2011年03月21日
以下に書くことを不快に思う方がいらっしゃったら申し訳ない。
が、話したいことがある。
このところ、震災に関しての様々な議論があらゆるところで活発になっている。
悪いこととは思わない。むしろ、言葉を秘めて悶々と過ごしている方々の声が聞こえなくなることが問題ではないかと思う。
言う人は言うのだ。
言えなくなる人は言えなくなるのだ。
言えなくなる、というのは、どこかに、
申し訳ない、
不謹慎である、
適切な言葉が見つからない、
その他、様々な要因があろうかと思う。
では、不謹慎であるということはどういったことなのか。
今回の大きな災害に接し、多くの方々がその被災者に対して哀悼の感を禁じ得なかっただろう。
私もそうだ、ぬくぬくと過ごし温かい飯を食い布団で寝る、それが罪悪であるかのように感じる。
あちらでは大変な状態が今も続いているのに、こちらではふだんとさして変わりない生活が続いている。それが申し訳なく感じる。
今の自分の時間を切り取って被災者の方に差し上げたいと思う。
自分の口に運ぶものを彼らにと思ってしまう。
実際にできないことから、それらの感情を、
偽善、と思う。
また、そうしたい気持ちを口にする人を、偽善者であると転嫁する。
いや、はけ口とする。
だが、
そう思う気持ち自体を否定するのはどうか。
痛いと感じる気持ちを否定するのはどうか。
痛いと感じている人がいるのは事実だ。
問題は、なぜ自分が痛いと感じているのかだ。
共感か。
共感ならば自分と相手を照らし合わせ共通するところにおいて感じていることになる。
想像の世界で自分だったらどうだろうと思うところにおいて共感というのは、仮想だ。
仮想が不確かなものであるがゆえにその共感というものに疑問を感じる。
そして、自分の感じる痛み自体に疑問を感じる。
これは、うそものか。
本当の悲しみや痛みを感じれないから、想像の中の悲しみや痛みをうそものと思う。
そして人は口をつぐみあらゆる行いを慎む。
そしてうつむいて不謹慎という衣を被る。
大きな、莫大な停滞の始まりだ。
悲しみを、痛みを、乗り越えよう。
それは決して不確かな行いではない。
痛かった分、超えて成すことには重力がかかってくる。
痛かった、ということを誰かに知ってもらうがために不謹慎という衣を被ることをやめてみないか。
相手を不快にさせるのではないかと停滞することをやめてみないか。
心から湧き出すエネルギーを、世間からの風当たりを超えた場所で出してみないか。
また、
申し訳ないと思う相手はどこにいる。
被災者か。
その被災者がかわいそうだから私たちが何かしてあげようという考え方なのか。
そうではないはずだ、いずれ私たちはそれを一緒に担ぐのだ、そう思わないで一方的に助けるなんていう考え方では、風化して当たり前だ。
目の前のフラッシュにめまいする時期は過ぎた。
足元を見て、一番近い人を見て、自分の役割を見直し、
前へ。
Posted at 2011/03/21 01:03:59 | |
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