2012年10月21日
前書きとして…
この日記は私ペンペンの亡くなったおじいちゃんに関するものですが、私個人の独り言として書いてます。
どうしても今に留めておきたくて綴っております。
去る10月19日午前9時26分
母方の父であるおじいちゃんは、私の家族や親戚に見守られて静かに息を引き取りました。
もう生きている内に会うこともないと思っていたのに、先に着いた母や姉の気遣いもあり、日が変わる頃には父や弟らと共に無事介護施設には着いていました。
脳梗塞や認知症、色んな病気を患いながらも今まで耐え抜き、母の必死の介護の甲斐もあり、88歳の誕生日から11日目の朝、二度の山を越え、静かに、少しずつ、その鼓動を止めました。
ただ、その死に逝く姿、死してなお、皆から憎まれ口など一つもなく、介護の苦労話や楽しい思い出話だけしか出なかった事が凄くて、また私にとって、家族の中で実は一番大きな存在だったと気付かされました。
私が生きてきた23年間、会うことなんて100あるか覚えていない筈なのに、その逸話は沢山あり、実は私の専門学校の費用も出してくれていたと聞いたとき、少しずつ何かが崩れる感覚がありました。
涙なんて流すわけないと思っていたのに、実際はもっと会っておきたかったと後悔の涙しか出ませんでした。
ここでおじいちゃんがどんな人だったのか……そして逸話って何か触れていきます
私が覚えている限りでは、夏休みや冬休みを含めた連休に家族5人揃って山奥まで行き、数日間泊まらせて貰っていました。
いつも優しく、行けば必ずお小遣いを貰って、畑で作った野菜や手作りのソバやうどんを食べさせてくれて、晩になればバーベキューをしてくれたり、川で釣ったアメゴという魚を焼いて食べさせてもらってました。
夏はいつも決まった定位置に座り、新聞のトーナメント表を見ながら高校野球をテレビで観戦し、結果を書くほど毎年見ていて、冬は雪掻きをしながら、どうやって作ったのか、巨大な雪だるまの写真を送ってくれたりしてました。
帰るときは必ずおばあちゃんと一緒に手を振って送ってくれました。
夫婦仲も良く、確か私が中学位に金婚式の御祝いもしているのを覚えています。
また、割り箸と輪ゴムでゴム鉄砲を作って貰って、アブを相手にしてましたが、物凄くやんちゃというか、時々子供っぽいイタズラをされたのを覚えています。
その中でも一際目立ったのが、「良いもんみしちゃる」といって手の中から引きちぎったアブを見せてきたエピソードは、私を含めた家族と、母の兄にあたる伯父さんの家族が「あったあった」と口を揃えるほどでした。
てか…皆にやってたんだ……………アレ(・_・;)
無くなる前はちょっとしたことでも笑いがありました。
亡くなった後、皆で涙流しながら何か語ると思いきや、その思出話に笑わせて貰ってました。
特に母はおじいちゃんを特に気にかけていたのか、「おじいちゃんが寂しくないように一緒に寝てたら、ドライアイスの冷たさから風邪を引いた」と言ってました。中には「買ったばっかの車で迎えに来てもらったら、暫く後ろの扉を開けっぱで走ってた(笑)」と笑っていいのか驚くべきなのか解らないものもありました。
死してなお人を笑わせる
果たして自分にそれが出来るだろうか…
こんなにも人を笑わせて、人に愛される存在になれるだろうか…?
そう考えた時、今の自分の仕事ぶりを思い返していました。
まだ全然と言ってもいい程家族を楽しませられない自分と、亡くなってもまだその側で家族を笑わせているおじいちゃん………
自分が一番目指すとこにいた人が、こんなにすぐそばにいたのに気付けなかった…………
亡くなってはじめて気が付いた……………
それが悔しくて、辛くて、羨ましくて…
例え辿る道筋は違っても、最期はおじいちゃんのように死んで逝けるように、この日記を留めておきたい。
もうすぐ焼かれて骨になる…………そうなる前に…………まだ肉体がある内にこの日記を遺します。
おじいちゃんの孫で良かった。
自分も最期はそう思えるように今を必死に生きよう
だからずっと見守っていてほしい
いつかそっちに逝くその日まで
おじいちゃん
ありがとう
いっぱいいっぱいありがとう
ペンペン

Posted at 2012/10/21 05:35:00 | |
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