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2015年08月31日 イイね!

AMC Jeep CJ-5 MB/GPW のレジェントを継ぐもの

AMC Jeep CJ-5 MB/GPW のレジェントを継ぐものAMC Jeep CJ-5 MB/GPWのレジェントを継ぐもの

20世紀の画期的工業製品として、ジープ・MB/GPWが、スミソニアン博物館に展示されております。
同様にして、トヨタ博物館にもGPWが展示されております。
第二次世界大戦中にアメリカが生産したJeepの数は64万台にのぼります。
この軍用Jeepの製造メーカーが、ウイリス社のものを「MB」といい、フォード社のものを「GPW」と呼んでます。
このMB/GPWがCJ5のご先祖さまになります。
ご先祖様のJeepのコンセプトを提示したのはアメリカ陸軍で、それに則り、プロトタイプを作ったのがバンダム社で、骸骨面のフロントエンドの意匠はフォード社により、パワートレインはウイリス社で、メカニズムはマーモンハリントン社の1/2トン4x4のスケールダウンからMB/GPWが生まれました。
戦後、余剰物資としてMB/GPWが民間に払い下げられました。
これが、CJ、シビリアン・ジープの始まりであります
 MB,GPWそのものを民生。    CJ1 
 ミッションをT90。出目に。    CJ2 
 テールゲートを設置       CJ2A  MB/GPWの欠点を解消。
 M38  CJ3Aの軍用 1枚ガラス。    CJ3A 軍用M38の母体。
 M606 Fヘッドのエンジン      CJ3B ノックダウンしたのが
                   CJ3BJ3(三菱ジープ)
 M38A1 この民生が ・・・ ・   CJ5 1954年~1983年まで
                シリーズ総生産台数603,303台。
 M170 ロングホイールベース        CJ6

以上が、おおまかな系図ですが、サイドビューはご先祖のMB/GPWからCJ6まで同じでドアーの切り欠きが、なだらかにアップするショルダーラインで後部へ続きます。1976年からのCJ7ではドアーの切り欠きは直角となり、フルオープンにした時、ジープらしさの美観を損ねていることは、否めないと思います。
シリーズを通じてオートマティック・ミッションはありません。MB~CJ3Bまでは3本シフトレバーで、ミッション、トランスファー、ハイロウで、CJ5になってシフトレバーとトランスファー兼ハイロウの2本となってました。トランスファーは通常オフで高速後2輪駆動。トランスファー、コネクトで高速4輪駆動。更にシフトすると低速4輪駆動の各モードを手動で選択しました。
CJ5の最初のエンジンは、M38A1のエンジンから防水装置を撤去し、12V電装としたCJ3B と同じのH4ハリケーンエンジン(三菱名JH4)でした。
このエンジンはFヘッドと云うエキゾーストバルブがサイドでインテークがOHVというレイアウトで、サイドバルブエンジンとOHVエンジンとの折衷エンジン型式で、かのロールスロイスは軍需用エンジンとしてB40、B60、B80という直列4気筒、直列6気筒、直列8気筒のFヘッドエンジンを生産しております。このB40エンジン(2,830cc)を搭載した4輪駆動車にアレック・イシゴニス(あのミニの設計者)が設計したオースチン・チャンプという車があり、日本にも防衛庁が研究用に1台輸入しており、当時の官庁ナンバー「3た0139」を付けた写真がスーパーCG20号の巻末に小林彰太郎氏が車名・年式当てクイズに出題しておりました。 
 昔、日本ジープセンターの黒岩氏に伊豆の大室山のヒルクライムに連れて行ってもらった時に、黒岩氏が乗ってきた、オースチン・チャンプのエンジンを見て、腰を抜かすほど驚いたことがつい昨日のように思い出されます。
もう一つ驚いたのは、ミッションにバックの位置がありませんでした。トランスアクスルの5速ミッションを通ったエンジンのトルクは上にあるサブシャフトに伝えられギヤーで一段下げて後輪を駆動し、プロペラシャフトを通じて、前輪を駆動します。バックギヤーは此処にあるので、前進5段、後進5段となります。だから、バックでのシフトアップが可能でした。
モノコック構造で、全輪独立懸架(前後共、トーションバーとウイッシュボーンの同構造サスペンション)で、前後のハーフシャフトに2個のジョイントがあり、合計8個のトラクタ・ジョイントがありました。
これがオースチン・チャンプの本当のアキレス腱となったのでした。
前輪駆動車及びコンベンショナル・タイプの全輪駆動車のアキレス腱は等速ジョイントでありました。
自在継手はイタリヤのカルダンが16世紀の初めに発明しました。その少し後でイギリスのフックも全く同じものを発明しております。それで、イギリスではカルダン・ジョイントをフック・ジョイントと呼んでいます。
このカルダン・ジョイントはシャフトの作動角により、不等速性があり、回転がガクガクします。低馬力のシトロエン2CVはカルダン・ジョイントなので、ステアリングをフルロックするとガクガクします。
フランスのJAゲレゴワールとフナイーユはカルダン・ジョイントを2つ繋いだ等速ジョイント「ダブルカルダン・ジョイント」を発明します。
これがトラクタ・ジョイントとも呼ばれ、前輪駆動車に採用されシトロエン トラクシオンアヴァン7CVが生まれました。
トラクタ・ジョイントは構造上、摺動部分が多く、潤滑とシールを良好にする必要があり、耐久性にも理想的とは言いかねないものでしたが、製作が容易でコストも低く抑えられるという特徴がありました。
このトラクタ・ジョイントを合計8個も駆動系に使ったオースチン・チャンプは新車時にはマジックカーペットのような乗り心地と悪路走破性を発揮しますが、製品寿命の短いトラクタ・ジョイント(ダブルカルダン)をメンテナンスするコストを考慮した場合、オースチン・チャンプはランドローバーを駆逐することは出来ませんでした。
余談ですがメッサーシュミットでバックする場合は、2ストロークのエンジンを逆転させておりました。閑話休題!
 1955年に、ハリケーンエンジンから始まったCJ5ユニバーサルですが、ウイリス・オーバーランド社は1953年にカイザー社に買収されておりましたので、CJ5は、最初からカイザー・ジープになります。
カイザー・ジープCJ5ユニバーサルのエンジンに転機おとずれたのは、1965年にGMビュイックV6の3.7リッター 155馬力エンジン(ドーントレスと云います)を選べるようになりました。
このV6エンジン付きのCJ5(塗色ライトブルー)をアメリカ大使館が運用してました。
ジャワタを興した長島氏がズート狙っており、ついにゲットし、第二回ジープジャンボリーへ駒を進め、お目見えを果たしておりました。
 1968年にクランクアップした「QOOGANS’ BLUFF」日本名「マンハッタン無宿」というユニバーサルの映画がありました。監督はドン・シーゲル、主演はクリント・イーストウッド、音楽はラロ・シフリン。初めて組んで製作した映画で、70年代に大ヒットするダーティー・ハリーシリーズの草分けのようなタッチの作品でした。
アリゾナ?のデザートの超ロングから始まり、砂塵を巻き上げて近づくジープ。
ドライブしてるのはクリント・イーストウッド。ジープのレフトサイドのライフルホルダーには、ウインチェスター。オフロードをバンピングしながら進むCJ5かと思ったら、サイドビューを映すシーンで、ロングホイールベースのCJ6ではないですか。まあ、CJ5もCJ6もお面は同じブルドック面。
ドーントレスエンジンを唸らせてヒルクライムをするCJ。右サイドにはスペアータイヤがマウントされます。(当時のジープの定位置)ジープCJ6とクリント・イーストウッドをフューチャーするシーンは約7分間に及びます。
ニューヨークのパンナムビルに降り立った、クリント・イーストウッドがイエローキャブでマンハッタンを移動するシーンにドン・シーゲル監督はさり気なく冒頭に出てきた同じ色のジープ、今度はCJ5を止めてあるシーンを挿入しておりました。
 1970年にカイザー社はAMCとなります。
AMCはGMのV6エンジンの使用を止めて、自社製の直6の3.8リットルと4.2リットル(カリフォルニア州ではスタンダードで他州ではオプション)をCJ5のエンジンとしました。
当時のカリフォルニアを席巻していた4駆は、なんとランドクルーザーFJ40でありました。初期のFJ40のエンジンは5トントラックに使われていた1Fという直6の3.8リッターで後期は2F直6の4.2リッターです。なぜかAMCの6気筒と同じキャパシティーですね。
CJ5がV6のドーントレスエンジンの頃、ランドクルーザーFJ40はクラス1のトレーラーを牽引して、フリーウェイを時速50マイルで巡航できました。
ここがシズルポイントとなって、カローラよりFJ40の方が売れていました。
今でもFJ40の専門ショップとしてスペクター・オフロード(社主のマーブ・スペクター氏の訃報を聞きました。ご冥福をお祈り申し上げます。)が有名であります。
マーブ・スペクター氏と奥様のケイ氏が来日の折、森下町のみのやで桜鍋を食べながらランクル談義に花を咲かせたことがつい昨日のように思い出されます。
次にアメリカ人が考えたのは、FJ40の糞重いトラック用の鉄の塊みたいなエンジンをChevyのスモールブロックの350にスワップすることでした。
このためのキットは豊富で、アドバンス・アダプター社やダウニー・トヨタ社等がありChevyにFJ40のミッション、Chevy+ターボハイドロ350にFJ40のトランスファー等々あり、選択の幅は眼を見張るほどで、アドバンス・アダプター社を訪れた時にはChevy / Toyota これを Chevota と云いましたが、
オーナーの好意で運転させてもらい、胸のすくような加速を味わうことができました。350(5740cc)のエンジンは1Fと2Fより50kg弱軽く、フロントヘビー感は解消されており、Chevotaを運用できる環境を羨ましく思いました。
1970年には、CJ5レネゲードⅠがデビューしました。エンジンはV6のドーントレスで、インパネに油圧計と電流計が追加配置され、ロールバーとレーシングストライプがエクステリアを飾っておりました。
1971年~1972年はレネゲードⅡにアップグレードし、初期はV6次いで初めて304のV8がCJ5に載りました。1972年にCJ5はマッスルカーの仲間入りを果たします。その心臓はAMCの304キュービックインチ(5リッター)のV8エンジンをそのボンネット内に押しこめたのでした。踏み込み式であった、ブレーキとクラッチペダルが懸架式になり、アロイホイールが標準となりました。
1973年にスーパージープが売りだされ、この派手な内外装は後のゴールデン・イーグルに続きます。また、レネゲードはⅢとはならず、レネゲードになり、70年代後半の円熟期を迎えて、1983年に終焉します。
AMCの4WDのラインナップは4ドアーステーションワゴンのワゴネアにチェロキーが出る前は、C101ジープスター・コマンドー。1973年に生産中止後は、ワゴネアの弟分であるチェロキーとチェロキーベースのピックアップトラックのJ10。そしてCJ5とCJ6と1976年からATとフルタイム4駆を組み合わせた、CJ7が仲間入りし、1986年まで発売されておりました。
CJ7は発売年には21,606台生産しましたが、CJ5の31,116台に約1万台少なかったですが、1978年にはCJ5を抜いており、1979年には、55,624台を売っておりました。
CJ7のホイールベースは、93.5インチ(2.37m)。
CJ5のホイールベースは、83.5インチ(2.12m)。
その差は、10インチ(25センチ)あり、リヤーシートのレッグルームがアップし、オンロードでの直進安定性がCJ5より良くなっておりました。
オリジナルのJeepであるMB/GPWのホイールベースは80インチで軍規格で「P」を表しており、これがJeePの「P」であるという説があります。
イギリスのランドローバーも80インチのホイールベースをシリーズ名としておりました。
CJ5の全長はわずか、3.5m。幅は、1.5mしかありません。
このナロー&スリムな体型がオフロードでの取り回しに寄与しております。
トレッドは、1.27mで、当時のジムニーより一寸大きいだけです。だから、自信を持って日本の荒れた林道に踏み込めました。今の幅広のクライスラーJeepで荒れた林道に踏み込む勇気は筆者にはありません。Uターンにも苦労するでしょう。
今日のオンロード性能を優先したSUVとクロスカントリーに比重の多くを置いた80年代以前のJeepとでは、そのプライオリティーが違います。
レンジローバーやゲレンデヴァーゲンで深い川の渡河をする蛮勇は、コンピューターのセンシングユニットや電装系をダウンさせ、ドアー内のモーターをショートさせ更には皮の内装やマットが水浸しとなり乾いたらゴワゴワで臭くなるでしょう。(意外と川の水は乾くと臭いました)
ディーゼルエンジンのディフェンダーには、オフロードユース用のワイヤーハーネスや防水能力を強化した電装品を装着したモデルを選ぶことが出来ると聞いております。デフやミッションへの背圧を掛けるキットも用意されております。
ところで、今日のSUVとCJ5等のJeepとの大きな違いは何だと思いますか?
それは、CJ5は直ぐフルオープンに出来ることです。V骨と布ドアーにより、瞬く間にフルオープンになり、フロントウインドーを倒し、2つのキャッチでボンネットに固定しますと、4輪バイクになります。オフロードをアタックする時、フルオープンでの感触は最高でありました。えぐれた廃道のトレールでは、顔が地面に近づき、土の臭いが、落ち葉のざわめきが直に感じ取れました。
フルオープンはJeepと一体になり、いわゆる「人馬一体」はたまた「鞍上人なく、鞍下馬なし」ですが、木の枝や、蜘蛛の巣が顔に直撃し、泥はねやメジロアブの襲撃もありました。フルオープンのJeepのコンボイで真冬の奥日光、山王林道をで雪中走破する集団がありました。足立にある、東京ジープクラブの同士でした。
冬こそオープンの心意気は、今日ではクロカン四駆からモーガン乗りに移行しているようで、硬派のモギーにエールを送りたいと思います。
Posted at 2015/08/31 12:25:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 4X4 クロスカントリー | クルマ
2011年03月12日 イイね!

トヨタ・ランドクルーザー FJ-40

トヨタ・ランドクルーザー  FJ-40「ランドクルーザー FJ40 始末記」
1973年(昭和48年)6月に、目黒区青葉台にあった「東京トヨタディーゼル(株)本社営業所」より購入しました。(当時の東京で唯一のデーラーでした)
エンジンはF型と云う、3878ccのガソリンエンジンで、130馬力を2600回転で出し、最大トルクも2200回転で30Kg/mとうロングストロークのトラックエンジンが載っておりました。
未だ、4駆、4x4、はたまた4WD、クロカン等と云う言葉は無く、このタイプの車は全て「ジープ」と呼称されてました。初代ランクルのBJ型もトヨタ・ジープと言ってましたが、Jeepのメーカーであるウイリスオーバーランド社からクレームが入り、ランドローバーならぬランドクルーザーに改称しております。
トヨタ車の型式は、最初にエンジン名、次にフレーム名が決りであり、ランドクルーザーの型式FJは、Fエンジンに、Jフレームとなります。
Fエンジンをクラウンのフレーム「S」に載せたパトロールカー専用モデルにFS−40と云う車がありました。4ツ目の初代クラウンの40に、6発のでかいFエンジンを押し込めるために、ボンネットとフレームを延長し、15インチのホイール/タイヤを履いてました。
また、救急車専用モデルに、FS−45Vと云う車がありました。この車は八王子(橋本)のセントラル自動車で製作してました。
FS−40、FS−45V共にコラムシフトの前進3段ミッションで、ローギヤーで発進する際、カウンターシャフトが独特なうなりを発したのを記憶してます。

さて、1970年代の初めの頃には、四輪駆動車をアウトドアーに使おう等と云う考えは全く見受けられず、ジープ = 現業でありました。東京でジープを買おうと思ったら、山手通り、東大裏ロータリーの先にあった東京菱和自動車の直納部を尋ねなければなりませんでした。川崎ジープセンターの菅野氏が直納部の部長で在籍してたはずです。J3R、J20、J34等がラインナップでした。

軍用ジープでは、最初の量産ジープ(バンダムは除く)であるMBとGPW(ウイリスMBのフォード製造モデルでゼネラルパーパスウイリスと云う)とM−38(エンジンはMBと同じサイドバルヴですが、防水24V電装)とCJ3Bの軍用モデルである、M−606更にCJ−5の軍用モデルであるM38A1がありました。軍用ジープのファンはしっかりと存在してました
ジブリ作品やルパン三世で有名な大塚康生先生は「パンツァー」の大家であり、日本ジープセンターのロゴは、大塚先生の作であります。
昔のジープ乗りの初恋体験は「MB」が殆どでしょう。
軍用車が忠実に使われている映画にデイビット・アッテンボロー氏がメガホンをとった「遠すぎた橋」A Bridge Too Farという映画がありました。MBのゴー・デビルエンジンの唸りも絵と共に楽しめて、今でもDVDで見ております。
鼻血ブーの漫画家、谷岡ヤスジ氏もM38が大好きでした。
自動車界のご意見番である三本和彦氏が昔どこかで云っておられましたが、突詰めていくと、自動車の趣味は3つの流れになると!
1) 自動車の原点を求めると、シトロエン2CVにたどりつく。
2) 自動車の機能を求めると、Jeep MB にたどりつく。
3) おもちゃ派としての代表が、フェラーリではないだろうかと。
 
今日では大ひんしゅくをかうと思いますが、河でのジープ遊びは面白かったです。日本ジープセンターの黒岩政明氏が多摩川を渡河する16mmフィルムがありました。M38で土手を駆け上り、駆け下りて、ザンブとばかり河に飛び込み、ジープのボンネットまで水没し、ドライバーの黒岩氏はシートの背もたれにチョン掛けし、ハンドスロットルでエンジンを回しつつ、水中を進んでましたが、水深が増し、つい煙突状のにインテークよりエアーならぬウォーターを吸い込みエンスト、水没と云う顛末を記録した短編ムービーでした。
防水Jeepを極めると、Seep(Ford GPA)になります。MBを水陸両用にしたのがシープです。
パシフィコ横浜で開催されてたクラシックカーのイベントで、無反動砲用の2分割ウインドーを付けたM38のオーナーであった白石清氏は誇らかに、シープGPAを展示してました。水上では船となるので「船検」を取得し、陸上では「車検」登録しナンバーを取得しておりました。
一方、ドイツ軍にはキューベルヴァーゲンを水陸両用とした「シュビムヴァーゲン」Schwimmwagenが供用されており、今でもコレクターにより大切に保存されております。
ヨーロッパでは水陸両用車で海からロワール河を遡る集まりがあり、シープ、ダック、シュビムヴァーゲン等々でコレクターが旅を楽しんでいるようです。

ウイリスからカイザーさらにAMCへとメーカーが変遷した本家JeepはCJ3BがCJ5へと進化しました。Fヘッドの4気筒ハリケーンエンジンから、GM・ビュイックのV6(ドーントレスエンジン)に変わってました。このV6エンジンのCJ5を1970年代初頭に、駐日アメリカ大使館が運用しておりました。これを狙っていたのが長島氏で、ついにゲットし第2回のジープジャンボリーにライトブルーのV6-CJ5で参加してたはずです。
カリフォルニアで、このV6エンジンのCJ5と真っ向勝負したのが、ランドクルーザーFJ40でした。クラス1のトレーラーを牽引してフリーウェイを時速50マイルで巡航できる能力がジープより優れておりました。しかし、ランドクルーザーは、オンロードをトレーラーを牽引してる時はいいのですが、単騎になると、オフロードでは頭が重くてスタックする率がジープより多いと云うシーンがよくあったのでした。そこでカリフォルニアのオフローダーがとった方法とは、ランドクルーザーFJ40のチョー重いFエンジンを降ろし、軽くて馬力のあるシボレーのスモールブロックV8エンジンにスワップすることでした。350キュービックインチ(5740cc)とはベストマッチでした。このスワップキットには、エンジンマウント、ベルハウジングアダプター、他必要パーツが全部用意されており、トランスミッションのチョイスは何通りかあり、オートマではGMのターボハイドロ350がマッチし、トヨタのトランスファーケースとのアダプターがありました。
フリーハブや電動ウインチ、ロールバー、コンバーチブルトップ、アルミホイールにオフロードタイヤと我が国には全く無い垂涎ものの部品、用品がアメリカにはありました。
これらの知識はFour Wheeler 誌やPV4誌を月遅れで見て吸収したのでした。

我が国のオフロードの黎明期の1972年11月19日に、伊豆の大島の三原山大砂漠で行われた「第3回オフロード日本グランプリレース」がありました。
バハ500やメキシカン1000そしてミント400の覇者にして、インディアナポリスの覇者である、パーネリー・ジョーンズ氏が常勝マシーンであるFORDブロンコとチーフメカニックのビル・ストロッペ氏を伴い来日し、サーキットでTVインタビューとデモランをしたあと、ブロンコと共に東京の竹芝桟橋から東海汽船に乗り伊豆大島を訪れました。
当時PJ(パーネリー・ジョーンズ)の弟子であった、リック・メアーズ氏は最速のバギー「サンドマスター」でエントリーし、ミントの走りを披露してくれました。近年リック・メアーズ氏は大成し、インディアナポリスの勝者となって、PJに恩返しをしているようです。
伊豆大島の砂漠でレースを挙行しようと云う快挙を企画、演出した快男児は老沼映輔氏でありました。
PJのブロンコの走りを見て、我々の走りとはマシンも腕も月とスッポンほど違うという事実を認識したしだいです。PJのブロンコはエアーバックというエアーサスで丁度、後年レンジローバーが採用したゴムの筒状のものを装着しておりました。フレームもスペースフレームで、ブロンコの皮をかぶせてありました。これを見た日本のバギービルダー達の腕は確実に向上し、ミッドシップにエンジンを搭載したダットラが誕生するきっかけになっておるようです。
伊豆大島でPJやリック・メアーズと共に走れた喜びを知るものが少なくなり、忘却の彼方になりそうなので、筆をとった次第です。
Posted at 2011/03/12 20:30:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | クルマ
2010年12月19日 イイね!

モデナからジャベル河岸へ シトロエンSM

モデナからジャベル河岸へ シトロエンSMモデナからジャベル河岸へ シトロエンSM
1970年(昭和45年)3月12日にSMが発売され、やっとシトロエン主義者にも禁断の木の実であった、ツインカムのハミングを歌わせる事ができるようになったのでした。今日では、DOHC、マルチバルヴ、ターボ等のメカニズムがブレッド&バター・カーにまで普及しておりますが、ほんのちょっと前の頃には、風を友とする車達がそれらを伴侶としておりました。
DSを駆り、金属バネの車に一歩もひけを取らずにすんだのは、我にハイドロニューマティックがあったからでしたが、2,175ccのOHVでは、シュツッツガルド製のスリーポインテッドスターの後塵を拝し、悔し涙はセーヌの流れとなりました。また、エンスージアストにとっては、エンジンの眺めとそのサウンドは大シズルポイントですが、外見とは裏腹にDSのエンジンを眺め、アイドル音を聞いても気分は高揚しませんでした。
高性能ツインカムエンジンの唸りと、ウェーバーの吸気音が歌うアリアをLHMの波にのせて走りたいという欲求がたぎっておりました。
第二次大戦後の仏蘭西では、大排気量のエンジンの存在を事実上拒否する法が施行され、課税馬力15CV(2.8リッター)以上のエンジンは作られなくなりました。また、西独に比べて揮発油税も高く、更に高額の保険料が追い打ちをかけ、大型車への死刑宣告がなされました。
仏蘭西車の通常の概念としては、大きなボディーのわりに小さなエンジンでファニーな外見の小型車でしょう。ジャーナリズムも1サンチームのガソリンで何キロ走れて、荷物も人も沢山乗せられて、ランニングコストはかからないという車がベストだという判断基準を旨としてました。ボディーサイズと排気量の比率でも英国車の2リッタークラスのボディーが仏蘭西車では1.2リッター位のエンジンと組み合わされておりました。
当時、SS1/4マイルを自慢出来る仏蘭西車にお目に掛かったことはありませんし、アルピーヌA110以外、峠で楽しい車も無かったのではないでしょうか。
通常のファミリーカーにおける4速ミッションの場合、トップがオーバードライブで、サードが直結で、ローとセカンド離れているパターンが殆どで、平坦な大陸を、フラットアウトで少ないガソリンで走れる能力に優れておりました。
仏蘭西車の持つ最大の美点はスタビリティーの味付けでありましょう。かの国の人が最も気にするところは、直進安定性であって、一寸位ハンドルから手を離しても真っ直ぐ走らず、フラフラする車は売れ残ってしまうのです。
仏蘭西の田舎道を走ると並木道が多く見られます。この並木の根っ子がくせ者でありまして、道路の舗装を押し上げてしまうのです。従って道はフラットだけれども、うねりのある表面が散見されます。ここへサスペンションストロークの少ないダンピングの悪い車が高速でさしかかると、どうなるでしょうか?
コントロールを回復するために速度を落とすしかありません。でも仏蘭西車は乗り切ってしまいます。特にハイドロのDSにおいては、姿勢は全く崩さず矢のように直進し、サスペンションのみが路面に追従するのです。
ストロークが大きいからロール量も多く、コーナーで傾くのです。ここだけを見て、やれロールが多いの、揺れ返しがどうのと、使用環境の違う我が国で云われてきました。キャスターアクションの強いステアリングと懐の深いサスペンションの組み合わせは、かくして仏蘭西車のスタビリティーの証となったのです。
以前、四日市の椙山先生宅で拝見したシトロエン社の16mm広報フィルムにGSのタイヤに赤灯、ボディーに黄灯を点灯し、凸凹道を夜間に走り、ランプの上下を横から撮影したシーンがありした。ボディーの黄灯のラインは真っ直ぐで、タイヤの赤灯のみが激しくゆれておりました。ハイドロの無いトラクシオン・アヴァンも比較のため同様の撮影をしてましたが、ボディーとタイヤのランプがはげしく振れておりました。

かって大英帝国華やかなりし頃、ロールスロイスやベントレーでドーバーを渡って大陸に自動車旅行に行く場合、英国仕様はガレージにしまい込み、代わりに大陸横断旅行用の専用車を持ち込んだのでした。これが、コンチネンタルと称する足がはやく、強力なエンジンを持った車でした。
カレーでファンタム・コンチネンタルを迎え撃つ仏蘭西のコンチネンタルは元祖コンチネンタル“Grand Routier” グランルティエ達で、ドラージュ、デラヘイ、タルボ、ブガッティー、イスパノスイザでした。
でも、時代は変わり、オートルートの覇者はDS23インジェクションが務めておりましたが、SMがマゼラティーのツインカムをモデナから嫁取りし、ここにドゥーブル・シェブロンが凱旋したのでした。
Posted at 2010/12/19 17:22:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2010年12月11日 イイね!

Daimler Majestic その3

Daimler  Majestic その3Daimler Majestic その3
XJ-40(2代目XJ-6) が誕生した頃、ジャガー社を含むイギリス自動車界には企業合同の嵐が吹き荒れた後で、合併若しくは死という選択をせざるを得ないところでした。ブリティシュ・レイランドに属していたジャガー社は、そのアイデンティティーを失いかけており、今は無きブラウンズレーンの工場は単に、BL大型車工場と呼ばれていたと聞いております。
前にもふれましたが、XJ40には、自分のV12はおろか他のV8も載せられない様なつまり、AJ6等の直6しか搭載出来ない様な狭いエンジンベイを設計したジャガー社のエンジニアーが、ジャガーとしてのアイデンティティーを主張したものと推察します。もし、ダブルシックスのV12がすんなり載せられるようなエンジンベイであれば、合理化の美名のもとに、グループ内のローバー社のV8を使用せよ、と云う下命があったからです。
これがXJ40には、V12モデルが無かったわけで、ディムラー・ダブルシックスとしてV12モデルをXJ-4(1代目XJ-6)のDD6として併売してました。
このイレギュラーな状態はディムラー・ダブルシックスが生産を中止した1993年まで7年間も続きました。XJ40の3.6リッターのAJ6も4リッターにスープアップしましたが、直6でありました。
EタイプからXJ12、DD6と続いたV12エンジンのシルキースムースなパワーを知っているエンスージアストからは、AJ(アドヴァンスド・ジャガー)6エンジンは良いエンジンだが、高級車のエンジンではないと云う声がありました。誤解を恐れずに記しますが、XJ-6とXJ-12は同じメーカーの車でありながら、その持っているディメンションが全く違うと思います。
だから、DD6のファンが連綿とおり、夫々が各々のシズルポイントで車を愛でているのでしょう。
このV12ジャガーに対する思いについて、カーグラフィックの小林氏が1984年10月号のカーグラ本誌に「やっぱりV12ジャガーはいいな」というエッセイを記述されております。本文は「ああまたかと、顔をしかめる向きもあるのを重々承知の上で、ここに再びジャガーに対するぼくの、熱い思いについて書かねばならない。純粋に個人的なモータリングの理想を言えば、V12ジャガー・サルーンがぼくのファースト・チョイスで、通勤を含めた普段の足として気ままに使いたいと思う。なぜジャガーか、なぜいまどきV12かと問い詰められても、べつに理詰めの説明ができるわけではなく、ただ無性に好きだからとでも言うほかない。—————」で始まりますが、氏はモータージャーナリストとして、車に触れれば、触れる程、批判的な目で見てしまうが、自分の車に乗った時には、心からリラックスし、運転を楽しみたいと思う。
そこは、V12ジャガーが誘う世界であるからだと言っておられます。

「XJ40 V12はスーパーカーか? 悪夢か?
このレポートはJRC(ジャガーレストアラーズクラブ 代表 大和 裕明氏)のホームページメニューにあるジャガーショートストーリーをクリックするとあります。2001年のジャガー月報にGarreth Comber 氏が記述したもので、サブタイトルでは「6.0リッターV12を搭載したXJ40の価値について語れる者は、ほとんどいない。XJ40 V12は、どこかに危険が隠れているのだろうか?」で始まります。
XJ40 V12つまりXJ81の宿痾について触れており、「エンジンは確かに、堂々たる素晴らしいものだ。ところがボデイーは、その強大なトルクと、かなりな重さのエンジンを支えきれない。6気筒エンジンのXJ40に比べて、全てが2倍の衝撃を受ける。これが足回りやドライブトレーンの損傷を加速する。それに加えて、エンジンルーム内の複雑さと隙間のなさが、問題をさらに悪化させる」と、あります。
剛性不足と整備性の悪さが特筆されてます。この剛性不足はX300では解消されております。わずかの期間だけ生産されたXJ81が存命できないわけなのでした。つまり、エンジンの方がシャシーより速くなってしまうのです。
シャシーより速いエンジンをメルセデスのエンジニアーは、はるか昔から認めておりません。だから一寸古いメルセデスでも安心して、芦ノ湖スカイラインをブイブイさせることができるのでしょう!
これを車齢14年のXJ81でやると冷や汗が1リットル以上出ると思います。
フロントのAピラーの剛性不足の解消とフレーム全般の剛性感が得られれば、この宿痾は全治し、ワインディングで凱歌をあげることがフォーマルサルーンのディムラー・マジェスティックでも可能となるでしょう。

「福音は博多から」
九州の博多から、福音が届きました。E@Tech の大原 俊光氏が製作をして、販売をしている「TuneChip」という、マイナスイオン?を封入したアルミ片とマグネットを組み合わせた物体を、剛性を得たい箇所に貼付け(取り付け位置、方法にノウハウあり)、経過を待つこと、3〜7日で、アット驚くほどボディー剛性が向上します。と、あり、藁をも掴みたい筆者はさっそくトライしました。
大ビンゴです!実際にXJ81ディムラー・マジェスティックの剛性が回復し、ドッシリとなりました。
Tune Chipの効果たるやオカルト的でありまして、エンジン、フレーム、足回り、から塗装、タイヤ&ホイール、ディスクキャリパーへと伝播し、古い車が甦るのです。いわゆるレストアでは、板金塗装により新車以上の輝きを増した古い車を見受けますが、フレーム剛性までは構造上手が入らず、従って新車時の走行とは違った走りを要求されます。クラシックカー・レースのチューニングは別であり、モノコックの車ではホワイトボディーのドンガラにして、スポットを打ち直して、ボディー剛性を得ております。
以前のビーチャムやヴィッカレージとCMC及びヘリテージのマークⅡが確かな走りをするのは、エンジンもさることながら、ボディーをドンガラにしてから剛性向上を施工しているからだと思います。ルーフのイエローバードが300Km/hを目指したときも、やはりボディー剛性の向上が必須であったときいております。
筆者が係わった、パリ・モスコワ・北京マラソンレイドにスバル・ヴィヴィオで挑んだ時には、富士重工、太田工場でホワイトボディーにしてから、技能オリンピックの溶接部門金メダリストのマイスターにより、スポットの打ち直しが行われ、剛性のアップが計られ、無事にパリ、モスコワを経て、中央アジアから西域のタクラマカン砂漠を越えて、天安門広場に駒を進める事ができました。ノーマルのモノコックでは、バラバラになっていたかもしれません。
エンジンのパワーは、ロムチューン等で比較的簡単に馬力が得られる様ですが、ボディー剛性に関してはコストパフォーマンスに優れた方法は無かったはずでしょう。が、しかし、Tune Chipを使う事により、古い車のボディー剛性不足が改良されます。(とれば、元に戻ります)
直進性も、回頭性も、ブレーキ性能も、良くなります。
これは、事実です。
なぜ、禁断の伊x伊ハイブリット(本来の意味です。)のランチャの8-32を楽しめないかって?それは、Aピラーのワナワナとトルクステアのなせる技ではないでしょうか!___これが8-32で思いっきりブン回せない真相の一部でありましょう。
14年前のディムラー・マジェスティックでも、8秒弱で、100Km/hを安心してマークできるようになりました。(ただし、ドライ路面ですよ!)
Posted at 2010/12/11 20:04:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2010年11月21日 イイね!

ディムラー・マジェスティックその2

ディムラー・マジェスティックその2ディムラー・マジェスティックその2
ロールス・ロイスのシルバークラウドⅢがシルバーシャドーに代替わりした時、車高調整とブレーキのシステムにシトロエンの特許によるハイドロニューマティックを採用してました。シトロエンは特許の使用料は取らない代わりに、コーションプレートの掲示を求め、シャドーのハイドロオイルであるRR363のタンクの脇に「シトロエンの特許を使ってる」旨の掲示がありました。特許が切れると見うけられなくなりました。
ロールスの車高調整にはマニュアルモードは無く、荷重が変動しても、車高を一定に保つシステムでした。これは、ジャガー/ディムラーのコイルサスペンションと油圧レベライザーとで荷重変動に無段階に対処するシステムとは基本的に同じシステムだと思います。
シトロエンのブレーキはブレーキアキュムレーターに蓄圧された高圧のLHMをブレーキ回路に流す量を調整する弁を開けるもので、ディマースイッチの様な形をしており、回りを半分に切ったテニスボールの様なゴムで覆われてました。その踏み代は、全く無く、独特の経験を必要としてました。
このブレーキシステムを普通のブレーキペダルで操作するシルバーシャドーのブレーキは、非常にセンシティブだったことを覚えています。
1986年、最初のXJ40である3.6リッター、ジャガーJLHとディムラーDLHは、ブレーキと車高調整にLHMオイルを用いておりました。このLHMタンクが諸悪の根源で、工作クズによる詰まりで、多くのジャガー/ディムラーのオーナーが泣かされました。この顛末はカーグラフィック誌上に、1987年7月号から、1989年8月号まで17回にわたって連載された「ジャガーXJ6 ソヴリン 3.6」長期連載テストを執筆された小林 彰太郎氏も体験されております。小林氏はご立腹で、セルフレベリングは不要で、ノーマルサスでトラブルフリーの方が良いと云っておられましたが、ジャガー社が派遣した技術センターの主任技師、ニコラス・バーター氏が持参した新型ダンパー(セルフレベリング内蔵)に交換してからは、やはりあった方がよいセルフレベリングと云っておられてます。なお、1989年からはセルフレベリング機構は13万円のオプションになりました。

"Grace, space, pace --- and build quality now" 「優雅で、室内の広さは必要にして充分、そして極めて高性能」
このコピーはジャガー・マークⅦの時代のもので、XJ40&81にも伝承されてると思います。
筆者はシルバークラウド、シルバーシャドー、カマルグ、シルバースピリット、シルバースパーターボとシルバーセラフ以前のロールスロイスと時間を共にしてますが、カマルグを除いて運転席からの眺めは不変でした。左右のウイングの山とセンターに走るクロームのラインに続くフライイングエンジェル(スピリット・オブ・エクスタシー)を通しての景色。この角度はマークⅡやマークⅩ(トヨタ車ではありませんよ!)のリーピングキャットへ続く眺めと共通するものでしょう。
XJ40&81の角目を云々する記述を見る事がありますが、ボンネットラインはXJ6(XJ4)の後継としてサー・ウイリアム・ライオンズが引いたデザインは美しいと思います。このオリジナルのラインがX300では無理に4ツ目にしてくずれているような気がしますが、いかがでしょうか?
ロールスロイスのシルバースピリット/スパーと同時代のXJ40&81を眺めるとき共通するのは角目と鉄ッチンのバンパーでしょう。ダブルシックス・シリーズⅢと同様に流れる様なラインでリヤーバンパーにつながるラインはビューポイントの白眉でしょう。XJ40&81のトランクが狭かろうと、筆者は良いと思います。X300以降は、マーケットの要望で角度を変えて、商業的には成功したかもしませんが、好みの問題と思います。
Posted at 2010/11/21 14:46:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | クルマ

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