・空を飛ぶことが出来て
・海を泳ぐことが出来て
・陸を歩くことが出来る 乗り物、なーんだ?
答えはUS-2.
最近何かと話題になっている海上自衛隊の飛行艇だ。
着水・上陸 (小笠原諸島 父島)
客船「ぱしふぃっくびいなす」の傍に着水するUS-2.
ぱしふぃっくびぃなすは全長約180m 排水量約26500トン。乗客696人収容の船。
全長だけで言えば航空母艦 「龍驤」くらいやね。排水量はびぃなすが二倍あるけど。
※動画の終わりごろにはスロープを使って上陸する光景が見られる。面白い光景!
離水
癒し系だのう。
この機体を見て「ほっこり」したなら、それは「萌え」ですぞ。
●
この飛行艇は、ヘリコプターよりも
・速く(最大で時速580キロ)
・遠くへ飛ぶことができる。(航続距離4700キロ)
さらに
・時速90キロ台で飛行可能(大きく重い飛行機が遅く飛ぶのは難しい!)
・3mの波高までなら着水可能
・280mという超短距離で離水可能
・滑走路を使って離着陸することももちろん可能
性能的には世界最高の飛行艇だ。(ほかにライバルが居ないとも言うが)
滑走路が無くて良いため、日本のような広大な海、沖に島がある海洋国家にフィットする機体で、実際、ヘリコプターでは救助不可能な遠洋に飛んで行って、救助活動をすることもある。普段はヘリでは往復できない小笠原諸島の急患搬送に使われているそうだ。・・・急患になって乗ってみたい・・・かも。
調達予定は全部で7機。(ワンオフに近いじゃないか・・・)
世界的に珍しいレア飛行機であるUS-2.
独特で素敵な飛行艇だと思う。
■
わりと有名だがUS-2にはご先祖がいる。
太平洋戦争で活躍した二式大艇がそれだ。
二式大艇は
・航続距離最大8000キロ超(当時の水準の2倍以上)
・最高速度465キロ(当時の飛行艇より100キロ以上速い)
・20ミリ機関砲5門、7.7ミリ砲4門の重武装
・燃料タンクは被弾対策済み、要所に自動消火装置有り。
等・・・
という、超高性能な飛行艇だった。
当時、日本は滑走路を作るのはツルハシでの人力作業だったため、進出先の東南アジアの島々にイチイチ滑走路を作ることが出来なかった。ゆえに水面に下りられる飛行艇が活躍した。
一方、米軍はブルドーザーを使って短時間で滑走路を作っていたため、高性能な飛行艇が必要なかったわけで、そう考えると二式大艇は苦しい日本の事情を反映した機体だったと言えるのだが、それはそれとして、高性能で恐れられた飛行艇だったのは事実だ。
実際、飛行艇としては破格の重武装で、B-17、B-25爆撃機に襲い掛かって撃墜して帰ってきたこともあるらしい。戦争中期以降、制空権を失ったアジアの空を二式大艇は西へ東へと奔走していたわけだ。
しかし、戦局の悪化には勝てず・・・。
167機製造された二式大艇、終戦時に残存していたのは11機だったという。
※見ないほうが良いかも。
米軍機に撃墜される二式大艇。さすがに編隊を組んだ戦闘機には勝てない。
(これが戦争か。カラーでガンカメラを装備している米軍機にも国力の差を感じる。)
■■
・・・話をUS-2に戻そう。
現在、US-2は神戸の東灘区で細々と生産されている。
その工場は、かつて二式大艇が作られていた場所そのもの。大戦時に生産していた川西飛行機から技術を引き継いだ、新明和工業がUS-2が生産している。
70年の時を経た親子みたいなものか!?
戦いを強いられることなく、人命救助に専念できるUS-2、
それは二式大艇が得られなかった、飛行艇としての理想の使用環境なのかもしれない。
二式大艇とUS-2、およびその関係者に敬意を表して。
ちなみに、艦これ攻略wikiには二式大艇の解説がぎっちりつまっていたりする。
艦これは現代史だ(至言)
「とんぼ」の船に続くかも!
以下、そのコピペ。この情報量(笑)
※無理に読まなくて良いです
▲ ▼
小ネタ
飛行艇のバケモノ傑作として知られる川西航空機H8K 二式飛行艇である。
「二式大艇」「二式大型飛行艇」等の俗称がある。
読みは秋津洲が言う通り「にしきたいてい」で良いのだが、帝国海軍では「大」を「だい」と濁らせて読むことが多く(大佐=「だいさ」等)、二式大艇もまた「にしきだいてい」とも読まれていた。
飛行艇は海面から離着水を行うために、「船(艇)」と「飛行機」との両方の性質を併せ持たねばならず、本来は陸上機より太い胴体を要求され空力的に不利である。*1
しかし二式大艇を計画するにあたり、海軍側が川西航空機に要求した性能は、前任機並みの攻撃力を備え、さらに大航続力をもった高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。
艦船の対米劣勢を基地機の充実で覆すつもりであり、大型陸上攻撃機「深山」も同時期に要求された陸上機版ライバルと言える存在であったが、こちらは凡庸な性能となって計画中止。試作された機体は輸送機に転用された。
-
海軍軍縮条約締結後、日本海軍は一貫して米戦艦を戦略目標として漸減邀撃作戦を練り続けていた。
軍縮条約で艦船劣勢の中、日本海軍にとって大型飛行艇とは
・軍縮条約の枠外で増強できる戦力で
・基地建設が禁じられていた信託統治下の南洋諸島から出撃できる
戦略的任務を帯び続けた爆撃機であり、陸上攻撃機*2と並び立つ「正面戦力として」期待され続けていた。
海軍が大正期に輸入した最初の飛行艇からして400kgの爆装が可能であったし、昭和初期の九〇式飛行艇は爆装1トンへと至っている。
海軍は大型飛行艇に「攻撃兵力」として水平爆撃*3を中心に期待をかけていたのである。
そして完成した九七式飛行艇の高性能をもって海軍の期待は最高潮に達する。
「これなら周辺艦艇削るどころか、対戦艦兵力として使えるんじゃね?」
+ 九七式飛行艇とは
こうして1938年、海軍は中島に十三試大型攻撃機(後の「深山」)を、川西に十三試大型飛行艇(こいつが二式大艇となる)をほぼ同一仕様で要求している。搭載量は九七式大艇と代わらないが、大幅な速力と航続力の向上が要求されていた。
「戦艦を撃沈できる兵装」としては41cm砲弾を改造した800kg徹甲爆弾*4が開発され、大攻と大艇は「対戦艦用攻撃機」としての期待は一層色濃いものとなった。
「戦艦に命中させる兵術」として編隊で散布界を構成して命中を期待する「編隊水平爆撃」が提唱され、これは後に中攻(九六式陸攻、および一式陸攻のこと)がマレー沖海戦で実施。海戦最初の命中弾を得ている。
+ え、大艇といえば雷撃じゃないの?
中攻で諦められた対20ミリ防弾に関しても大攻と大艇で実施され、艦爆による空母破壊に先んじて敵艦隊を強襲するつもりだったことが伺える。
ここまで明確な使用意図と周到な準備をされた十三試大艇計画であったが、実機の制式前に最大の問題が発生していた。
それは「漸減邀撃は諦められ、戦略目標の米戦艦が真珠湾で壊滅したこと」だったのである。なんという出オチ
そして出来上がったのがこの 軍艦 飛行艇。当時の日本の技術の粋を集めて開発された、世界屈指の性能を誇った傑作飛行艇である。
大型飛行艇としては前例のない、偵察過荷状態で8,223km(一二型)という長大な航続距離と最大約24時間の滞空性能、465km/hの高速性能を併せ持っていた。
エンジンは当時の日本で最強クラスの三菱・火星を選択。
薄く、前後幅に対して左右幅の広い主翼に、巧妙なフラップ機構を組み合わせることで、ただ速く飛ぶだけでなく、経済的な巡航性能や低速時の安定性も同時に実現させていた。
この他、構造設計や材質にも航空機として優れたものが用いられており、これらの要素を積み重ねた結果の性能だった。
その一方で、高性能を実現するために離水時の安定性をギリギリまで削り込んだ結果、配備初期は「離水操縦をマニュアル通り行わなかった為の事故」も多発している。
先にも少し触れられているが、船としての安定性と、航空機としての飛行性能は、概ねトレードオフの関係にある。
本機は空中での性能を最優先し、従来の飛行艇よりも横幅を抑えた、陸上機に近いスマートな艇体を採用している。
その副作用として、
1.水上滑走中はピッチ軸の安定性が悪く、いいかげんな操縦をおこなうと急激な機首上げ・機首下げが連続して発生する傾向(ポーポイズ癖)
2.鋭い艇体が蹴立てる盛大な波しぶきが、尾翼やプロペラを直撃して損傷させる問題
を抱えることになった。
ポーポイズ癖への対処として、操縦席の風防ガラスに細い横線を描き入れ、加えて風防の前に立つピトー管の支柱に小さな横棒(通称「かんざし」)を取り付けた。
これらと水平線を目安に操縦することで、滑走に最適なピッチ角*5を維持して離水速度まで加速、あるいは安全に着水することができたのだが、操縦マニュアルがなかなか前線まで浸透せず・・・
波しぶきへは、艇体の前部底面左右に「カツオブシ」と称される波抑え用の張り出しを設け、発生した波を叩き消すことで対処した。*6
海軍側の要求仕様と、爆弾倉を設けず簡潔にまとめられた設計などの要因で、投下兵装の搭載量はこの規模の機体としては少ない。爆弾なら最大2t*7、魚雷ならば2本である。
代わりに凄まじいのが燃料の搭載量だった。実際には飛行計画によって変動するが、一般的な哨戒・偵察では8000~12000リットル、過荷重で15000リットル。諸々無理して限界まで積むと18000リットルまで届いたという。
燃料タンクにはゴム被膜による被弾時の防漏措置が施されており、さらに火の気がある部位には自動消火装置が設けられている。
当時の日本軍機としては異例の受動的防御性能であり、世界の大型四発機の水準に並ぶダメージコントロール能力を備えていた。
特筆すべきは防御火力で、7.7mm機銃×4機に加え、20mm機関砲×5門を装備していた。
「弾幕を張って寄せ付けない・敵機が攻撃態勢に入ることを阻止する」ことを第一目的として小口径銃を多数装備するのが一般的な中、小型機どころか大型機にさえ致命弾が見込める威力の機関砲を装備したのである。
弾薬の重量があり嵩張ることや、発射レートの遅さから弾幕が薄くなる、などの欠点があったが、相対する敵機のパイロットへ与えるプレッシャーは大きかった。
機内には指揮官や操縦士、機関士、航法士、無線士、銃手、爆撃手など、艦艇と同様にそれぞれが役割を分担して乗組んでいた。
長距離飛行を行う乗員達を支えるため、機内には休憩スペースや寝台、便座、電気冷蔵庫や空調も完備されていた。二式大艇ホテル
だが気化ガソリンへの引火の恐れがあるため、喫煙は厳禁だったという。
上部折りたたみの中にあるとおり、二式大艇が制式化されるころには、すでに漸減作戦という戦略に見切りが付けられていた。
その戦略下で攻撃機として計画された二式大艇は、確かに高性能ではあったが、ともすればオーバースペックと言えるのも事実だった。
製造時の必要資材が多い、飛行時の燃料消費量が少なくないなど、当時の日本の国情を考えると手に余る要素もいくらかあった。
現場においては、構造材の疲労*8やコーキング材の粗悪さから水漏れに悩まされ、溜まった海水を日々バケツで汲み出す作業が必須だった。その他、大型で複雑な構造は、維持整備に関して面倒な点を少なからず抱えていた。
それでも「諸島戦域での作戦には高性能な水上機・飛行艇が有用である」という発想の合理性には確かなものがあった。
飛行艇として一般的な、哨戒や輸送・連絡、救難といった任務に十分に対応し得る汎用性も、二式大艇は持ち合わせていた。
中でも長距離偵察任務では、生まれ持った抜群の航続距離と、いざというときの防御力を遺憾なく発揮したのである。
偵察・哨戒先で、自身と同様の任務に就いていた米軍哨戒爆撃機と遭遇した際には、四発の大型機同士で空中戦を演じることもしばしばあった。
場合によっては、二式大艇のほうから積極的に攻撃を仕掛けていくことさえあったという。君、飛行艇だよね…?
追撃を無事に振り切り、あるいは敵機をボコボコにして帰って来たはいいが、なまじ空中で撃墜されないために乗員も気づかないうちに艇体が穴だらけにされており、一晩置いといたら沈没していた、という珍事もあったらそうな。
一方で、細身の艇体は、輸送機として用いる場合に収容力の点で不満が残った。
これに対して川西が出した回答が、機内の区画配置を見直し、背の高さを生かして2層床構造とすることで積載に有効な床面積を稼ぎ、空間効率を改善した輸送機型の開発だった。
さらに機内を隔壁で5ないし3に区切り、1区画ごとに兵員用のベンチ席、将官用のソファ席、貨物用の平床の3仕様へ、容易に設備換装できるよう配慮された。
こうして誕生し、少数が量産された二式輸送飛行艇「晴空」は、胴体内タンクの撤去に伴う航続距離の半減や、防御火器の減少、大型貨物の搭載ができないという弱点もあったが、快速は元設計ゆずりであり、諸島間を高速で結べる輸送艇として重宝されることになった。
1942年には大航続力を生かして2機で真珠湾を再空襲している(K作戦)。
攻撃前に北西ハワイ諸島のフレンチフリゲート礁付近に着水し、伊19と伊15から給油をしてもらっている。その日の夕方頃に離水し、ハワイへ向かった。
3月4日夜間、オアフ島沖へ到着。それぞれ4発の250kg爆弾を投下し帰途についたものの、上空の視界の悪さなどが災いし、爆弾は真珠湾内の目標を外れて周辺の道路などに落下。アメリカ側の被害は軽微だった。
その後、ミッドウェー海戦に際し、米艦隊の動向を探るためのハワイ偵察作戦(第二次K作戦)が発動された・・・・が
先のハワイ夜間空襲で米軍は神経を尖らせており、日本軍がフレンチフリゲート礁を補給拠点にしていた疑いを持たれ、米軍は警備艦艇を派遣。
補給担当の潜水艦が接近できない事態となり、ハワイ偵察は中止されてしまう。その後のミッドウェー海戦の顛末は誰しもが知るところであろう。
また戦況の推移は、二式大艇がその性能をいつまでも持て余すことを許さなかった。
対艦攻撃機としての設計に由来する高速・高防御力は、しかし当初の艦隊強襲という想定よりもさらに過酷な環境で、その真価を問われることになった。
すなわち大戦後期、敵制空権下・敵制海権上の南洋諸島における強行輸送・救命任務である。
いかに大型・高性能と言えど所詮は航空機であり、艦船に比べれば積める量には限度がある。前線で飢えに苦しむ将兵の数を考えると、食糧を満載して何往復しようが焼け石に水だった。
二式大艇自体も、P-51をはじめとする高速・長航続距離、かつ多数の新鋭戦闘機による波状攻撃にはさすがに耐えられず、多くの機体が乗員もろとも次々と失われていった。着水停泊中に空襲で沈められるケースも激増した。
資材事情・燃料事情は日に日に逼迫していき、さらに川西が局地戦・紫電改の生産に集中したことで機体の供給量が極端に低下*9し、まともな補填・補給も望めなかった。
そんな絶望的な状況の中、それでも諸島の間を飛び石を渡るかのように駆けまわり、多くの人間を飢えから救い、また戦線後方まで送り届けることに尽力し、成果を残している。
ところで、そんな二式大艇のことを、敵方である連合軍側はどのように考えていたのだろうか。しばしば登場するのが「フォーミダブル」、恐るべき機体、というニュアンスの表現である。
特に1944年以降、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御性能の高かった二式大艇は、連合軍機にとって一筋縄ではいかない存在だった。
当時の連合国戦闘機の主流であった多連装の小口径銃という装備では、防漏タンクと消火装置のせいでなかなか致命傷を与えられない。
ならばと接近してコックピットやエンジン、主翼外側といった急所を狙おうとすれば、20mmの砲口が多数待ち構えている。
唯一、飛行艇の必然として銃塔などを設けることができない機体の真下には死角があったが、気付かれて低空に逃げられてしまうと簡単には狙えない。
そのうえ逃げ足が飛行艇としては段違いに速く陸上四発機並みで、さらに航続距離も長いため、追撃できる機種が限られる。
挙句の果てに、油断しているとあちら側から空戦を仕掛けてくるケースまである。
・・・とまあ、とにかくイヤな挙動をしてくるわけである。それも、飛行艇が。
「少なくとも半端な機種・機数で安易に近づくのは非常に危険だ」と認識された機であり、同時に「飛行艇で実現できる空中性能などたかが知れている」という常識に風穴を開ける存在でもあった。
戦後、二式大艇の調査に同乗した米海軍シルバー中尉は、その高性能に驚嘆して「日本は戦争には負けたが、飛行艇では世界に勝った」と賞賛の言葉を送っている。
167機生産されたが、終戦時に残存していたのは11機のみ。そして現在、世界で唯一の現存機(二式飛行艇12型H8K2)が鹿屋航空基地史料館にて保存されている。*10
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A.攻撃用としてはそこまで性能を追求する必要がなかったので、むしろ哨戒や輸送、救難などの補助任務を主眼に開発・運用されていました。
日本海軍は米国に比べて不足する戦力を埋めることが先決であり、潜水艦まで正面戦力として計画しそして戦後にニミッツ提督に呆れられていたぐらいである。基地化を禁じられた南洋諸島を出撃拠点とできる飛行艇にも「艦隊漸減」を期待し、どこにくるかわからない敵艦隊を捕捉するための航続力、迅速に戦力をかき集める為の速力が求められていた。
一方の諸外国は、小島を舞台とした戦争を経験していなかったので攻撃機としての有用性を認識していなかった。おまけに水上機は陸上の航空基地とは別個に水上機基地を用意して物資や人員を割かなければならず、整備や補給、運用面で無駄が出るという点も問題があった。ただ、米国には高い建設能力があり短時間で飛行場を建設できるためつなぎの必要が無いという特徴があった。
以下、米・英・独の飛行艇についてその数種類を紹介。
まずアメリカでは数種類の哨戒・爆撃が可能な飛行艇が開発されていた。
第二次大戦時には既に旧式だったPBYカタリナ飛行艇*11や沿岸警備隊のJ2Fダック*12が、哨戒や捜索救難、機雷敷設等で活用されていた。これらの機体は陸上基地との連絡や補給・整備を容易にするために、引き込み脚をつけた水陸両用機としても運用されている。
他に、本土沿岸およびハワイ周辺の防衛を担うものとしてJRMマーズ(二式大艇すら凌ぐサイズの巨大飛行艇)であった。が、これは試作のスケジュールが遅れ、初飛行の時点では既に「基地を作って陸上機で運用すればいいじゃん」という認識になっており、長距離輸送艇に設計を変更された。また、エンジンの出力不足に所定の性能を発揮できなかったPB2Yコロナドも輸送用飛行艇に転用されている。
陸上機による洋上哨戒任務には、初期にはB-17系、その後は重武装のB-25G/H型や、より航続力に秀でたB-24系が用いられた。B-24の海軍仕様PB4Y-1に、低空での長距離哨戒に特化して最終的な改良をおこなった機体としてはPB4Y-2プライバティアの例がある。
PB2Yコロナドと同規模の機体ながら、より強力なエンジンの双発を選んだのがPBMマリナーであった。搭載量・爆装量はPB2Yより若干少ないものの、速度は同等、航続距離に関してはより長くなっていた。大戦中期以降の米軍主力飛行艇として、輸送任務以外でもそれなりの活躍を見せたいたことからも本気の優秀性が窺える。
みなさんご存じ、お家芸のチート級生産能力を発揮して、ちゃっかり1000機以上増備している点にも注目してほしい。陸上機でいいんじゃなかったのかよ・・・
米:飛行艇いらない、とは言ってねーぞ? そもそもこいつはPBYの更新用だからな。
次に、英国飛行艇としては大型で哨戒用として開発されたサンダーランドが著名である。敵方からは重武装ぶりを指して「空飛ぶヤマアラシ」と呼ばれ、特にUボート乗りたちからめちゃくちゃ恐れられていた。
Q.飛行艇に爆弾倉を設けたいけれど、底面に扉をつけると水密に問題が出る。あなたならどうする?
英国紳士:主翼下のボムラックを引き込み式にすればいいんだ。主翼の下表面にガイドレールを設けて、主翼直下の胴体側面にボムベイ・ドアをつける。
Uボートを見つけたらドアを外して、片側4つのボムをラックごとこう、ガラガラっとレールを滑らせて機外に出して、リリースする。補給の時はラックをクレーン代わりに使い、予備のボムを機内に運び入れるんだよ。
主翼内に引き込むわけじゃないからフューエルタンクの容量も削らずに済むし、滑走中の波しぶきからボムを守れる。飛行中の再装填も可能だ。実に合理的じゃないか、クールだろう?
・・・紳士のコメントはさておき。
欧州戦線の最前方、ドイツ本土爆撃とその護衛に奔走する連合軍機のパイロットたちにとって、Uボート乗りたちの見方とは対称的に、この機体は救いの女神だった。海上への不時着機発生の報を受けたサンダーランドは一目散に飛んでいき、海面の状態が許せばそのまま着水して搭乗員たちを拾い上げ、たとえ着水できないときでも各種サバイバル用品を投下して、生き残るための行動を支援したのである。
一方のドイツ空軍は、洋上哨戒任務に陸上機Fw200を充てていた。
旅客機を母体とした四発の哨戒爆撃機で、船団攻撃で計35万トンもの英商船を沈めた大戦初期の暴れっぷりや、哨戒機としてUボートの誘導を担ったことから「大西洋の疫病神」とまで呼ばれた・・・が、生産配備が遅々として進まず、稼働機数が揃わない。*13
ドイツ空軍の飛行艇はこのFw200を補完し、一般的な哨戒・偵察、捜索救難や輸送に加え、Uボートとの連携、索敵能力に欠ける潜水艦隊の目となることが任務のひとつだった。大戦初期は通商破壊に貢献。中期以降はCAMシップや護衛空母の投入、陸上戦闘機の航続距離延伸によって制空権が奪われゆく中、多様な任務に奔走した。
主力となったのは中型の三発飛行艇。代表格がBV138*14とDo24である。整備補給と運用効率化のため、これらを運搬し、射出する能力を持つブッサート級カタパルト艦も建造された。中型とはいえ全備で15トン以上はあるんだぜ・・・重量制限とか無かったのか?
なおBV138の派生型BV138MS(掃海型)の存在も注目される。なんだよこのUFO・・・というか、磁場の乱れを作り出して磁気感応機雷を爆破除去するって・・・え、他の航空機にもこの仕様があったの?
他、双発のDo18は開戦時には旧式化していたものの洗練された機であり、救難機として終戦まで運用された。
超マイナーな存在として、たった1機の試作機ながら流麗な機体を持ち、解放後に実戦投入もされたフランス海軍のPotez-CAMS 141飛行艇があった。どうか忘れないであげてください・・・
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何を以って高性能とするか、という点はしばしば論争の種となる。
というのもこの二式大艇、航続距離と速力に関しては、当時の飛行艇としてはあまりにも規格外の存在で、同規模の陸上大型機との比較でもそれなりにタメを張れてしまうのだ。
一方で同世代の飛行艇には、
・「機体規模や搭載能力を究極的にインフレさせる」
・「規模を抑えることで取り回しの良い機体を目指す」
という2つのトレンドがあり、こと前者に関しては、二式大艇を凌ぐサイズや搭載量を誇る機が、試作機・量産機を合わせていくらか存在したのである。
さらに開発当初の目論見が戦略級のものだったことや、比較可能な陸上大型機の母体が戦略爆撃機というケースが多いせいで、実際の二式大艇がこなした任務とは乖離した文脈で議論が展開されることも多い。
機体自体の性能だけに着目せず、それをどれだけの数生産・配備して運用できたか、という、国力を絡めた話になることもある。
世界の主力飛行艇・哨戒爆撃機 簡易比較表
国 機名 機体分類 エンジン数 乗員数 航続距離 最大速度 全幅 重量 防御兵装 投下兵装 各タイプ合計生産数
日 九七式飛行艇二二型 飛行艇 4 9 6,580km 331km/h 40.0m 自重11.7t/最大21.5t 20mm×1,7.7mm×4 爆弾2t又は魚雷2本 179機
日 二式飛行艇一二型 飛行艇 4 10 8,223km 465km/h 38.0m 自重18.38t/最大32.5t 20mm×5,7.7mm×4 爆弾2t又は魚雷2本 167機
米 PBY-5Aカタリナ(参考用) 水陸両用 2 10 4,030km 314km/h 31.7m 自重9.5t/最大16t 7.62mm×3,12.7mm×2 爆弾/対潜爆雷1.8t 3,305機
米 PB2Y-5コロナド 飛行艇 4 10 1,720km 310km/h 35.05m 自重18.53t/最大30t 12.7mm×8 爆弾5.4t又は魚雷2本 217機
米 PBM-1マリナー 飛行艇 2 7 4,800km 330km/h 36m 自重15.048t/最大25.425t 12.7mm×8 爆弾/対潜爆雷1.8t又は魚雷2本 1,285機
英 サンダーランド Mk.Ⅲ 飛行艇 4 9~11 2,848km 336km/h 34.39m 自重15.663t/最大26.332t 7.7mm×16,12.7mm×2 不明(爆弾・対潜爆雷搭載可能、爆弾架は片側450kgまで対応、飛行中再装填可能) 777機
独 Fw200C-3/U4コンドル 陸上機 4 5 3,560km 360km/h 32.85m 自重17.005t/最大24.52t 13mm×4,20mm×1 爆弾5.4t 276機
独 Do24T-1 飛行艇 3 6 2,700km 340km/h 27m 自重10.6t/最大18.4t 20mm×1,7.92mm×2 なし 279機
独 BV138C-1 飛行艇 3 6 4,300km 285km/h 26.94m 自重11.77t/最大17.5t 20mm×2,13mm×1 爆弾300kg又は対潜爆雷600kg 297機
第二次大戦中に実戦投入されたものから抜粋。
最大速度は飛行高度や大気条件などによって、また航続距離は巡航速度・高度や燃料と搭載物の重量比などによって大きく変動するため、諸条件が画一化されていないこの表では、厳密な比較はできないことに注意。
例えば爆装量に着目すると、二式の最大2トンに対し、ほぼ同じサイズのPB2Yは最大5トン以上、B-24系は3~6トンほど、ずっと小さい双発のPBYでも1.8トンの爆弾を搭載可能。
この数値に各飛行艇の設計思想の違いや、戦略爆撃機を母体として生まれた米陸上哨戒機との差が表れているわけである。*15
ことさら巨大さが強調されがちな二式大艇であり、実際に大きな機種なのだが、それでも飛行艇というカテゴリの中では、いたずらに肥大化することを避けるトレンドに近い設計がなされていたと言える。
さらに飛行には不要な要素を限界まで削ぎ落とすことで、陸上機とも比較できる性能を実現した点に、この機種の独自性があった。
その重厚な印象とは裏腹に、必要にして十分な程度の装備を抱えて溢れんばかりのスタミナと俊足を武器に空を駆ける、軽騎兵のような存在だった。
あえて「世界一」という表現を用いるならば、「世界で一番の性能を持っていた飛行艇」というよりは、「世界で唯一つの性格を持っていた飛行艇」という解釈が正しいのかもしれない。
・・・そのような見解を差し置いても、先達が苦労を重ねて獲得した平和な時代なのだ。ここは穏便に、誤解の除去と認識の協和に努めるべきだろう。
少なくとも怪しい雲行きを感じたならば、素早く退避して様子を見るのが一番である。そう、二式大艇の快速のように。
その例えだと、むしろ積極的に殴り合いに参戦するんじゃないか、って? 細かいことを気にしてはいけないのです!
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図鑑にある「後継」とは海上自衛隊の運用する救難飛行艇「US-1」と「US-2」のこと。*16
これらは元・川西航空機である新明和工業が製造している。
ちなみにこの後継機たちもある種の怪物である。
二式大艇の開発で培われた基礎設計のノウハウに、戦後研究された短距離離着水を可能とする新技術を融合。
こうして開発された対潜哨戒飛行艇PS-1をベースに、水陸両用化や各種装備の改良をおこなった結果、離島の小さな飛行場や荒波の外洋でも運用可能*17な、世界的にも稀な能力を持つ新たなバケモノが誕生した。
「お前の飛び方はおかしい」と評される超低速飛行や、もはや冗談の域の短距離離着水の模様は必見である。
ただし、原型機となるPS-1は別の意味でも怪物であった。*18世の未亡人製造機を僭称する機体達はPS-1様にひれ伏すべき。*19
奇しくも二式大艇が艦これに実装された2015年4月28日に、US-2は離着水訓練中に離水失敗で水没という事故を起こしてしまった。
「飛行艇を戦略攻撃機として使おう」という運用思想的な後継としては、米海軍の核爆弾搭載ジェット飛行艇、P6Mシーマスターが存在する。量産体制も整っていたが量産3機で計画中止。
実用上昇限度12,000m、最高速度1,010 km/h・マッハ0.9という高速を誇る。これを支えた細い艇体は1943年から50年台にかけてNACA*20で行われた膨大な研究の成果である。
だが、大型艦上攻撃機と弾道ミサイル搭載原子力潜水艦が実用化されたことで、核運搬に運用が面倒くさい飛行艇を使う必要が無くなってしまった。
戦後生まれの飛行艇のうち、上記のP6Mを含め巡航速度や航続距離を重視して開発された機種には、
「空力的に優れた細身の艇体を採用し、副作用として生じる水上特性の悪化は艇体設計の工夫でなんとかする」
という設計上の傾向があった。これは二式大艇の設計思想そのものだった。
これに当てはまらない機種でも、特に荒天下での運用を意図して開発されたタイプには、離着水時の波浪対策を艇体に盛り込むことが一般的になった。
それまでの水上機・飛行艇は、カタパルトによる発進を除けば、波の少ない海域や閉水域からの運用が前提で、救難に用いる場合でも海面が荒れていると着水できないケースがざらにあった。
また二式大艇が持つカツオブシも、主に自身が立てる波を抑えることが目的の装備で、外部の波浪に対する効果は副次的なものだった。
「実用的な救難用飛行艇」というジャンルは意外と新しく、その先触れとなったのがHU-16アルバトロス水陸両用艇*21であり、究極的な姿がUS-2である。
これら新鋭の飛行艇たちと二式大艇との直接的な関連を証明する資料は、新明和工業製の機体群を除いて、無い。*22
が、戦後の飛行テスト結果への反応を見るに、これら―特にアメリカ開発―の飛行艇群に二式大艇の影響が皆無であると断ずるのも、また早計であろう。
結果的に二式大艇の設計思想が、時流の一歩先を走っていたことは事実である。
上の折り畳みの中に書いてある飛行艇の2つのトレンドのうち、巨大化・大ペイロード化という方向性が、戦後の陸上機の性能向上、特にエンジンと高揚力装置の目覚ましい進化と、さらに大規模な陸上インフラの整備を可能にした土木技術の向上に負けて、消滅しちゃったという事情もあるのよね・・・カスピ海の怪物、もとい表面効果機も主流にはならなかったし・・・
その一方で、旧式飛行艇の改造機や、カナダの地でライセンス生産されたPBYカタリナ、およびそれを昇華・発展させたCL-215水陸両用艇が「消防用飛行艇」という分野を開拓した。
「ジェット化による陸上機並みの速力・高高度性能の追及」というアイデアは、P6Mの例のとおり西側では放棄されたが、東側で温められ、A-40アリバトロース水陸両用哨戒艇として結実した。
現在もそれぞれの発展型、CL-415とBe-200が販売されているが、二式大艇の系譜から外れるため、詳しい話は割愛する。
ネット関連では一発変換ででよく出てくる「錦大帝」という名前が妙にマッチしていて、隠れたあだ名になっている
二式大艇の飛行シーンなどを捉えた当時のニュース映画(youtube)