2011年05月18日
朝から父と母がさわいでた。
朝起きると「マルの首輪をはずした?」って、母に聞かれた。
ウチには犬の親子がいた。
マルは母犬の名だ。
僕が福島に戻ってきたとき(10年ぐらい前)には、それなりに大きくなっていたから、マルが生まれてから15年ぐらいは経っていたのだろうか。
休みの日には二匹散歩につれていくと、マルと、その子にひっぱられて、僕は息をきらせながら走らされたもんだ。
でも、1ヶ月ぐらいまえから、走るのがしんどそうで、ローブを離してもゆっくり歩くだけで、僕の前を走ろうとはしなかった。
目もよく見えなくなっていたようだ。
この前の日曜日に散歩に行った。
家の坂を登ったところで、マルは疲れて座りこんでしまった。
散歩から帰ってくると、普段はあまり飲まない水を、いっぱい飲んでいた。
マルの死期が近いのを感じていた。
夕べ、母がゴハンをあげたときも寝そべったままで、大好きなサラミを食べていたらしい。
ウチは、ドッグフードなんてあげれないので、サラミは散歩の後のちょっとしたご褒美だった。
ゴハンをあげても食べないので、サラミをあげたら食べたらしい。
もう、起き上がるのもままならなかったみたいだ。
今朝、マルはいなかった。
首輪がはずれて、首輪とチェーンがいつもの場所に残っていた。
マルの子供だけが、となりに座っていた。
いつも、僕を見ると散歩につれてけと、ぎゃんぎゃん騒ぐのに、今日はおとなしかった。
母がゴハンをあげても、あまり食べなかったようだ。
母犬がいないということがわかっているのだろうか。
猫は飼い主に死に際を見られないように、死期を悟ると出て行くなんて話をたまに聞く。
犬もそうだと言う人もいる。
ウチは田舎なので、家の周りは山ばかりだ。
ひっそりと、どこかに行くことはできる。
でも、自分で首輪を外せるだろうか。
だれも首輪をはずしてはいないという。
そもそも、首輪をはずすという発想が思い浮かばない。
首輪がゆるくて、抜けたわけでもなかった。
死期がせまって、神様がどこかに連れていったとでもいうのだろうか。
マルはやさしい犬だった。
散歩のときに離してやると、走っていた先で立ち止まって、僕が来るのを待っていた。
マルはお母さんだった。
もう二本のひもをつかんで散歩することはないだろう。
マルの散歩用の赤いひもは、いつもの場所にかけられたままだ。
Posted at 2011/05/18 22:48:12 | |
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