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惰眠のブログ一覧

2006年11月30日 イイね!

あらまあ、こんな車が

あらまあ、こんな車がむかし、アストン・マーティンのヴィラージュ(添付写真)が停まっているのを見かけたところを通りかかると、巨大なくさび形の4ドア・サルーンが鎮座ましましていた。ラゴンダだ。若干、角が取れてふくよかになっているから、モデル後期のシリーズ4とか呼ばれる型なのだろう。

 僕は過去に2回、街中を走るラゴンダに接近遭遇したことがある。一度目は深夜の六本木通りで、渋滞の中で真横に並んだ。それまで写真でしか見たことがなかったのだが、ああいうくさび形(ウェッジ・シェイプ)の車としては途方もなくデッカイことに兎も角驚いた。最近ではロールズ・ロイスのファントムがそんな按配だが、トミカのミニカー群の中にダイヤペットが紛れ込んでいるような感じだ。
 横目でチラチラ運転席の景色など覗き見てみると、昔懐かしい『テクノ』調のスイッチ群が電飾されて光っていた。同じ時代の英国車がこぞって故障の集中豪雨に見舞われるのと同じで、普通に維持して走らせることが非常に厳しい車だという耳学問だけはあったので、専らその点でオーナーに敬意を抱いたものだ。

 二度目は都立大学の駅前だった。このときに見たラゴンダは、トレーラーとして使われていた。ただし、後ろにつながっていたのはキャンピング・カーだとかドレスアップしたボートのキャリアーなんかではない。
 長大なくさび型の後には、使い込まれて薄汚れた木製の大八車みたいなモノが繋がれていた。10年以上も雨風に晒された戸板一枚に車輪つけただけの大八車みたいな、見るからに『荷車』だ。新車価格ならば恐らく2千万以上したと思われる超高性能サルーンが、日曜大工でなら1万円くらいで作れちゃいそうな大八車を牽いている……ものすごいコントラストであった。(実際にはもう少し立派だったのかもしれないが、出会いがしらの印象は『王様と乞食』以外の何者でもなかった)

 スーパーカー・ブームの真っ只中に少年期を過ごした僕は、どうもくさび型をした車に目が吸い寄せられる傾向があるみたいだ。そして、こういう実体験もあって、とりわけラゴンダは僕にとって(妙な具合に)印象深い車になっている。しかし、車の運転中と言うのは思うに任せぬもので「おお!ラゴンダじゃん!!」と気づいたときには、もうカメラを構える暇など少しもなくなっているのだった。同じ場所にしばらく駐在してくれると、次のシャッター・チャンスが期待できるんだけどな。
Posted at 2006/11/30 11:56:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 海外の車 | 日記
2006年11月29日 イイね!

微妙な違和感

微妙な違和感ある意味、即効性のある対応策を打ち出すことが焦眉の急であることは、マァ理解できないこともない昨今の「いじめ問題」であるが、どうも僕は『何で、今?』という違和感を覚えずにいられない。
 刑事事件にまでなった山形のマット死事件をあげるまでもなく、学校現場における所謂「いじめ」問題の深刻さは、もう遥か以前から言われ続けていたことなのである。

 ただ一点、過去に発生したあらゆる悲惨な事例と今回で異なっているのは、直接大臣宛に自殺予告の手紙が届いたことだろう。「教育を取り仕切る偉い人が何にも対策してくれないんなら、わたし死んで抗議するからね。わたしの自殺はあんたたちのせいだからね」と宣言されたせいで、国のメンツに関わる問題になってしまった。
 流石にこうなると、体面が大事なお役人としてはシモジモの機関任せにして置く訳にもいかない。と言うのが「何で今?」の理由なのかも知れない。

 ただ――大変不謹慎であることを承知で書くと、伊吹文科相あての手紙が、本当に自殺を考えねばならないところまで追い詰められたホンモノの学童が書いたものであるならば。タウン・ミーティングでやらかしたような、お手盛りマッチポンプでないならば。そういう留保をつけなくちゃいけないとも思っている。

 こういう疑念がふと脳裏をよぎるのは、確かに事は人の命に関わりかねないことであるから緊急の対処が必要なのは明らかであるにせよ、総理の諮問機関である教育再生会議なんぞの議論でも、本来「教育の再生」を謳うのであれば一番に重要視し検討せねばならないマクロの構造論(総論部分)を脇において、ミクロの各論から入りすぎているように――短期的には対症療法になっても、長い目で見れば根治にはならない場合もある――見えるからだ。
 ミクロの部分から逆に組み立ててマクロの構造を仕立て上げようと腹積もってるんじゃないかという気がしなくもない。ひどい言い方をすると、自殺予告をしてきた子供の生命を人質にとって(もしくは口実にして)、異論を差し挟むのはまるで冷血な人でなしであるかのような感情的な舞台設定をこしらえてしまっているような気持ち悪さを覚える。

 で、今日はその「再生会議」が緊急提言を出したことが報じられた。原文は見ていないのだが、ニュースや新聞で伝えられている文言がオリジナルに忠実であることを前提にすると、なんかちょっと、この人たち随分とおぞましい学校現場を作ろうとしてるっぽいんだけど?と言いたくなってくる。

 確かに緊急に提言された各項は、基本線では「お説、ご尤も」なのだ。なのだけれども、懲戒等の処分と抱き合わせで「見てみぬ振りも加害者」云々の「毅然とした」提言内容を目の前に出されると、まず第一に「それって、教育?」と感じさせられ、ついで第二に「相互監視と密告奨励?」と感じてしまう。
 これさぁ、こういうシステムってさぁ、今回の提言では「いじめ」が対象になってるけどさぁ、「批判的言動」だとか「反体制的思想」だとか「愛国心の発露」とかをモチーフにしても有効に機能しちゃうんだよね。そういうモノを教育の現場に持ち込んじゃうことに、この有識者たちは抵抗感がないのかなぁ。ヤバいとは思わないのかなあ。

 悪さをするクソガキを懲らしめて改心させることは、もちろん必要なんだけれども、まず所謂「いじめ」の被害者がどうして自殺するところまで追い詰められちゃうのか、そこを見据えて対策するのも同じくらい――いや、緊急性と言う意味ではこちらのほうがずっと――重要なんじゃないかと、そんな気がするのだ。
 要するに救命救急の理屈だ。病院に死に掛けてる患者が搬送されてきたら、まず「死なさないこと」を最優先に医療行為が始まるでしょう。心臓が停止しかかってるなら、まず心拍や呼吸の維持があって、それから外傷の処置や輸血・輸液なんじゃないのかなあ。たとえその外傷が、見た目にとても酷くても。

 なんだかこう、「いじめ自殺」問題への対応を口実(もしくは隠れ蓑)にして、随分と粗雑で乱暴なことを提言してるんじゃないか、との違和感が拭えずにいる。
Posted at 2006/11/29 15:10:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | 事件・事故 | 日記
2006年11月24日 イイね!

一辺倒

一辺倒一週間ばかり、ユーノス500一辺倒の暮らしをした。2号車が不調だったから乗れなかったわけではない。車が不調だったからではなく運転者が不調だったのだ。それも、かなり。

 僕はいわゆる「腰痛もち」だ。もう小学生の頃から慢性的に腰痛の症状を抱えているので、甘くみていると言っては変だが、多少腰が痛いくらいのことは日常の出来事で特筆する出来事ではない。いや「なかった」だ。

 去年の今頃も起きたのだけれども、人体の経年劣化によるものなのか、この季節殆んど発作と呼びたいほどの激甚な腰痛に苛まれるようになってしまった。重だるい痛みが縦になっても横になっても斜めになってもひねっても、つまり何をしても軽減することなく続いて、甚だしいときには痛みが左脚にまで下りてくる。坐骨神経痛ってやつだ。

 去年この症状に見舞われたときには、足の痛みがひどくて夜眠れず、街売りの鎮痛剤でしのがざるをえなかった。まさか腰痛で鎮痛剤を飲むなんて思わなかった。流石にこの症状が続くようなら医者にかからんとダメだな……と思っていたら10日ほどで峠を越え、あっさり治まってしまったもので、つい放置してしまっていたのだ。おかげで今年、また同じような目に遭わされたのだが。

 普段、特に具合が悪くないときにはあまり違和感が意識に上ってこないけれども、実は3代目ロードスターのペダル位置は、少なくとも僕の着座姿勢からすると若干右にオフ・セットしている。
 長時間運転し続けていると体がしんどいこともあるので「若干」とは言いがたいのかもしれないが、取り立てて問題視せにゃならないほどのものではない。と、思う。

 だが今回はダメだった。立っても歩いても寝てもしゃがんでも腰が痛くてたまらないようなときには、あの椅子に座るのは通勤のための30分少々と言えども辛すぎた。実際には耐えられなくもないのだろうが、そのあと腰の具合がさらに悪化するのが目に見えている。それで症状が治まるまで、しばらくユーノス500一辺倒にせざるをえなかったのだ。
 500のペダル類も割とオフ・セットしているのだけれども、椅子に腰掛けたときの姿勢だとかなんだとかが、もう比べ物にならないくらいに楽なのである。流石はセダン。

 こういう時、二台体制の有り難味と言うか、一台が普通の(?)セダンであることの有り難味を痛感する。まあ、本来オープン2座のスポーツ・カーは「別にもう一台、普通使いのできる車がある」ことを前提にして所有するものなのだろうから、ありがたがるのも変な話かもしれないが。

 ともあれ、ようやっと急性症状から開放されたのでめでたく二股生活に復帰したのだが……やっぱり、ちゃんと医者に診てもらって、切るなら切る、削るなら削って根治治療をしないと駄目なんだろうなあ。
Posted at 2006/11/24 12:28:38 | コメント(3) | トラックバック(0) | 身の回りの出来事 | 日記
2006年11月22日 イイね!

やべぇ国になってきたな、と。

やべぇ国になってきたな、と。先日の衆院での与党単独採決の結果、「教育基本法改正案」こと愛国教育基本法案は、本国会の会期残り日数から勘定して参院で審議未了でも法律が自然成立するところまで来てしまった。なんともヤベェ国になってきたなと薄ら寒さを覚える。

 僕は安倍総理の唱える『美しい国』のフレーズが気色悪くてたまらない。彼が口にするこの言葉を聞いて真っ先に思い及んだのが『退廃芸術』のことである。公権力が、個々人の美意識だとか芸術的感性にまで踏み込んできて、これは社会を堕落させる間違った意識であるというようなことを統制したことを思い起こさせたのだ。何を美しいと感じるか、そういう人間の内面にまでも「くに」が口をさしはさみアレコレ指図する――おぞましい限りである。

 ほぼそれと同じ感覚で、今般の教育基本法改正案も気色が悪くて仕方がない。
一体なんだって「くにをおもうこころ」みたいなもんを、将来の有権者にインプリンティングせにゃならんのだ。大体、この「くに」ってなんなんだ。豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)か。それとも「大君の辺にこそ死なめ」の君が代なる国体か。冗談ではない。

 昔の偉い人はこう言った。「まず隗より始めよ」と。
「くに」なんていう漠然として抽象的で遠い雲の上の、如何様にでも解釈できるような存在を大切に思ったり愛したりすることなんかよりも、まず真っ先に自分の身近の人間を大切に思い慈しむ人間を育てること、そういう教育を行うことが大事なんじゃないのか。
凄く昔の凄く偉い人も言っている。「汝の隣人を愛せよ」と。
このことを敷衍していくと結局、自分の身近な人を大事に思い、そういう大事な人々が暮らす「場所」としての国を愛するようになるってもんじゃないのか。「人」を大事にすることよりも先に「くに」を思えだなんて、メチャクチャな話である。そういうことは『偉大なる将軍様』の国ででもやっててくれれば十分である。
Posted at 2006/11/22 17:10:29 | コメント(3) | トラックバック(0) | ふと思ったこと | 日記
2006年11月21日 イイね!

もはや追憶の中にしか居場所がない

もはや追憶の中にしか居場所がない1968年生まれの僕にとっては、スカイラインと言う名前の車はやはりちょっと『別格』の印象があった。68年と言えば箱スカなどと俗称される3代目がデビューした年であり、したがってクルマ好きの幼児だった僕が物心つく頃に街中で見かける「スカイライン」と言えば、今ほど新モデルが素早く溢れかえるわけでなかった昭和40年代後半、代替わりした4代目ケンメリよりも圧倒的に箱スカのほうだった筈だ。
 「スカG」なんて愛称も人口に膾炙していた。僕に限らず、マツダに阻まれるまでツーリング・カーのレースで49連勝を誇った箱スカは、やっぱり特別スポーティなイメージの原点なのかもしれない。

 あの頃、まだまだクルマは高嶺の花だった。そうした中でフツーの善良な消費者にはパブリカだとかカローラ、コロナやブルーバードを買うのが常識的な選択肢で、ちょっと余裕がある偉い人なんかがコロナマーク2に手を出していたりした。
 そしてその選択肢は、往々にして会社での肩書きと(経済的事情もあるだろうが)密接にリンクしていた。クルマには、厳然たる序列があったのだ。

 思うに、スカイラインと言う車は、そうしたヒエラルキーから半身をずらしたような位置づけにあったような気がする。他の殆んど全ての国産セダンが「ファミリー・カーであること」を第一条件にオーナーの社会的地位と関連した序列の中に位置づけられていたのに対して、このモデルだけは「ドライバーズ・カー」だった。
 確かに、ローレルなどのように「家族よりもオーナー個人」を優先する車も登場し始めていたが、スポーツ・カー裸足の走行性能を商品イメージとして謳う大排気量セダン(当時の平均からすれば2リッター・エンジンは「大排気量」だ)は、控え目に言っても明らかに特徴的だった筈だ。

 時代は下がるが、4ドア・セダンが2ドアのクーペから「名ばかりのGT」云々とアヤつけられること自体、冷静に考えれば異常事態なわけで、スカイラインと言うのはファミリー・カーの皮を被ったパーソナル・カーだったと言えるかも知れない。そしてこれも想像だけれども、そういうちょっと一匹狼的なイメージに、憧れを抱く消費者は少なくなかっただろう。

 このことは、スカイラインという車を僕ら消費者に鮮烈に刻み付けるキー・タームになったけれども、それが今ではアンシャン・レジームと化しているのではないかなぁと僕は感じている。手かせ足かせではないのかと。
 いま現在の国産自動車を俯瞰して眺めてみると、かつてスカイラインの特色であった筈の「優れた動的性能」は、もはや他を圧して特徴的なものではなくなっている。なにしろ全体のレベルが大きく底上げされているし、スポーツ・カーが裸足で逃げ出すような4ドア・セダンは他に幾らでもある。パーソナル・ユースを前面に打ち出した商品に至っては言うに及ばずだ。

 日産は一貫して「スカイライン=スポーツ性能」で商売してきたわけだけれども、市場ではもうとっくに「スポーツ性能=スカイライン」ではなくなってしまっている。それなのに「日本のクルマに、ときめきが帰ってくる 」なんて、どこの宣伝屋が思いついたか知らないが、随分と時代錯誤的なコピーだ。
 R32のGT-Rが市場から渇望されていた20年前だったら通用したかもしれないが、2006年のスカイラインを売り込む言葉ではない。「日本のプロレスに、力道山が帰ってくる。力道山12世デビュー」とか言ってるのと殆んど同じレベルだ。いま平成18年だぞ。誰が待ってるんだ、そんなもん。

 自動車評論家の下野康史は著書のあとがきに「自動車ほど『虚』のイメージが重要性を持つ商品はない」と言うような趣旨のことを書いていた。虚のイメージを形成する最初のモチーフは、大概CMだとかキャッチ・コピーだとかの宣伝である。
 今となってはすっかり時代に取り残されてしまった「スカイラインの商品特徴」にしがみついていたのでは、結局先細りの哀しい末路を辿るしかないんじゃなかろうか。もう半分なりかけてると思うが、このままじゃ本当に追憶の中にしか居場所がなくなってしまう。歴史と伝統のあるビッグ・ネームの老残は見たくない。

 多分、実際に見て乗ってみれば新型スカイラインは、輸送機械としての『実』の部分は、凄くよくできた自動車なんだろうと思う。先代V35にチョロッと乗ったときのことから想像して、その点では信頼できる。
 僕は商品宣伝の専門家じゃないので無理だが、それで飯を食ってるプロの人たちには是非、21世紀の今、スカイラインと言う出色のブランドに『ときめき』をとりもどす方策を真剣に考えて欲しいと思うのだ。

(画像はV35世代のクーペ)
Posted at 2006/11/21 13:01:46 | コメント(6) | トラックバック(1) | 日本の車 | 日記

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「そろそろ寝ないとなー。あした、絶対仕事が面倒くさいことになるの確定だから。」
何シテル?   09/17 23:51
曲面の綺麗な旧い車が好き、エレガンスのある車が好き。そんなこんなでユーノス500に乗りつづけ、もう……何年だ?  気がつけば屋根のない車まで併有。いつまで乗り...
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