2015年04月30日
私事ではございますが、本日2015年4月30日、父親が永眠致しました。享年69歳の生涯でした。
年齢だけ見るとまだ若かったっしょ・・・と言いたいところですが、父親は以前から治る見込みのない肺の病気を患っていて、完治は望めなくても病気の進行を遅らせられるような療養をここ数年続けておりました。
四六時中酸素ボンベが手放せない生活でしたが、本人曰く『酸素ボンベさえあればまあ平気』、といった様子で、私は何だかんだで長生きしてくれんじゃない?ってな感じであんまり深刻には捉えておりませんでした。
ちょうど昨日がG・Wの祝日でしたので、私は自分の家族を連れて実家へ出向き親子3代で昼食会を開いたのですが、その時正直
『あー・・・だいぶ症状が進行したっぽいなー・・・』
とは感じたものの、普通に会話もできて普通に食事も食べていたので今すぐどーこー的な事は思いもしませんでした。
が、その日の深夜、兄貴から父親の容態が悪くなって救急車で病院に運ばれたので来てくれとのTELがあり、それでも今すぐどーこーじゃないでしょ?と考えつつとにかく病院に向かいました。
私が到着した時父親は集中治療室に運ばれていて、確かに苦しそうでしたがしっかりと会話もできて、『まあやっぱ今すぐどーこーじゃないよなー・・・』と感じたのですが看護婦さんからの説明では私が思うような軽い状態ではなく、一応万一の事を想定してどのような治療をしていくかと、ちょっと表現はアレですがどのような最期の看取り方をするのか、家族側と病院側で意思の統一を図ってその日は一旦お開きにしました。
そして一夜明けた今日の朝、入院の手続きと主治医の先生の説明を聞くためにもう一度病院へ行ったのですが、父親の症状は明らかに昨日より厳しく、先生からは『あと数時間位かも知れません・・・』との説明を受けました。
そんな状況でも父親は私たち家族の呼びかけにしっかりとしたトーンで応え続けてくれました。何だかんだ楽観していた私もようやく『こりゃあさすがに本当に最期だわ・・・』と覚悟ができて、父親が人生のラストスパートを走り切るのを見届けるハラをくくりました。
私と父親との最期の会話は、私が発した
『大丈夫かい?』
との問いに
『あー大丈夫だ』
との返答でした。
私はその返答に、文字通り最期の最期の会話として
『そっか(*´▽`*)』
と軽く笑って返しました。
私が軽く笑って『そっか(*´▽`*)』と言ったのは少なからず私の態度によって父親に自分の最期を悟られたくなかったんだと思います。でも父親も自分の最期が分かっていて『あー大丈夫だ』って言ってくれたのかなって気がしますね。有難い言葉を貰えたと思いますね。
ちょっと不謹慎じゃね!?と自分でも思うのですが、これを書いている今、あんまり“悲しい”って気持ちは沸いてこないんですよ。まだ実感が沸いていないって事もあるのかもしれませんが、今私は確かな手応えとして悲しい気持ちより感謝の気持ちを感じています。全くもって自分は幸せな息子だなとしみじみ思いますね!
私はかつて父親が乗っていた『ケンメリ』に憧れて車が好きになりました。明日が通夜、明後日が告別式ですが、何となく綺麗なアクセラで行った方が私を車好きにしてくれた感謝が伝わるような気がして、やっつけ仕事になっちゃいましたが先程アクセラを洗車してきました。
できればアクセラで遺影を運びたいのが本音ですが、喪主を務める兄貴のメンツ(?)もありますのでこの辺りは当日の流れに任せて、しっかりと父親を送り出していこうと思います!
もしこのブログを読んで下さった方がいらっしゃったら、全くもって私事で失礼致しました!父親との最期の思い出を何か形にしたくてブログにさせていただきました!大目に見てやっていただけたら幸いです!
Posted at 2015/04/30 21:28:34 | |
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