-Banshi: papermaking in the Iwami region of Shimane Prefecture
↓中国の安徽省宣城市涇県で作られる宣紙
The traditional handicrafts of making Xuan paper
↓韓国の韓紙
Making hanji: Korean papermaking by Shin Hyun Se
韓紙で伝統的な方法の次に他の方法として中国と日本の方法を混在させたような方法の紹介
があるが、日本併合時に収益改善の為に日本の製紙方法を伝えたが、その伝えた方法だと
思う。現在の韓紙の製紙方法はこの伝えた時の方法になっている場合が多い。
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正倉院に残されている文書料紙に日本の方法でなくては作られない紙料がるという事実。
そして伝わったと言われている方法ではその紙は出来ないという事実。
伝わってきたであろうが時代的に半島経由では無く、大陸から海路でと思うのが自然と思う。
紙自体の伝来は考証学的に4~5世紀と言われている。日本書紀による曇徴は610年、最短でも
考証学的には曇徴の100年前には紙を手にしている。そして、Wikiには403年に国史を配置し
て記録を始めたとある。これはこの時に紙があったという事。
正倉院文書、律令公文の資料として最古でしかも性格に年代が判明している文書は702年
(大宝2年)の戸籍。漉き方の差異ははっきりしている、和紙は元々はどうであれ言われて
いる年代より古い時代から作られていない限り正倉院の和紙存在はありえないのかと思う。
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多くの朝鮮半島南部に発見された大和朝廷の前方後円墳、それ以前の日本で言う縄文・弥生
時代。黒曜石は重要な道具でしたよね、その黒曜石、主な産地は神津島・霧ヶ峰・九州等
全国にわたる。壱岐の黒曜石はウラジオストクまで渡り、腰岳産や佐賀県産の黒曜石は朝鮮
半島や沖縄にまで渡っている。神津島の黒曜石は本州で使われていた。
埴輪、昨年のニュースで全羅南道の咸平で「5世紀後半から6世紀前半に造られた古墳で、
鶏などをかたどった形象埴輪の破片が出土」というのがありました。
この形象埴輪は日本から伝わったとあるが、その時代の大和王朝を考えると納得する。
サザンオールスターズが復活の時、「ピースとハイライト」で
教科書は現代史を
やる前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
何でそうなっちゃうの?
と歌っていたけど学校教育に何を求めているの?
限られた時間で、全ての人間を対象に教育していたら時間なぞ足りない。
学校教育、振り返ると「道」を示してくれただけとでもいえる。でもそれが一番大切。
歴史教育、日本史・世界史、どこまでご希望か?昭和だけでもきちんと学究的に授業を
するならばとんでもない時間が必要になる。
各個人が自身の必要に応じて学ぶしかないのではと思う。
自分で学ぶ、その為の道筋を学ぶのが学校教育だったのではないだろうかと思う。
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誤記等が判明したら追記修正します。(多分、認識不足や思い込みがあるかと・・・)