
AMC Jeep CJ-5 MB/GPWのレジェントを継ぐもの
20世紀の画期的工業製品として、ジープ・MB/GPWが、スミソニアン博物館に展示されております。
同様にして、トヨタ博物館にもGPWが展示されております。
第二次世界大戦中にアメリカが生産したJeepの数は64万台にのぼります。
この軍用Jeepの製造メーカーが、ウイリス社のものを「MB」といい、フォード社のものを「GPW」と呼んでます。
このMB/GPWがCJ5のご先祖さまになります。
ご先祖様のJeepのコンセプトを提示したのはアメリカ陸軍で、それに則り、プロトタイプを作ったのがバンダム社で、骸骨面のフロントエンドの意匠はフォード社により、パワートレインはウイリス社で、メカニズムはマーモンハリントン社の1/2トン4x4のスケールダウンからMB/GPWが生まれました。
戦後、余剰物資としてMB/GPWが民間に払い下げられました。
これが、CJ、シビリアン・ジープの始まりであります
MB,GPWそのものを民生。 CJ1
ミッションをT90。出目に。 CJ2
テールゲートを設置 CJ2A MB/GPWの欠点を解消。
M38 CJ3Aの軍用 1枚ガラス。 CJ3A 軍用M38の母体。
M606 Fヘッドのエンジン CJ3B ノックダウンしたのが
CJ3BJ3(三菱ジープ)
M38A1 この民生が ・・・ ・ CJ5 1954年~1983年まで
シリーズ総生産台数603,303台。
M170 ロングホイールベース CJ6
以上が、おおまかな系図ですが、サイドビューはご先祖のMB/GPWからCJ6まで同じでドアーの切り欠きが、なだらかにアップするショルダーラインで後部へ続きます。1976年からのCJ7ではドアーの切り欠きは直角となり、フルオープンにした時、ジープらしさの美観を損ねていることは、否めないと思います。
シリーズを通じてオートマティック・ミッションはありません。MB~CJ3Bまでは3本シフトレバーで、ミッション、トランスファー、ハイロウで、CJ5になってシフトレバーとトランスファー兼ハイロウの2本となってました。トランスファーは通常オフで高速後2輪駆動。トランスファー、コネクトで高速4輪駆動。更にシフトすると低速4輪駆動の各モードを手動で選択しました。
CJ5の最初のエンジンは、M38A1のエンジンから防水装置を撤去し、12V電装としたCJ3B と同じのH4ハリケーンエンジン(三菱名JH4)でした。
このエンジンはFヘッドと云うエキゾーストバルブがサイドでインテークがOHVというレイアウトで、サイドバルブエンジンとOHVエンジンとの折衷エンジン型式で、かのロールスロイスは軍需用エンジンとしてB40、B60、B80という直列4気筒、直列6気筒、直列8気筒のFヘッドエンジンを生産しております。このB40エンジン(2,830cc)を搭載した4輪駆動車にアレック・イシゴニス(あのミニの設計者)が設計したオースチン・チャンプという車があり、日本にも防衛庁が研究用に1台輸入しており、当時の官庁ナンバー「3た0139」を付けた写真がスーパーCG20号の巻末に小林彰太郎氏が車名・年式当てクイズに出題しておりました。
昔、日本ジープセンターの黒岩氏に伊豆の大室山のヒルクライムに連れて行ってもらった時に、黒岩氏が乗ってきた、オースチン・チャンプのエンジンを見て、腰を抜かすほど驚いたことがつい昨日のように思い出されます。
もう一つ驚いたのは、ミッションにバックの位置がありませんでした。トランスアクスルの5速ミッションを通ったエンジンのトルクは上にあるサブシャフトに伝えられギヤーで一段下げて後輪を駆動し、プロペラシャフトを通じて、前輪を駆動します。バックギヤーは此処にあるので、前進5段、後進5段となります。だから、バックでのシフトアップが可能でした。
モノコック構造で、全輪独立懸架(前後共、トーションバーとウイッシュボーンの同構造サスペンション)で、前後のハーフシャフトに2個のジョイントがあり、合計8個のトラクタ・ジョイントがありました。
これがオースチン・チャンプの本当のアキレス腱となったのでした。
前輪駆動車及びコンベンショナル・タイプの全輪駆動車のアキレス腱は等速ジョイントでありました。
自在継手はイタリヤのカルダンが16世紀の初めに発明しました。その少し後でイギリスのフックも全く同じものを発明しております。それで、イギリスではカルダン・ジョイントをフック・ジョイントと呼んでいます。
このカルダン・ジョイントはシャフトの作動角により、不等速性があり、回転がガクガクします。低馬力のシトロエン2CVはカルダン・ジョイントなので、ステアリングをフルロックするとガクガクします。
フランスのJAゲレゴワールとフナイーユはカルダン・ジョイントを2つ繋いだ等速ジョイント「ダブルカルダン・ジョイント」を発明します。
これがトラクタ・ジョイントとも呼ばれ、前輪駆動車に採用されシトロエン トラクシオンアヴァン7CVが生まれました。
トラクタ・ジョイントは構造上、摺動部分が多く、潤滑とシールを良好にする必要があり、耐久性にも理想的とは言いかねないものでしたが、製作が容易でコストも低く抑えられるという特徴がありました。
このトラクタ・ジョイントを合計8個も駆動系に使ったオースチン・チャンプは新車時にはマジックカーペットのような乗り心地と悪路走破性を発揮しますが、製品寿命の短いトラクタ・ジョイント(ダブルカルダン)をメンテナンスするコストを考慮した場合、オースチン・チャンプはランドローバーを駆逐することは出来ませんでした。
余談ですがメッサーシュミットでバックする場合は、2ストロークのエンジンを逆転させておりました。閑話休題!
1955年に、ハリケーンエンジンから始まったCJ5ユニバーサルですが、ウイリス・オーバーランド社は1953年にカイザー社に買収されておりましたので、CJ5は、最初からカイザー・ジープになります。
カイザー・ジープCJ5ユニバーサルのエンジンに転機おとずれたのは、1965年にGMビュイックV6の3.7リッター 155馬力エンジン(ドーントレスと云います)を選べるようになりました。
このV6エンジン付きのCJ5(塗色ライトブルー)をアメリカ大使館が運用してました。
ジャワタを興した長島氏がズート狙っており、ついにゲットし、第二回ジープジャンボリーへ駒を進め、お目見えを果たしておりました。
1968年にクランクアップした「QOOGANS’ BLUFF」日本名「マンハッタン無宿」というユニバーサルの映画がありました。監督はドン・シーゲル、主演はクリント・イーストウッド、音楽はラロ・シフリン。初めて組んで製作した映画で、70年代に大ヒットするダーティー・ハリーシリーズの草分けのようなタッチの作品でした。
アリゾナ?のデザートの超ロングから始まり、砂塵を巻き上げて近づくジープ。
ドライブしてるのはクリント・イーストウッド。ジープのレフトサイドのライフルホルダーには、ウインチェスター。オフロードをバンピングしながら進むCJ5かと思ったら、サイドビューを映すシーンで、ロングホイールベースのCJ6ではないですか。まあ、CJ5もCJ6もお面は同じブルドック面。
ドーントレスエンジンを唸らせてヒルクライムをするCJ。右サイドにはスペアータイヤがマウントされます。(当時のジープの定位置)ジープCJ6とクリント・イーストウッドをフューチャーするシーンは約7分間に及びます。
ニューヨークのパンナムビルに降り立った、クリント・イーストウッドがイエローキャブでマンハッタンを移動するシーンにドン・シーゲル監督はさり気なく冒頭に出てきた同じ色のジープ、今度はCJ5を止めてあるシーンを挿入しておりました。
1970年にカイザー社はAMCとなります。
AMCはGMのV6エンジンの使用を止めて、自社製の直6の3.8リットルと4.2リットル(カリフォルニア州ではスタンダードで他州ではオプション)をCJ5のエンジンとしました。
当時のカリフォルニアを席巻していた4駆は、なんとランドクルーザーFJ40でありました。初期のFJ40のエンジンは5トントラックに使われていた1Fという直6の3.8リッターで後期は2F直6の4.2リッターです。なぜかAMCの6気筒と同じキャパシティーですね。
CJ5がV6のドーントレスエンジンの頃、ランドクルーザーFJ40はクラス1のトレーラーを牽引して、フリーウェイを時速50マイルで巡航できました。
ここがシズルポイントとなって、カローラよりFJ40の方が売れていました。
今でもFJ40の専門ショップとしてスペクター・オフロード(社主のマーブ・スペクター氏の訃報を聞きました。ご冥福をお祈り申し上げます。)が有名であります。
マーブ・スペクター氏と奥様のケイ氏が来日の折、森下町のみのやで桜鍋を食べながらランクル談義に花を咲かせたことがつい昨日のように思い出されます。
次にアメリカ人が考えたのは、FJ40の糞重いトラック用の鉄の塊みたいなエンジンをChevyのスモールブロックの350にスワップすることでした。
このためのキットは豊富で、アドバンス・アダプター社やダウニー・トヨタ社等がありChevyにFJ40のミッション、Chevy+ターボハイドロ350にFJ40のトランスファー等々あり、選択の幅は眼を見張るほどで、アドバンス・アダプター社を訪れた時にはChevy / Toyota これを Chevota と云いましたが、
オーナーの好意で運転させてもらい、胸のすくような加速を味わうことができました。350(5740cc)のエンジンは1Fと2Fより50kg弱軽く、フロントヘビー感は解消されており、Chevotaを運用できる環境を羨ましく思いました。
1970年には、CJ5レネゲードⅠがデビューしました。エンジンはV6のドーントレスで、インパネに油圧計と電流計が追加配置され、ロールバーとレーシングストライプがエクステリアを飾っておりました。
1971年~1972年はレネゲードⅡにアップグレードし、初期はV6次いで初めて304のV8がCJ5に載りました。1972年にCJ5はマッスルカーの仲間入りを果たします。その心臓はAMCの304キュービックインチ(5リッター)のV8エンジンをそのボンネット内に押しこめたのでした。踏み込み式であった、ブレーキとクラッチペダルが懸架式になり、アロイホイールが標準となりました。
1973年にスーパージープが売りだされ、この派手な内外装は後のゴールデン・イーグルに続きます。また、レネゲードはⅢとはならず、レネゲードになり、70年代後半の円熟期を迎えて、1983年に終焉します。
AMCの4WDのラインナップは4ドアーステーションワゴンのワゴネアにチェロキーが出る前は、C101ジープスター・コマンドー。1973年に生産中止後は、ワゴネアの弟分であるチェロキーとチェロキーベースのピックアップトラックのJ10。そしてCJ5とCJ6と1976年からATとフルタイム4駆を組み合わせた、CJ7が仲間入りし、1986年まで発売されておりました。
CJ7は発売年には21,606台生産しましたが、CJ5の31,116台に約1万台少なかったですが、1978年にはCJ5を抜いており、1979年には、55,624台を売っておりました。
CJ7のホイールベースは、93.5インチ(2.37m)。
CJ5のホイールベースは、83.5インチ(2.12m)。
その差は、10インチ(25センチ)あり、リヤーシートのレッグルームがアップし、オンロードでの直進安定性がCJ5より良くなっておりました。
オリジナルのJeepであるMB/GPWのホイールベースは80インチで軍規格で「P」を表しており、これがJeePの「P」であるという説があります。
イギリスのランドローバーも80インチのホイールベースをシリーズ名としておりました。
CJ5の全長はわずか、3.5m。幅は、1.5mしかありません。
このナロー&スリムな体型がオフロードでの取り回しに寄与しております。
トレッドは、1.27mで、当時のジムニーより一寸大きいだけです。だから、自信を持って日本の荒れた林道に踏み込めました。今の幅広のクライスラーJeepで荒れた林道に踏み込む勇気は筆者にはありません。Uターンにも苦労するでしょう。
今日のオンロード性能を優先したSUVとクロスカントリーに比重の多くを置いた80年代以前のJeepとでは、そのプライオリティーが違います。
レンジローバーやゲレンデヴァーゲンで深い川の渡河をする蛮勇は、コンピューターのセンシングユニットや電装系をダウンさせ、ドアー内のモーターをショートさせ更には皮の内装やマットが水浸しとなり乾いたらゴワゴワで臭くなるでしょう。(意外と川の水は乾くと臭いました)
ディーゼルエンジンのディフェンダーには、オフロードユース用のワイヤーハーネスや防水能力を強化した電装品を装着したモデルを選ぶことが出来ると聞いております。デフやミッションへの背圧を掛けるキットも用意されております。
ところで、今日のSUVとCJ5等のJeepとの大きな違いは何だと思いますか?
それは、CJ5は直ぐフルオープンに出来ることです。V骨と布ドアーにより、瞬く間にフルオープンになり、フロントウインドーを倒し、2つのキャッチでボンネットに固定しますと、4輪バイクになります。オフロードをアタックする時、フルオープンでの感触は最高でありました。えぐれた廃道のトレールでは、顔が地面に近づき、土の臭いが、落ち葉のざわめきが直に感じ取れました。
フルオープンはJeepと一体になり、いわゆる「人馬一体」はたまた「鞍上人なく、鞍下馬なし」ですが、木の枝や、蜘蛛の巣が顔に直撃し、泥はねやメジロアブの襲撃もありました。フルオープンのJeepのコンボイで真冬の奥日光、山王林道をで雪中走破する集団がありました。足立にある、東京ジープクラブの同士でした。
冬こそオープンの心意気は、今日ではクロカン四駆からモーガン乗りに移行しているようで、硬派のモギーにエールを送りたいと思います。