どんな宴にも終わりはある。宴を終わらせない事は不可能で、その意味を伝えることせめて忘れないことを願うだけ、なんだけど、人は宴の中で宴が続くことを何故か願うようになる。円安誘導がままならず、国のお金で株価を下支えする。稚拙にも程がある。チャリンコで大ケガをした人がその名で締め付けの手紙を出すようなものだ。時系列的には前日だからいいのだろうけど(苦笑)なんて書くと、悲観的とか言われたりして?でも、アベノミクスはこれからだとか、何処のジャンプの打ち切りじゃあるまいしね。モラトリアムであり、今は正しい、という意見は過去に述べたが改憲と忠誠が日本の全て、というなら国は滅ぶ。政権というよりは自民党の体質にはちと困っている。学習しようよ…。夏は生と死が激しく行き交う。一見穏やかな水面もその水面下では激しい争いがある。外野では蝉が鳴き交う。激しくも短い生の饗宴ともいえるけど。しかし破れたものは、命のえさとなる。断末魔の音は少し悲しく、その腕は動く。そして、屍肉は栄養となって食われることになる。ありもしない希望を語るのは欺瞞だ。それが希望を開く賭けになるなら兎も角その事すら見えない人間が意味のない希望を告げたところでなんの意味もない。中から蝿がわいたら、再生や生まれ変わりと言うのだろうか?この世には変わらぬもの等無いからこそ変わらないように、願い、見守る。喧騒と静寂の中に進むべき道を自問自答し、出ない答えを決断するのが、人間としての矜持になるときがあるいはまた…震災の時のように来るのかもしれないね。出来れば来ないことを願いたいけれど、覚悟だけはしておきたい。