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2011年09月06日 イイね!

甕の水の巻。【文書保管庫】




歌仙三十六句

甕の水の巻、お披露目。




発句

甕の水薔薇の根にしむ夕べ哉

空良 初夏 場 





葉桜にむけ はなつ蔵の扉(ト)

冷太 初夏 自 





居残りの黒板消しの粉舞ひて

紗良 雑 自 





たてる鴉の雲にまぎるる

素白 雑 場





月淡し山人(ヤマンド)の荷もほのかろく

太空 三秋 他 月



折端

冬瓜いだけ吾子弱からず

羽石 初秋 半



初裏折立

足元をうり坊駆ける昼ライブ

冷太 晩秋 自



ウ二

木魚転びて揺れる木漏れ日

空良 雑 場



ウ三

新家(アタラシヤ) 匙掬いあう 珈琲ゼリー

素白 雑 半



ウ四


くちびる刺しし蜜蜂や汝(ナレ)


紗 三春 恋 半



ウ五

許婚に女王かしずく春の宵

羽石 三春 恋 他



ウ六

草の芽孕み十年(トトセ)眠りぬ

太空 仲春 恋 他



ウ七

実を結べとお百度踏みてきつね顔

空良 雑 自



ウ八

蕎麦湯すすりて耳そばだてて

冷太 三冬 自



ウ九

ジルヴェスタ鐘の音頭にわらう月

紗良 仲冬 場 月



ウ十

フロックコートの清(すが)し礼砲

素白 雑 他



ウ十一

英雄譚ポッケにしまい花巡り

太空 晩春 自 花



初裏折端

郭(クルワ)の藤の色をこのみて

羽石 晩春 自



名残表折立


娘ありて春の蚊を追ふ舞扇

冷太 晩春 他



ナオ二

しづかに人を恋ふ由比ヶ浜

空良 雑 恋 他



ナオ三

ビーサンの足裏(アウラ)冷ませど縋る蟹

素白 三夏 自



ナオ四

亡父(チチ)か、紛れて過ぐるだんじり

紗良 初夏 自



ナオ五

めちゃくちゃの軒に古材の匂い立ち

羽石 雑 場



ナオ六

枕木を譜に家路弾みて

太空 雑 自



ナオ七

ドーナツのドの甘ければレモン吸ひ

冷太 晩秋 自



ナオ八

みなで喰らわんこの笑い茸

羽石 三秋 半



ナオ九

夜半の秋 水面さざめく とまりぶね

素白 三秋 場



ナオ十


後の月より鷺とびおりる

九珠 晩秋 場 月



ナオ十一  

音羽山けさ登らんと一張羅

紗良 雑 自



ナオ折端

舞妓気取りのほっぺにケチャップ

素白 雑 自



名残裏折立

道化師の鼻もぎて見せ付けて見せ

冷太 雑 他



ナウ二

ビー玉光る路地のクラウン

羽石 雑 場



ナウ三

春炬燵かの子の声を聞きわけて

冷太 三春 半



ナウ四

餌(エ)運ぶ燕と鳴き交わす母

太空 仲春 他



ナウ 五

献杯に花片散らす仏様

素白 晩春 場



挙句 

苗田に映ゆる白雲の果て

太空 晩春 場







【連衆】
冷太―ピエ太
空良―KLAVIER
羽石―ほんじゃま石
太空―たく
素白―椿
九珠―葛葉
紗良―freurein




【捌き役】
冷太




平成二十二年五月
発句

平成二十三年九月
挙句










Posted at 2011/09/06 16:12:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記
2011年09月03日 イイね!

さようならとありがとう。【文書保管庫。】






最近二つのさよならに直面しました。







一つ目は、オムライスがおいしい定食屋さんの閉店。



はなふさ、という、70代のご夫妻がやっているところなんですが、

ここのオムライスが好きで、時間があれば立ち寄り、馬鹿の一つ覚えみたいに注文していました。

回を重ねるごとに巨大化していくオムライスに涙がちょちょ切れました。





先日、最近行ってないなーと思って、ふと立ち寄ると、

『準備中』の文字。


暖簾がかかっているのに準備中・・・珍しいな、

と思って覗くと、

おかあさんが忙しくなさっていて、



「あっらーーー!!

 来てくれはったん?!

 座って座って、ええから、なんや?

 オムライスか?」



と、いつものカウンターに誘ってくださった。


いつもと雰囲気が違う店内で、

お母さんは手ぬぐいをいじりながら、言いにくそうに、




「あんなー。

 今日でうち、閉店すんねん・・・」




「・・・・はぁ~~~???

 うそっ、ほんまなんですか??

 えっ、

 今日??マジですか??」



「もー、ごめんなぁ、

 いっつも来てくれたはったからな、

 最後会えへんかと思てたんよー、

 あー、よかったー、よかったー」




滑り込みセーフで、オムライスを作ってもらって、

まだ最後なんて信じられないまま、ほおばりました。



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IMG_6604 posted by (C)freurein



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IMG_6597 posted by (C)freurein




「うまいっ!おいしい!最高!」


ほんとは、やめないでって言いたかったけれど、

おかあさんの体調や、おとうさんの歳を考えると、

そんなこと、言えませんでした。


今目の前にあるオムライスに集中してました。







食べ終わって、ほっこりしていたら、

おとうさんが隣に座ってきました。


この店は、先代から続き、60年以上の歴史があると教えてくれました。



寺田屋の前に来てからは30年余り、

観光の一見さんも地元の人も、

なんとなく暖簾をくぐってしまう店。



「もうええかな、思うんや、すまんの」




ごちそーさんをして450円払って、店を出るときに、

おかあさんから甘露飴を手渡され、



「体、気いつけやー、

 もっと太らんなんで」


「オムライスなかったら痩せるかもしれん」


「ま、にくたらしい!」


「嘘うそ、元気でね」


「おーきに、おーきにな」





長い間、ありがとう、そして、お疲れ様でした、ありがとう。














もうひとつは、カメラ屋さん。





ここでアルバイトをして二年半、

最近はもうひとつの仕事が忙しくなって、

月に二回ほど顔を出すくらいになってしまっていました。



普段は、60近い店長が一人でやっています。

その店長の代わりに店番することもあれば、

(DPEのフロンティア機の扱いやメンテを教わっているので、ある程度の仕事ができるようになりました)

一緒に写真を焼くこともあります。




小さな小さなミニラボ。

最近はデジカメばっかりで、フィルムのお客さんといえば、

結構な年配の方か、趣味でやっている方。


商店街に以前は4軒のカメラ屋さんがあったのに、今じゃここだけとなっています。


コンビニでもデジカメプリントできる時代、

お客さんは確実にこの二年でも減っていました。




「もうええかな、思うねん」



「はい、さみしくなりますが、ゆっくり、なさってください」



「時代やの、時代なんや」



「はい」



私にはわからない、長い時間を見てきた店長。

この11月をもって閉店することになり、

お客様には徐々にお話を始めています。



フィルムの常連さんは、自分のところがなくなったらどこに行ったらいいのかわからないひとが多いからね、紹介差し上げないとね。




腕がいいと評判の店で、

私が働き始めた時も、店長チェックのみならず、

お客様からご指導いただくなどという申し訳ない時代があり、

ようやく、信頼されてきたところでした。




「古いフィルムはシャープネス上げてマゼンダ3マイナスや!」


「証明写真は中心線取れゆーとるやろがー!」


「小林さんのんは4Pふちありやで、って何回言わせんねんな!」


「吉田さんのばーさんはいっつも途中でカメラ開けはるから、

 フィルム入れたったらビニールテープ貼ったらんならんで!」



店長の怒号ももう聞けなくなるんだと思うと、

張り合いがなくなって、

妙にやさしくなった店長の背中が小さく見えて。





酔芙蓉を教えてくれたのも、

ここに来るおじさんでした。


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8755088b_640 posted by (C)freurein




近所に見つけて、それを写真に撮って、

おじさんが来ると、それを見せあいっこしていました。



おじさんの庭にある酔芙蓉は本当に立派で、

隠居の閑にと時系列に色の変化を記録し、花の数を記録し、

その写真たちを焼きに来てくれていました。


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IMG_6584 posted by (C)freurein



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69b30639_640 posted by (C)freurein




今年も、また、酔芙蓉が咲き始めました。




三回目の酔芙蓉観察。

来年だって、さ来年だって続けていこうと思います。




花たちは毎年真面目に咲く。



時間が流れて変わっていくものがあっても、

そこで関わりあえたことはなくなりはしないものだと思います。





ああっ



でも、どちらの職人技も、もったいないなー・・・。

いや、もう言わない。




いままでおーきに、ってだけ、言おう。







*************

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written by freurein
2011/09/01

Posted at 2011/09/03 09:59:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記
2011年08月30日 イイね!

祈り。【文書保管庫】




週に一度の習慣がある。





中学時代からのライフワークのようなもので、

早朝にランニング。





京都に移り住んではや10年、

寺の周りを走っている。


昼間は観光客が多い場所も、朝は静か。




数年前に病気をして、

立って歩けないくらいに衰弱した私も、

今はもう随分と元気に走り回っている。


歩行練習から始まり、

一日の一歩は小さくても、

積み重ねることでここまでこれる。


それを実感するのが、ちょっとした喜び。




走るとき、その寺でいったん呼吸を整え、

手を合わせることにしている。






お邪魔してます、おはようございます。






ずっと、何年もこのフレーズだった。



宗教はこれといって特には信仰していない。

お願いごとをするのも好きじゃない。

ありがとうを連発するのも好きじゃない。

境内を走らせていただくのだから、

ご挨拶しておこうというだけ。




だった。











二月。


友人が、癌の告知を受けたと知らせてくれた。



私自身が抗がん剤などの治療で、

体の変化を強く感じ不安になったことがあり、

比べるものでは決してないけれど、

これからの彼女を思うと、

何も出来なくても、なにか・・・


どんな言葉をかけていいのかわからなくて、

でも、力になりたかった。





病との戦いは、孤独なものだと思う。




当たり前だけど、

自分の体は、自分のもので、

専門家の指導施術のもとであっても、

自分の体に起こったものと闘わなければならないのは、

他の誰でもないからだ。



誰も代わりになんてなれない。



家族はおろか、友人という私に何が出来ると言うのか。




無力と感じた。




しかし何もしないではいられず、鶴を折った。


それは、自分が病院に入っているときに、

私の友人が私にしてくれたことだった。



私が嬉しかったことが彼女にも当てはまるなんてわからないけれど、

そんなことしか思いつかなかった。

迷惑で邪魔になることかもしれない。



でも、

その闘いに寄り添うことはできないだろうか・・・



何かしたい、そんな思いの周りの

友人・知人・知人の知人とともに、折った。



鶴を折るというのは、結構な手間がかかるもので、

折っている間、集中する。

何もできない無力感を、

その作業に没頭するということで薄れさせているような気がした。




折り始めた時は、

こんなことをして、自分で満足しているだけなんじゃないのか、

折っているこの間にも、病気は彼女を苦しめ続けていて、

不安と悔しさできっといっぱいいっぱいの彼女に、

結局何にも効果的なことは出来ない、

気をつかわせてしまうだけかもしれない、

おせっかいだ。



無力だ。

そう思っていた。








三月に入り、

徐々に周りの友人たちから鶴が送られてきた。

子どもと折ったよ、祖母も折ったよ。



その数は毎日増え、何千にもなった。



つなぐと、もう、片手では持ち上げられないほど、

ずっしりと、重かった。




本当に、そこにはなまの重みがあった。



一羽は風に飛びそうな軽さ。

でも、

抱えきれないくらいの束は、思いを具現化していた。





「んとねー。送りたいものあるから、送っていい住所教えてー^^」




内心、びくびくしていた。

押しつけだもの。

想いは本物だけど、受け取る立場からしたら、

迷惑かも知れない。



でも。




どうか。

どうか。




こんなもので病気が治ったら、

医者も薬もいらない。


ほっといてくれって思っているかも、

でもほっとけないなんて、

自分の勝手だ。


気持の押し付けは負担になるかもしれない。










どうか。

どうか。




これを見て、一瞬でも彼女が笑ってくれたら、

癌細胞がちょっと縮むかもしれない。



ほら、笑うって免疫力上がるって言うじゃない。

微々たる力でも、笑うきっかけになってくれたら。



そんな言い訳みたいなことを思いながら、

全ての鶴をつなぎ終えた。






そしてつなぎ終えて、

やっぱり、



無力なんじゃないかと思っていた。





その直後。










三月十一日。



震災が起きた。





騒然となった。

世の中も、私も、身構えた。




たまたま東京に行っていた私は、ホテルでニュースを見ながら、

徐々に明らかになる震災の全貌と死者行方不明者の数字を見て、

総毛立った。




200~300の遺体を発見。




嘘だろう。

桁間違ってないか。



一人の命だって、こんなにも尊く、想われ、代わりはなく、

胸が痛くなるほどにどうにかなってくれないかと思うんだ。




それが、

そんな数字、そんな数字・・・・・。




そしてその無機質な数字はどんどん数を増し、

もう、耳をふさぎたくなった。


東京駅にあふれる人みな、

平常心ではなく、

努めて平常を保とうとしているように見えた。






京都に帰ると、そこはほとんどいつも通りの京都だった。



フラフラしながら、でも何かに焦りながら、

カーラジオの伝える余震速報を聞いていた。


茫然として部屋に帰ると、

そこに、

鶴があった。






鶴があった。





送らなければ。





瞬間浮かんだのは、彼女の顔だった。


何を迷っていたんだろう、送らなきゃ。

今だって、地震が来ようが火事になろうが、

病気は待ってくれない。

大きなことが起こって、それにショックを受けている場合じゃない、

震災で亡くなられたひとと比べるんじゃない、

ひとり、どれもひとり、

もっと近くの、もっと手の届く、

今目の前にあるひとりに、

何もしないでおたおたしている場合じゃない。



今、すべきは何か。



何もできないと諦めて、

何もしないでいるだけか。



自分の力じゃ無理だって、

閉じこもるのか。



つかみきれないものを掴もうと、

空を切るのではなく、

両手でできることを、

ただするだけじゃないか・・・・






そんな折、

長く福祉の方面でお勉強させて頂いている先生から連絡があり、

震災の方面で働くことになった。


これまで現地に計数回、一週間づつ派遣され、

二か月ごとに現地活動・講演活動・関西での活動を、

繰り返している。



現地へ初めに行ったのは、

三月末。


鶴を宅急便で送り出し、

その足で向かった。



津波に襲われた石巻を中心に、

各避難所や病院で実態把握をしてきた。



テレビで報道されるよりずっと混沌とし、

緊張感が漂う中、

寒さと余震と生死と叫びと沈黙と・・・



避難所で半狂乱に陥った人。

瓦礫から身内を見つけようと淡々と話す人。

遺体に突っ伏す人。

それに話しかける人。

おかしな宗教団体。

お年寄りの体をさする高校生。

若い自衛官。

凍えながら手を合わせる人。

無言で給水に並ぶ妊婦。

夜泣きする子供。

食べようとしないお年寄り。

記念撮影するボランティア。





「見つけてもらってよかった、

 海さいってもて

 見つからん人いるのにな、

 見つけてもらってよかったな」



途方もなく広い海が襲いかかり、

その大きな力に打ちのめされ、

それでも生きていかなければならない。



悲しみを表に出しては自分がやっていけない。

生きているのが申し訳なくても、

生きなければならないのか・・

そう話す人のそばに立ち、

私は一体何ができるのか。



想いを100%理解するなんてできない。

わかりたくてもわかりきれないものがある。



しかし、

私に与えられた役割の中、

何ができるのだろうか。



夜が来て、また朝が来て、

そして寝て食って、

それが続いていく。



「働きてえ、けど、

 すっからかんだ、

 根こそぎやられちまった、

 なんとかしてえ、

 でも、何にも残されねえで、

 おれが残った」



家族を失い、地元は水没し、

そしてまた朝が来る。


やりようのない怒りと、

やるせなさと、

続く日々。



あるものから、残ったものから、

一つ一つを紡いでいく。



広範囲にわたった今回の災害は、

人を無口にしていた。




自分だけじゃないから・・・

でも、それを仕方ないと思っていいのか。


思えるわけがない不条理の中、

仕方ない、そうやって生きる人を目の当たりにし、

自分は無力だと思う自分が、

なんだかとてもずるい気がしていた。







医者や家族でなくたって、

寄り添いたい、力になりたいと思う。

何かを届けたいと思う。



でも、現実遠くにいて、

する事全て差し出がましいようで、

どの道が正しいかわからなくて、

でも考えずには、思わずにはいられない。



祈りって何だろう。

医者でも自衛官でも政治家でもない、

ただの凡人には何もできないんじゃないか。



無力な自分をなだめるのが、

誰か何とかしてくれないかと思うのが、

祈りなのだろうか。

















無力だ、だから何もしないのか。



避けられない大きな力にも屈することなく、

生きようとする人の前で、

私はなんとぬるいことを思っているんだろう。



今やっていることが、

すぐには結果を出せることではないかも知れなくても、

後から考えたらもしかしたら間違った方向のものであっても、

それに悩んで竦んでいては、

何も前に進まない、

何も届けることができない、

無関心ではないにしても現実無視と同じじゃないか、

自分に与えられた役割のなか、

人と話し、声を聞き、目を合わせ、

身の回りの手の届く中で、

出来ることはあるんじゃないのか。



仕事を持っていればそれに感謝し、

家族が元気ならそれを守り、

たまには旧い友に電話をかけ、

情報を多方面から集め、

誰かじゃなく自分の言葉で考え、

具体的に動いてみる。




被災地に思いを馳せていても、

そこに行けない人もいて、

でもその人だって、

家族を守り、日常を粛々と守り、

それは当たり前のようであっても、

その人の役割で、

他に誰もできないこと。

代わりはできないこと。




その中での祈りは、

決して無じゃない。





無力、ではない、微力、じゃないか。


微力が集まったら、微力じゃなくなる。

微力でも、自分にしかできないことだってあるかもしれない。



特別なことじゃなくても、

自分にできることがあるかもしれない。



小さな鶴たちが集まることができたのは、

思い、祈る心があったから。

思いの矢印がそこに向かっていたから。



誰かのために折った鶴は、

折った私に教えてくれた。







祈りは、道しるべ。


世界に唯一の私、あなたにできることを確認して、

こうしたいな、こうなったらいいな、を、

前に進める、道しるべ。








自分ひとりの小さな力だから、

何も出来ないと不安になる。

小さな力は時々道に迷ってしまう。




そんな時。















走る朝、

目を閉じると、鳥や虫の声、風で葉っぱが揺れる音、水の音、

そして自分の心音、

みんな一緒に聞こえてくる。



お堂の前で息を整えると、



お邪魔します、おはようございます。





そのあとに、もうひとつだけ、心で唱える。



・・・・・で、ありますように。






日によって内容は違ってくる。

一日一日、試行錯誤の手探り。




それは神頼みとか、そういうんじゃない。

私の微力が、向かう方向を確認するんだ。




そして小さな力を、動かすんだ。




祈っても念じてもスプーンは曲がらない。


でも、その力の方角を定めることは出来る。







無力だから祈るんじゃない。



微力ながら、祈ろうと思う。





*************

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written by freurein
2011/08/23




Posted at 2011/08/30 08:26:18 | コメント(4) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記
2011年06月29日 イイね!

Time to say goodbye.





サラ・ブライトマンの

Time to say goodbye

イタリア語で Con te Partiro

旅立ちの歌と思っていましたが、

読みようによっては。



以下に残します。


********







ひとりきりでいるとき
私は水平線を夢見る
そしてなにも言えなくなってしまう
部屋の中は 暗い
太陽の光が ないなら
あなたが 私のそばにいないと 太陽も消えたまま
窓から
私の心が広がっていく
あなたのものになった 心が
あなたは そんな私に 光をふりそそいでくれる
あなたが
道端で見つけた 光を
タイム・トゥ・セイ・グッパイ
いままでに 見たことも
おとずれたこともない場所を
私は これから
あなたとともに 航海していく
船に乗って 海を越えて
もう どこにも なくなってしまった海を 越えて
イッツ・タイム・トゥ・セイ・グッパイ

あなたと はなれているとき
僕は 水平線を夢見る
そしてなにも言えなくなってしまう
でも もちろん わかっている
あなたは 僕と ともにいるんだ
あなたは僕の月 僕とともにいてくれる
僕とともに 僕とともに 僕とともにいてくれる
僕とともに 僕とともに 僕とともに
タイム・トゥ・セイ・グッパイ
いままでに
見たことも
おとずれたこともない場所を
僕は これから
あなたとともに 航海していく
船に乗って 海を越えて
もう どこにもなくなってしまった海を
あなたとふたりで 蘇らせよう

あなたとともに
旅立とう
船にのって 海を越えて
もうどこにもなくなってしまった海を
あなたとふたりで 蘇らせよう
あなたと行こう
あなたと 旅立とう



Sarah:
Quando sono sola
sogno all'orizzonte
e mancan le parole,
si lo so che non c'è luce
in una stanza quando manca il sole,
se non ci sei tu con me, con me.
Su le finestre
mostra a tutti il mio cuore
che hai accesso,
chiudi dentro me
la luce che
hai incontrato per strada.

Time to say goodbye.
Paesi che non ho mai
veduto e vissuto con te,
adesso si li vivrò.
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,
it's time to say goodbye.

Andrea:
Quando sei lontana
sogno all'orizzonte
e mancan le parole,
e io si lo so
che sei con me con me,
tu mia luna tu sei qui con me,
mio sole tu sei qui, con me,
con me, con me, con me.

Time to say goodbye.
Paesi che non ho mai
veduto e vissuto con te,
adesso sì li vivrò.
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,

Both:
con te io li rivivrò.
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,
con te io li rivivrò.
Con te partirò




Posted at 2011/06/29 11:57:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記
2011年06月19日 イイね!

村上春樹のスピーチ。






備忘録として転載します。


震災から100日、あと何百日たてば、何千日たてば、何万日たてば、


傷が癒えるのでしょうか。


傷は、残るでしょうが、風化させずに立ち直れるのでしょうか。


いま、鴨長明の方丈記を読み返しています。


あらぶる自然を畏れながら生きてきた日本人のこころに住まう、


無常観、


今と昔とでは違うものも多いかとは思いますが、


今一度読み返しては考えています。





http://www.youtube.com/watch?v=ZL-W7tX1Z-Y


**************




【バルセロナ共同】9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。



 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1・8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

Posted at 2011/06/19 16:13:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記

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