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Cyber Xのブログ一覧

2013年07月01日 イイね!

今、注目のハイブリッドカー <スバルXV、レクサスIS>

今、注目のハイブリッドカー &lt;スバルXV、レクサスIS&gt;梅雨の合間の日曜日、2台のハイブリッド車を試乗してきました。









スバル XV ハイブリッド
過去、スバル車は所有したことがないのですが、インプレッサやレガシィは何度か試乗しており、走りについてはむしろ最近のトヨタ車よりもいい印象をもっていました。
また、マイカーは通勤で使用せず、完璧なサンデードライバー、遠乗りするにはやはりガソリン代が節約できる車で、排気量が小さくなく、大人4名が乗車できる車というのが、買い替えた場合の条件です。
短距離でしたが、市街地を試乗してきました。
エクステリアは、憧れのレクサスRXタイプのSUVっていうんでしょうか。
セダンとはまた違い、車高が高くお気に入りです。


フロントまわりです。いい顔に見えます。


リアまわりです。こちらもいいデザインだと思います。


グレードはハイブリッド車中間モデルで、2.0i-Lです。
全幅は、1780mm、これなら大抵の立体駐車場はギリギリ入りそうです。
チェイサーは、1755mmで入るので、多分大丈夫でしょう。
これ以上の車幅になると、今借りているマンションの駐車場は問題ないのですが、実家に帰ったときに入らず、狭い道にも行きずらいのでこのあたりが限界かなという気がします。


これで車両重量が1510㎏というから、驚きです。チェイサーとほとんど変わりません。
電気モーターが、フィットなみという小型軽量化されているのが奏功しているのかもしれません。


インテリアです。シンプルかもしれませんが、必要最低限の装備があれば問題なしでしょうか。


ブルーの2眼メーターとスタート・ストップボタンです。



ナビはディーラーオプションよりも、例えば今、サイバーナビを使用していますが、性能と価格を考えたら、市販品のほうがお値打ちかもしれませんね。


減速時のマルチファンクションディスプレイです。実際の走行時に撮ったものです。
燃費が悪いのは、このあたりの道路環境です。私の住む習志野地区は道が狭く、しかもやたら車の数が多いんです。
毎日渋滞は当たり前。ハイブリッドでこの値です。


レクサスIS ハイブリッド
レクサスIS300h F-SPORTです。こちらは、2.5Lの直4とトヨタのお家芸のハイブリッドシステムを組み合わせたセダンです。
2.5Lなのに300hというネーミングは、ガソリンエンジンと電気モーターで3.0Lに相当する出力・トルクのエンジンからこの名前が付いたそうです。
最近のトヨタ系大型セダンの共通はこのグリルですね。以前の日本車ではなかった処理です。


インテリアです。高級スポーツセダンという特色がよくでています。


ブラックは、IS250という既存のV6ガソリンエンジン車です。6発のフィーリングを感じたいなら、多少燃費は落ちますが、こちらのほうです。
ちなみに、IS300hの燃費ですが、市街地で17㎞/Lくらいだそうです。レギュラーガソリン仕様なので、IS250とは比べるべくもありません。


F-SPORTのリアまわりです。それ以外のグレードはマフラーが隠されており全然見えなくしてありますが、こちらはスポーツセダンらしく、左右2本出しです。スポーツセダン好きをくすぐる演出ですね。


2台の異なったタイプの新型ハイブリッド車を試乗しました。将来購入するかどうかは別として、なんせハイブリッド車のことは何もわかりません。
例えば、あるカー雑誌では、XVのガソリン車とハイブリッド車の同グレードの購入価格を差し引いたら、ハイブリッド車は11万㎞走ってようやくガソリン車の購入価格と同じになるとか、蓄電池は10万㎞を目処に、買換え費用に約20万円がかかるとか、いろいろ一長一短を耳にします。
完璧な車なんてないものですが、いろいろ時間をかけて最適なマイカーをチョイスしたいと考えています。
Posted at 2013/07/01 01:00:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2013年06月02日 イイね!

福島白河・二本松紀行 <白河関跡、白河小峰城、白河口の戦い/稲荷山古戦場跡、二本松城>

福島白河・二本松紀行 <白河関跡、白河小峰城、白河口の戦い/稲荷山古戦場跡、二本松城>梅雨の合間の一日、福島県白河市と二本松市に行ってきました。今からおよそ150年前に起った戊辰戦争の跡地をブログにしてみました。








白河関跡
「白河の関」とは関東からみた東北の玄関口にあたる場所で、奈良時代から平安時代にかけて実際に機能した関所がありました。12世紀後半、源頼朝が弟・義経を匿う奥州藤原氏を討つため、梶原景時に歌を詠むように命じると、景時は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだように、この時点で関所はすでに消滅していたといわれています。
ところが、時代が変わり寛政18年(1800)、ときの白河藩主・松平定信は文献による検証を行い、その結果、白河神社があるこの場所を「白河の関跡」と断定したそうです。
現在は「白河の関跡」として、国の史跡に指定されています。
ちなみに、現代も福島県警の検問所がこのあたりに設けられているそうです。


白河小峰城
白河の関跡からおよそ10km北に進んだ白河市街にある白河小峰城です。立派な石垣があるお城ですが、一昨年の震災で石垣等が崩落し、今は立ち入り禁止になっています。


丹羽長重
織田信長の重臣で丹羽長秀の嫡男・丹羽長重は、父・長秀が天正13年(1585)に没すると越前・加賀・若狭123万石を相続しましたが、秀吉と敵対した佐々成政討伐の際、家臣に成政に内応した者がいるという疑いをかけられたことを手始めに、秀吉にその領地のほとんどを没収されてしまいました。
更に、関ヶ原の戦いでは家康に味方をした前田利長と対立し、家康から改易処分を受けました。
ところが、家康から1万石を与えられて大名に復帰すると、大坂の陣で武功をあげたため加増され、最終的に寛永4年(1627)10万700石で初代白河藩主となり、白河城を築きました。57歳のときでした。


戊辰戦争
慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦いを緒戦とし、旧幕府軍とそれを支持する会津藩、新選組、桑名藩らと、倒幕を掲げた薩摩藩、長州藩ら新政府軍との内戦が勃発しました。戦いは旧式武器が中心の旧幕府方の連戦連敗で、徳川慶喜は徳川宗家存続のため、新政府軍に恭順の態度をとりました。
4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されましたが、これに納得しない会津藩らはあくまで戦う姿勢を通しました。
上野戦争に勝利した新政府軍は、桑名城を焼払い、朝敵となった会津藩に対し、白河に向け進軍を開始しました。


白河口の戦い
会津に帰国した松平容保は、新政府軍の攻撃に備え、北日本の諸藩、仙台藩、米沢藩、庄内藩、長岡藩らと奥羽越列藩同盟を結成し、これを迎え撃つ体制をとりました。
慶応4年(1868)閏4月20日、藩主不在で空き城となっていた白河城へ会津兵が侵攻し、これを占領すると、容保は白河口総督として家老・西郷頼母と、副総督として横山主税を白河城に入れました。
一方、新政府軍は29日、白河に着陣、5月1日に白河城の攻略にかかりました。

稲荷山古戦場跡
白河小峰城から南へ2㎞ほど離れた稲荷山は、奥州街道から白河城下に入る関門で、白河口の戦いでは、旧幕府軍が最も重要視した陣地でした。ここを落とすわけにはいかないと、会津藩や新選組の山口二郎(斎藤一)などが守備にあたっていましたが、薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩に三方向から攻められて、わずか一日で陥落しました。
ここでの戦死者は、横山主税ら700人にも上るといわれています。


稲荷山山頂にある西郷頼母の歌碑です。この歌碑はこのような歌が詠まれています。

うらやまし 角をかくしつ 又のへつ
   心のままに 身をもかくしつ

頼母は、敵からは「朝敵の将」と見られ、会津の人からは、白河口の戦いで惨敗した「無能者」、藩論に逆らって恭順を主張した「腰抜け」、敗戦の責任を負って切腹しなかった「臆病者」などと酷評されています。
妻や娘たちが籠城戦の際に揃って自刃したこと、人望のあった萱野権兵衛が頼母の代わりに戦争責任者として切腹したことは、頼母の意志とは関係のないところでの出来事でしたが、生き永らえた頼母に対する世間の目をより厳しいものにしました。



頼母は、その苦しい心情を「身を隠すことのできるかたつむりが羨ましい」と吐露していました。碑の脇にあったかたつむりです。


山頂から見える小丸山です。新政府軍が布陣した場所です。


山麓にある会津藩士、長州藩士、大垣藩士らの慰霊碑です。


会津藩士・田辺軍次の墓です。この人物だけ、単独の墓です。
白河口の戦いの際、白川領の入口にあたる白坂村の庄屋・大平八郎が、新政府軍の道案内をし、新政府軍の劇的な勝利に貢献しました。八郎はこの功により、1万石の庄屋に出世します。
八郎の行いを恨んだ旧会津藩士の田辺軍次は、遺恨を晴らすために、戊辰戦争後の明治3年(1870)、移封先の斗南から1ヶ月かけて白坂村にやってきて、八郎を討ち果たし、自らも切腹して果てました。21歳でした。


稲荷山古戦場跡(稲荷山公園)から、円明寺橋方面に来てみました。
白河市内には東西に流れる河川が二つありますが、その内の南側を流れる谷津田川に架かる円明寺橋です。この橋の上で、稲荷山で捕虜となった藩士たちは、次々に斬首され、首も胴体もこの川に投げ捨てられました。
150年前の出来事とはいえ、白河口の戦いがいかに激しい内戦だったかわかると思います。


川は「血染めの川」と呼ばれたそうです。橋のたもとには、処刑された藩士たちの霊を祀う「南無阿弥陀仏」の石塔が建てられていました。


二本松城
白河小峰城から北へおよそ60km、二本松市にある二本松城です。現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門があります。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築されました。


箕輪門前にある少年隊の像です。会津藩の少年兵、白虎隊や中野竹子の娘子軍は知っていましたが、二本松藩にはこの少年隊がありました。老若男女を問わず、あらゆる人たちが戦場に駆り出されました。二本松の戦いも白河の戦いの例にもれず、激しい戦いでした。


箕輪門を通って、山頂の本丸に行ってみました。


本丸跡です。


梅雨時、束の間の晴れ間、来てよかったと実感しました。


日帰りで福島県白河市と二本松市の戊辰戦争関連の史跡を見てきました。大河ドラマ八重の桜は、まもなく会津戦争に入りますが、白河の戦いがどのようにオンエアされるか(されないかもしれませんが)楽しみです。

Posted at 2013/06/02 00:00:00 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年05月18日 イイね!

新選組の故郷 武蔵多摩紀行 <土方歳三生家、日野宿本陣、井上源三郎資料館、近藤勇生家跡、流山本陣跡、板橋宿本陣跡>

新選組の故郷 武蔵多摩紀行 <土方歳三生家、日野宿本陣、井上源三郎資料館、近藤勇生家跡、流山本陣跡、板橋宿本陣跡>五月晴れの日、新選組ゆかりの地、東京都日野市に行ってきました。土方歳三と近藤勇の足跡をとりあげてみました。









土方歳三生家/資料館
新選組土方歳三は、天保6年(1835)に武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)で生まれました。当時の生家は多摩川の洪水で流されてしまい、移築した家が現在の土方歳三資料館になります。
歳三の兄弟の末裔にあたる土方さんの個人宅を改装した資料館です。


早速、入場料を払って中に入ってみました。


館内は写真撮影がNGなので、入口でもらったパンフレットです。小さな館内ですが、歳三が幕末当時見につけていた展示品を多く見ることができます。


歳三の愛刀“和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)”です。局長・近藤勇の虎徹(こてつ)と、和泉守兼定は新選組のTVや映画では必ずとりあげられる名刀です。


鎖帷子(くさりかたびら)と鉢金(はちがね)です。鉢金は文久3年(1863)、京都御所で起きた八・一八の政変、翌年の池田屋事件で歳三が頭を守るため身につけていたものです。表面には数箇所刀傷が残っているようです。
義兄・佐藤彦五郎に送ったものが保管されています。


歳三が幼年期を過ごし、新選組に入隊以来、平成2年(1990)まで残されていた当時の土方家です。
平成2年(1990)まで、江戸時代の家が残っていたこと自体凄いことです。


ちょうど一週間前は入場制限するほど、多くのひとが訪れたようです。この日は入場制限はありませんでしたが、昼12時の開館とともに次から次へと人が入ってきました。改装前にも訪れて驚いたのは、20代、30代の若い女性が非常に多かったことでしたが、今回もその例にもれることはありませんでした。


館長土方さんの話では、当時男子の平均身長が1m58cm、近藤勇が1m57cmに対して、土方歳三は1m67cmと当時としては大柄な体格であったようです。端正なマスクとカッコよさが女性のハートをくすぐるのでしょうね。書籍やグッズももちろん販売しています。
大河ドラマの俳優や、私も愛読した歴史小説家・司馬遼太郎さんも、ここを訪れたことがあるそうです。


私は結局、このおばさんに押し切られ、ひとつ360円もする饅頭を1セット(4個)も買わされました。


日野宿本陣
江戸時代、日野市は甲州街道の宿場町で、幕末当時は名主・佐藤彦五郎がここで天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場を開いていました。佐藤彦五郎は、日野宿の名主の生まれで、歳三の姉を娶っていました。歳三はその縁で彦五郎の道場に通っていました。彦五郎に天然理心流の剣術を指導していたのが、近藤勇でした。
後に新選組の主要メンバーとなった沖田総司、井上源三郎、山南敬助らはここで出会いました。
歳三が新選組結成後、資金面のバックアップをしていたのが佐藤彦五郎でした。


井上源三郎資料館
日野宿本陣近くに、井上源三郎のやはり末裔の方が自宅で公開している資料館もありました。
井上源三郎は日野宿本陣の道場で知り合った土方や近藤らとともに新選組の主要メンバーでしたが、慶応4年(1868)1月に起った鳥羽・伏見の戦いで戦死しました。


高幡不動尊前の売店です。日野市では歳三の命日にちなんで毎年5月に、ひの新選組まつりが催されています。


近藤勇生家跡
近藤勇は、天保5年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の豪農・宮川家で生まれました。
その後、近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門し、周助の養子となって試衛館を継ぎました。
当時、宮川家の屋敷は、人見街道と小金井に通じる辻にあり、面積約7,000平方メートル、建物は母屋165平方メートルのほか蔵屋敷など数棟、木々や竹が茂っていたといわれています。
昭和18年(1943)の戦時中に調布飛行場に隣接しているため取り壊され、現在は屋敷の東南隅に勇が産湯に使った井戸が残るのみですが、生家跡が市史跡として保存されています。


勝海舟と新選組
池田屋事件をきっかけに京都の治安部隊として会津藩に正式に認められた新選組でしたが、慶応3年(1867)に大政奉還、王政復古の大号令が発せられ、翌年薩摩・長州の策略で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、井上源三郎ら多くの隊士を失った土方、近藤は津・藤堂藩や淀藩の寝返りで窮地に陥りました。
すでに幕臣となっていた2人は、江戸に戻ると、勝海舟から「甲府百万石を呉れてやるから力づくで獲ってこい」と命じられ、甲陽鎮撫隊を結成し、勝に命じられるまま甲州勝沼に進軍しましたが、新政府軍の武力の前に敗退しました。
新選組はすでに旧幕府の重荷になっており、勝の命令は彼らの存在自体を完全に否定するものでした。
勝は新政府軍に恭順する考えで、これ以上の武力衝突は無駄であるということを土方と近藤には一切言わず、むしろ彼らを無用の集団と結論づけていました。


土方・近藤離別の地、新選組流山本陣跡
甲州・勝沼の戦いで惨敗した土方・近藤らは下総国流山(現在の千葉県流山市)の桑名藩と懇意の醸造家長岡屋を本陣として宿営していました。ところが、4月3日この情報を得た新政府軍に包囲されてしまったのです。
近藤は土方の反対を押し切り出頭しますが、これが2人の最後の別れとなってしまいました。


板橋宿本陣跡
板橋宿は中山道のひとつで、江戸から数えた最初の宿場町でした。江戸総攻撃を控えた東山道軍は飯島邸を総督府として宿営していました。流山で投降した近藤は、大久保大和と名乗り、自分は新選組とは一切関係がないとしらを通しましたが、大久保大和が近藤勇であると知る者が総督府内にいることが判明したため、総督府が置かれたここ板橋宿まで連行されてきました。
この総督府で面会したのが、元新選組隊士の加納鷲雄という人物でした。加納は近藤らと袂を分け、近藤の指示で暗殺した伊東甲子太郎の一味でした。近藤は観念し、武士らしく切腹を申し出ましたが、坂本龍馬暗殺が近藤ら新選組の仕業と断定した土佐藩士・谷干城の意向が通り、斬首刑が下されました。


飯田不動産あたりが、飯島邸総督府があったところです。


近藤勇の最期
慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で新政府軍により処刑されました。その後、首級は京都へ送られ、胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に、隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉新八が発起人となり、旧幕府御典医であった松本良順の協力を得て造立されました。


土方歳三の最期
近藤らと袂を分けた土方歳三は、宇都宮、会津、仙台から北の大地箱館へと向いました。
五稜郭に榎本武揚らと蝦夷共和国を設立しましたが、明治2年(1869)4月新政府軍が蝦夷地に上陸すると、戦況は悪化。5月11日、歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執りましたが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していました。遺骸は箱館のどこかに埋葬されたはずですが、場所は特定できていないそうです。

この歳三の写真は、箱館戦争の最中、仏式軍服で洋装したものを撮ったものです。またこのとき、歳三は小姓・市村鉄之助にこの写真を持たせ、単身箱館から脱出するよう命じました。
小姓・市村鉄之助が、新政府軍の目を凌ぎ、命からがら日野宿の佐藤彦五郎に届けたものでした。


永倉新八
永倉新八は新選組隊士の中では最も長寿の人物で、戊辰戦争後は小樽に移り住みました。維新後の永倉は、『浪士文久報国記事』を記し、小樽新聞の記者に取材協力した『新選組顛末記』を残しました。これによって、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定観念を突き崩し、新選組再考の契機となったのでした。
明治27年(1894)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、「お気持ちだけ」と断られました。これに対し「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と笑ったというエピソードが残っています。

晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通いました。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語っていたといわれています。
大正4年(1915)に小樽で亡くなりましたが、遺骨は板橋の近藤勇の袂に埋葬されました。


新選組は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』、『新選組血風録』を題材にしたTV番組等でしばしば紹介されています。
幕末の大きな歴史の流れの中に徐々に取り残されていく新選組ですが、最後まで旧幕府軍として戦った彼らの歴史がもし消えうせていたら、後世の私たちからみて、幕末史はつまらないものに終っていたかもしれないと思うと、土方や近藤らの奮闘は幕末史を語るうえで大きな貢献をしたといえると思います。
最後に、土方歳三の人気ぶりには相変わらず驚きました。
Posted at 2013/05/18 22:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年05月05日 イイね!

加賀百万石紀行 <金沢城・兼六園、前田家野田山墓地、松井秀喜ベースボールミュージアム>

加賀百万石紀行 <金沢城・兼六園、前田家野田山墓地、松井秀喜ベースボールミュージアム>GW後半、金沢市を訪れてみました。その一日をブログにしてみました。









金沢城
16世紀半ば、この土地は加賀一向一揆の拠点で、浄土真宗の寺院・尾山御坊がありましたが、織田信長が一向一揆を攻め落とすと、佐久間盛政を配置しました。
ところが、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方した佐久間盛政が羽柴秀吉に敗れると、秀吉は能登・七尾城主、前田利家に金沢城を与えたことが始まりでした。
前田利家は尾山城と改名し、摂津高槻城主でキリシタン大名・高山右近に命じ、城の大改修を行わせました。二代・前田利長の時代に再び金沢城と改名し、現在に至っています。
三の丸広場の五十間長屋(ごじっけんながや)です。


菱櫓(ひしやぐら)です。


橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)です。


重要文化財・石川門です。


石川門と兼六園の間は現在は道路になっていますが、かつては百間堀(ひゃっけんぼり)という堀でした。市役所のある広坂方面です。


反対側、兼六園下です。


石川橋を渡って兼六園に行ってみました。


兼六園
兼六園は、五代・前田綱紀によって造営されたのが始まりでした。岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園とともに日本三名園といわれています。
東京都内の大名庭園・小石川後楽園や六義園にも行ったことがありますが、兼六園もかなり大きな庭園です。


唐崎松といい、何故か霞ヶ池の水面に沿っって真横に成長した松の木です。


現存する大名庭園は東京都内に幾つかありますが、地方となるとほとんど残っていないというのが現実ではないでしょうか。もし、来れれば雪景色の兼六園も一度、見てみたいものです。


ちょうどランチタイム、兼六園下の寿司店に行ってみることにしました。


“百万石”という上にぎりです。富山湾で豊富な白エビ、ホタルイカなど全10貫です。店員のひとがひとつひとつ説明してくれるという念の入れようでした。ちなみに白エビは醤油をつけずに食べるのだそうです。


どれもネタが新鮮で美味でした。


前田家野田山墓地
金沢城・兼六園から車で5kmほどにある野田山です。山頂付近に加賀藩前田家の墓地があるので行ってみることにしました。


豪姫
前田利家と、正室まつには2男9女がいました。そこでまつは、懇意にしていた秀吉とおね(ねね)に子供がいなかったため、四女・豪姫を秀吉の養女にさせました。
その後、豪姫は父・利家とともに五大老に抜擢された岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎましたが、関ヶ原の戦いで西軍につき敗れた秀家は息子とともに八丈島に流刑の身となってしまいました。
実家の加賀に戻った豪姫でしたが、八丈島で暮らす秀家らのために米などを仕送りし続けたといわれています。


まつ(芳春院)
まつは、永禄元年(1558)に12歳で尾張・荒子城主の前田利家に嫁ぎました。当時から秀吉やおね(ねね)らと懇意にしていたまつは四女・豪姫を秀吉の養女に、三女を側室に差し出す力の入れようでした。
その甲斐あって、慶長3年(1598)、京都伏見の醍醐の花見では淀殿らと列席したまつは、秀吉の盃を取り争った淀殿と松の丸殿の喧嘩をとり収めたという逸話が残っています。
ところが、同年秀吉、翌年利家が相次いで亡くなり、徳川家康から息子・利長に謀反の疑いをかけられると、前田家存続のため、まつは江戸城に人質として入城しました。


珠姫
珠姫は慶長4年(1599)、徳川秀忠と江の次女として京都伏見で生まれましたが、わずか3歳で加賀前田家に嫁がされました。徳川家康に謀反の疑いをかけられた前田利長は、母・まつを人質として差し出すと同時に、珠姫との縁組により前田家の存続を計りました。
しかし、わずか24歳で早世してしまいました。死因は乳母のいじめによる心因といわれています。姉に豊臣家に嫁いだ千姫、弟に徳川家光という間柄でした。


松井秀喜ベースボールミュージアム
北陸自動車道小松IC近くにある松井秀喜ベースボールミュージアムです。長嶋読売巨人軍終身名誉監督とともに、国民栄誉賞を受賞した松井氏の実家能美市にある記念館です。


生まれて間もない松井氏です。無茶苦茶デカイ顔です。抱いているのはもちろん、お母さんです。


私が初めてナマで松井選手を見たのが、星稜高3年の夏の県大会準々決勝でした。
その試合で小松商業の投手から満塁ホームラン、コールド勝ちでした。その年の甲子園で5連続敬遠というのを覚えています。
巨人に入団するも、開幕は二軍暮らし、1年目は後半出てきましたが、もうひとつの印象でした。しかし、その後の活躍はいうまでもありません。
恩師、長嶋氏とのダブル受賞、元松井ファンとして喜びもひとしおです。


GWは実家に帰省し、何十年ぶりかに金沢に行ってきました。金沢城や兼六園も懐かしさを感じる名所でした。時間があれば温泉や能登地方にも足を延ばしたかったのですが、それはまたの機会にしたいと思います。
Posted at 2013/05/05 03:00:08 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年04月08日 イイね!

京都の桜 <仁和寺、醍醐寺、豊臣秀吉醍醐の花見跡>

京都の桜 <仁和寺、醍醐寺、豊臣秀吉醍醐の花見跡>4月7日に京都の寺院で世界遺産に登録されている「仁和寺」と「醍醐寺」に行ってきました。
桜の名所でも有名なこの古寺をブログにしてみました。








仁和寺
仁和寺(にんなじ)の歴史は仁和2年(886)に、第58代光孝天皇によって建立が発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
その後、代々皇室出身者が門跡(住職)を務めました。
慶応3年(1867)、宮門跡の歴史にピリオドが打たれ、昭和になると真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。


この日はあいにくのお天気でしたが、翌日には千葉に戻らなければならないため、雨のなか傘をさしつつ境内に入りました。
今回は仁和寺の名勝「御室桜(おむろざくら)」を見たさに訪れました。


御室桜
五分咲きの御室桜です。人気のソメイヨシノと異なり、樹高が低く白花です。例年満開がソメイヨシノに比べると遅いのですが、今回はスケジュールの関係でやむをえず。側で見ると、桜というより梅にも見える品種です。


記念写真を撮ろうと、人だかりができていた「八重紅枝垂(やえべにしだれ)」です。


「関山(カンザン)」というこれも桜の品種です。


仁和寺の御室桜は、日本さくら名所百選に選定されており、来週末くらいが見ごろかもわかりません。


醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、真言宗醍醐派の総本山で、貞観16年(874)に創建されました。醍醐寺の寺領は、伏見区醍醐山一帯の広大な境内をもつ寺院です。慶長3年(1598)、豊臣秀吉による「醍醐の花見」で有名な寺院です。
仁和寺同様、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。


唐門外側から見える観光の目玉、三宝院庭園です。三宝院はもちろん有料で入場ができますが、一切撮影が禁止されてできないので、通路側から見た中庭です。
扉が開けられて見えませんが、内側に開いた扉には桐の紋が入っています。醍醐の花見以来、豊臣家とは切ってもきれない関係のようです。


仁大門からは別料金です。緑一色の樹は紅葉です。秋にも来て見たいと思わせる場所です。


弁天堂といい、紅葉で有名なところです。


五重塔は醍醐天皇の菩提を弔うため、天暦5年(951)に完成したもので、観光ガイドさんによると、日本最古の五重塔とのことです。


醍醐山山麓の「下醍醐」から、別料金を払って「上醍醐」に向いました。といっても、山頂の開山堂までではなく、山腹にある「醍醐の花見跡」目当てに登ってみることにしました。ちなみに、山頂までは登りの勾配がきつく約70分はかかるそうです。


山城攻めは多少経験はありますが、果たして醍醐山となると初めて来たせいか不安になりましたが、意外や結構早めに到達しました。



豊臣秀吉“醍醐の花見跡”

慶長3年(1598)3月15日、豊臣秀吉はここで盛大な花見を催したと伝えられています。秀頼、北政所、淀殿、松の丸殿(京極龍子)、前田まつ(利家正室)ら約1300名を連れてこの醍醐山にやってきました。
宴席で正室である北政所の次に秀吉の杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、まつがその場をうまく取り収めたという話が伝わっています。
この花見で詠まれた和歌の短冊が、今も三宝院に残されているそうです。


3時過ぎに急に寒くなってきたので、下山後下醍醐にある売店でぜんざいを注文しました。
ところで、このお椀、ここにもありました。豊臣ブランドをこれだけ使用できるのは醍醐寺ならではの歴史のもつ重みでしょうか。


2月16日に父親が逝去し、四十九日法要の翌日に母親の慰労もかねて京都の寺院を訪れてみました。
仁和寺も醍醐寺も初めて訪れてみましたが、また紅葉シーズンに行ってみたいと思わせる古都京都の文化遺産でした。
Posted at 2013/04/08 01:00:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | 自然 | 日記

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何シテル?   11/05 21:54
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