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2011年08月30日 イイね!

祈り。【文書保管庫】




週に一度の習慣がある。





中学時代からのライフワークのようなもので、

早朝にランニング。





京都に移り住んではや10年、

寺の周りを走っている。


昼間は観光客が多い場所も、朝は静か。




数年前に病気をして、

立って歩けないくらいに衰弱した私も、

今はもう随分と元気に走り回っている。


歩行練習から始まり、

一日の一歩は小さくても、

積み重ねることでここまでこれる。


それを実感するのが、ちょっとした喜び。




走るとき、その寺でいったん呼吸を整え、

手を合わせることにしている。






お邪魔してます、おはようございます。






ずっと、何年もこのフレーズだった。



宗教はこれといって特には信仰していない。

お願いごとをするのも好きじゃない。

ありがとうを連発するのも好きじゃない。

境内を走らせていただくのだから、

ご挨拶しておこうというだけ。




だった。











二月。


友人が、癌の告知を受けたと知らせてくれた。



私自身が抗がん剤などの治療で、

体の変化を強く感じ不安になったことがあり、

比べるものでは決してないけれど、

これからの彼女を思うと、

何も出来なくても、なにか・・・


どんな言葉をかけていいのかわからなくて、

でも、力になりたかった。





病との戦いは、孤独なものだと思う。




当たり前だけど、

自分の体は、自分のもので、

専門家の指導施術のもとであっても、

自分の体に起こったものと闘わなければならないのは、

他の誰でもないからだ。



誰も代わりになんてなれない。



家族はおろか、友人という私に何が出来ると言うのか。




無力と感じた。




しかし何もしないではいられず、鶴を折った。


それは、自分が病院に入っているときに、

私の友人が私にしてくれたことだった。



私が嬉しかったことが彼女にも当てはまるなんてわからないけれど、

そんなことしか思いつかなかった。

迷惑で邪魔になることかもしれない。



でも、

その闘いに寄り添うことはできないだろうか・・・



何かしたい、そんな思いの周りの

友人・知人・知人の知人とともに、折った。



鶴を折るというのは、結構な手間がかかるもので、

折っている間、集中する。

何もできない無力感を、

その作業に没頭するということで薄れさせているような気がした。




折り始めた時は、

こんなことをして、自分で満足しているだけなんじゃないのか、

折っているこの間にも、病気は彼女を苦しめ続けていて、

不安と悔しさできっといっぱいいっぱいの彼女に、

結局何にも効果的なことは出来ない、

気をつかわせてしまうだけかもしれない、

おせっかいだ。



無力だ。

そう思っていた。








三月に入り、

徐々に周りの友人たちから鶴が送られてきた。

子どもと折ったよ、祖母も折ったよ。



その数は毎日増え、何千にもなった。



つなぐと、もう、片手では持ち上げられないほど、

ずっしりと、重かった。




本当に、そこにはなまの重みがあった。



一羽は風に飛びそうな軽さ。

でも、

抱えきれないくらいの束は、思いを具現化していた。





「んとねー。送りたいものあるから、送っていい住所教えてー^^」




内心、びくびくしていた。

押しつけだもの。

想いは本物だけど、受け取る立場からしたら、

迷惑かも知れない。



でも。




どうか。

どうか。




こんなもので病気が治ったら、

医者も薬もいらない。


ほっといてくれって思っているかも、

でもほっとけないなんて、

自分の勝手だ。


気持の押し付けは負担になるかもしれない。










どうか。

どうか。




これを見て、一瞬でも彼女が笑ってくれたら、

癌細胞がちょっと縮むかもしれない。



ほら、笑うって免疫力上がるって言うじゃない。

微々たる力でも、笑うきっかけになってくれたら。



そんな言い訳みたいなことを思いながら、

全ての鶴をつなぎ終えた。






そしてつなぎ終えて、

やっぱり、



無力なんじゃないかと思っていた。





その直後。










三月十一日。



震災が起きた。





騒然となった。

世の中も、私も、身構えた。




たまたま東京に行っていた私は、ホテルでニュースを見ながら、

徐々に明らかになる震災の全貌と死者行方不明者の数字を見て、

総毛立った。




200~300の遺体を発見。




嘘だろう。

桁間違ってないか。



一人の命だって、こんなにも尊く、想われ、代わりはなく、

胸が痛くなるほどにどうにかなってくれないかと思うんだ。




それが、

そんな数字、そんな数字・・・・・。




そしてその無機質な数字はどんどん数を増し、

もう、耳をふさぎたくなった。


東京駅にあふれる人みな、

平常心ではなく、

努めて平常を保とうとしているように見えた。






京都に帰ると、そこはほとんどいつも通りの京都だった。



フラフラしながら、でも何かに焦りながら、

カーラジオの伝える余震速報を聞いていた。


茫然として部屋に帰ると、

そこに、

鶴があった。






鶴があった。





送らなければ。





瞬間浮かんだのは、彼女の顔だった。


何を迷っていたんだろう、送らなきゃ。

今だって、地震が来ようが火事になろうが、

病気は待ってくれない。

大きなことが起こって、それにショックを受けている場合じゃない、

震災で亡くなられたひとと比べるんじゃない、

ひとり、どれもひとり、

もっと近くの、もっと手の届く、

今目の前にあるひとりに、

何もしないでおたおたしている場合じゃない。



今、すべきは何か。



何もできないと諦めて、

何もしないでいるだけか。



自分の力じゃ無理だって、

閉じこもるのか。



つかみきれないものを掴もうと、

空を切るのではなく、

両手でできることを、

ただするだけじゃないか・・・・






そんな折、

長く福祉の方面でお勉強させて頂いている先生から連絡があり、

震災の方面で働くことになった。


これまで現地に計数回、一週間づつ派遣され、

二か月ごとに現地活動・講演活動・関西での活動を、

繰り返している。



現地へ初めに行ったのは、

三月末。


鶴を宅急便で送り出し、

その足で向かった。



津波に襲われた石巻を中心に、

各避難所や病院で実態把握をしてきた。



テレビで報道されるよりずっと混沌とし、

緊張感が漂う中、

寒さと余震と生死と叫びと沈黙と・・・



避難所で半狂乱に陥った人。

瓦礫から身内を見つけようと淡々と話す人。

遺体に突っ伏す人。

それに話しかける人。

おかしな宗教団体。

お年寄りの体をさする高校生。

若い自衛官。

凍えながら手を合わせる人。

無言で給水に並ぶ妊婦。

夜泣きする子供。

食べようとしないお年寄り。

記念撮影するボランティア。





「見つけてもらってよかった、

 海さいってもて

 見つからん人いるのにな、

 見つけてもらってよかったな」



途方もなく広い海が襲いかかり、

その大きな力に打ちのめされ、

それでも生きていかなければならない。



悲しみを表に出しては自分がやっていけない。

生きているのが申し訳なくても、

生きなければならないのか・・

そう話す人のそばに立ち、

私は一体何ができるのか。



想いを100%理解するなんてできない。

わかりたくてもわかりきれないものがある。



しかし、

私に与えられた役割の中、

何ができるのだろうか。



夜が来て、また朝が来て、

そして寝て食って、

それが続いていく。



「働きてえ、けど、

 すっからかんだ、

 根こそぎやられちまった、

 なんとかしてえ、

 でも、何にも残されねえで、

 おれが残った」



家族を失い、地元は水没し、

そしてまた朝が来る。


やりようのない怒りと、

やるせなさと、

続く日々。



あるものから、残ったものから、

一つ一つを紡いでいく。



広範囲にわたった今回の災害は、

人を無口にしていた。




自分だけじゃないから・・・

でも、それを仕方ないと思っていいのか。


思えるわけがない不条理の中、

仕方ない、そうやって生きる人を目の当たりにし、

自分は無力だと思う自分が、

なんだかとてもずるい気がしていた。







医者や家族でなくたって、

寄り添いたい、力になりたいと思う。

何かを届けたいと思う。



でも、現実遠くにいて、

する事全て差し出がましいようで、

どの道が正しいかわからなくて、

でも考えずには、思わずにはいられない。



祈りって何だろう。

医者でも自衛官でも政治家でもない、

ただの凡人には何もできないんじゃないか。



無力な自分をなだめるのが、

誰か何とかしてくれないかと思うのが、

祈りなのだろうか。

















無力だ、だから何もしないのか。



避けられない大きな力にも屈することなく、

生きようとする人の前で、

私はなんとぬるいことを思っているんだろう。



今やっていることが、

すぐには結果を出せることではないかも知れなくても、

後から考えたらもしかしたら間違った方向のものであっても、

それに悩んで竦んでいては、

何も前に進まない、

何も届けることができない、

無関心ではないにしても現実無視と同じじゃないか、

自分に与えられた役割のなか、

人と話し、声を聞き、目を合わせ、

身の回りの手の届く中で、

出来ることはあるんじゃないのか。



仕事を持っていればそれに感謝し、

家族が元気ならそれを守り、

たまには旧い友に電話をかけ、

情報を多方面から集め、

誰かじゃなく自分の言葉で考え、

具体的に動いてみる。




被災地に思いを馳せていても、

そこに行けない人もいて、

でもその人だって、

家族を守り、日常を粛々と守り、

それは当たり前のようであっても、

その人の役割で、

他に誰もできないこと。

代わりはできないこと。




その中での祈りは、

決して無じゃない。





無力、ではない、微力、じゃないか。


微力が集まったら、微力じゃなくなる。

微力でも、自分にしかできないことだってあるかもしれない。



特別なことじゃなくても、

自分にできることがあるかもしれない。



小さな鶴たちが集まることができたのは、

思い、祈る心があったから。

思いの矢印がそこに向かっていたから。



誰かのために折った鶴は、

折った私に教えてくれた。







祈りは、道しるべ。


世界に唯一の私、あなたにできることを確認して、

こうしたいな、こうなったらいいな、を、

前に進める、道しるべ。








自分ひとりの小さな力だから、

何も出来ないと不安になる。

小さな力は時々道に迷ってしまう。




そんな時。















走る朝、

目を閉じると、鳥や虫の声、風で葉っぱが揺れる音、水の音、

そして自分の心音、

みんな一緒に聞こえてくる。



お堂の前で息を整えると、



お邪魔します、おはようございます。





そのあとに、もうひとつだけ、心で唱える。



・・・・・で、ありますように。






日によって内容は違ってくる。

一日一日、試行錯誤の手探り。




それは神頼みとか、そういうんじゃない。

私の微力が、向かう方向を確認するんだ。




そして小さな力を、動かすんだ。




祈っても念じてもスプーンは曲がらない。


でも、その力の方角を定めることは出来る。







無力だから祈るんじゃない。



微力ながら、祈ろうと思う。





*************

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written by freurein
2011/08/23




Posted at 2011/08/30 08:26:18 | コメント(4) | トラックバック(0) | 文書保管庫 | 日記

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