7月14日と15日に山梨県甲府地方に行ってきました。甲府は16世紀には武田氏3代の政治・経済の中心として栄えた城下町でした。武田氏関連の史跡をブログにしてみました。
武田氏館跡/躑躅ヶ崎館跡
甲斐・武田氏18代当主・武田信虎が永正16年(1519)、石和からおよそ5km離れたこの地に居館を築きました。武田氏館、または躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)といわれ、周囲に家臣団屋敷が集められ、政治・経済の中枢として機能しました。
信虎は将軍・足利義晴と通じ、京都・花の御所の影響を強く受けたといわれています。同時に後詰の城として、北方の要害山に要害山城も築きました。
19代当主・晴信(信玄)は要害山城で生まれました。
武田神社
日露戦争後、当時の日本は神社に軍神を祀ることが奨励されていました。大正4年(1915)に武田信玄に従三位が贈られたことで武田神社創建の機運が高まり、大正8年(1919)に躑躅ヶ崎館跡に武田信玄を祭神とする武田神社が創建されました。
穴山信君(梅雪)屋敷跡
武田二十四将のひとり、穴山信君(梅雪)は信玄期に駿河を領国とした重臣でした。母は信虎の娘で、正室は信玄次女・見性院でした。
川中島の戦いにも参戦しましたが、信玄死後は義弟・勝頼との対立が絶えず、天正10年(1582)の武田攻め(甲州征伐)の際には、主君・勝頼を見切り、徳川家康に寝返りました。
同年5月には、家康とともに安土城に招かれ、織田信長の接待を受けましたが、翌月本能寺の変が起ると、家康と堺から伊賀越えを敢行しましたが、土民に襲われ殺害されました。
小山田信茂屋敷跡
信玄以来の重臣・小山田信茂は、天正10年(1582)に武田攻めが開始されると、主君勝頼に自らの居城・岩殿山城(山梨県大月市)に迎い入れるよう約束しましたが、これを反故にし織田方への寝返りを決行しました。勝頼一行は小山田の裏切りにより入城を拒否され、天目山の麓・田野村で自害しました。
武田氏滅亡後、織田信忠の元に息子とともに参陣しましたが、信忠から不忠者と罵られ、甲斐善光寺で息子とともに処刑されました。
要害山城跡
甲斐・武田氏19代当主、武田信玄は大永元年(1521)、ここ要害山城で生まれました。躑躅ヶ崎館から2kmほど北に進むとこの要害山があります。
信長が最も恐れた男 武田信玄
尾張・美濃を制圧した織田信長は甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江・三河・飛騨・越中を領国とした武田信玄を最も警戒していました。勇猛果敢な騎馬軍団との衝突を避けたい信長はひたすら唯一、信玄にはご機嫌取りに徹しました。
年に7回も一方的に高級な衣服や、虎や豹の毛皮などの贈り物を届けました。これに気をよくした信玄はやはり信長からの要請で、息子勝頼に信長の養女を娶らせ同盟関係を結びました。また、信玄五女・松姫と信忠との婚約が成立し、蜜月の関係を保っていました。
西上作戦
元亀2年(1571)に信長が比叡山焼き討ちを行うと、信玄は逃亡してきた法親王を保護しました。仏法の庇護者であった信玄は、元亀3年(1572)、将軍足利義昭の信長追討令の呼びかけに応じる形で甲府を進発しました。京都上洛を目指した「西上作戦」の始まりでした。これにより信長との同盟は決裂し、以降武田と織田は敵対関係に変わることになりました。
武田軍は美濃、駿河、遠江の三隊に分れ、信玄本隊は徳川家康の領地遠江から攻め入りました。三方ヶ原で家康軍を蹴散らした信玄本隊は家康の居城・浜松城を横目に三河に侵攻しました。
しかし、三河に達した信玄は吐血、甲斐への撤退を強いられることになりました。
帰国の途上、元亀4年(1573)4月12日、信玄は信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で死去しました。
遺言で、「自身の死を3年間秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」、勝頼に対しては「信勝(勝頼の息子)継承まで後見として務め、越後の上杉謙信を頼ること」、山県昌景には、「瀬田(滋賀県大津市)に武田の旗を立てよ」と言い遺したといわれています。
恵林寺
乾徳山 恵林寺(けんとくさん えりんじ)は、元徳2年(1330)に夢窓国師(むそうこくし)によって開かれ、武田信玄が菩提寺と定めた寺院です。
天正4年(1576)4月、快川国師(かいせんこくし)によって信玄の葬儀がとり行われました。
境内には信玄の墓や二十四将の墓をはじめ、江戸時代に甲府城主となった徳川綱吉の側用人・柳沢吉保夫妻の墓があります。
武田信玄の墓
四脚門
天正10年(1582)3月11日、武田氏滅亡後、織田信長によって恵林寺は全山焼き討ちに遭いましたが、慶長11年(1606)、徳川家康により再建された当時の現存赤門です。
三門
天正10年(1582)4月3日、武田の残党が恵林寺に逃げ込んだ際、快川国師は織田軍から引き渡しを求められましたが、これを拒否したため、激怒した信長は三門に快川国師ら百人の僧侶らを封じ込め、火を放ち、全員を焼き殺しました。
門に快川国師の遺喝(いげ)が掲げられいます。
安禅(あんぜん)必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず、心頭(しんとう)を滅却すれば火(か)も自(おのずか)ら涼し
石和温泉
三連休の初日、中央自動車道の大渋滞が予想されたため、早朝5時に自宅を出発しました。朝方の降雨で地面はぬかるみ、また猛烈な湿気で少々くたびれたため、午後3時に石和(いさわ)温泉のホテルにチェックインしました。
夕食の配膳です。ビールを飲み、夕食後は露天風呂に浸かり、早めに就寝しました。
新府城跡
天正3年(1575)5月21日、長篠・設楽原で織田・徳川連合軍に敗れ、山県昌景ら多くの重臣を失った勝頼は領国経営に徹し、周辺大名との同盟関係に外交政策を転換させました。織田信長にも和睦の申し出を行いましたが、これは拒否されました。
一方で織田軍の攻撃に備え、穴山信君の進言で西方15kmほどの七里岩の断崖上に新城を築城することに決めました。
天正9年(1581)、真田昌幸に命じ城普請が始まりましたが、それに伴う費用を領民をはじめ家臣団に負担させました。これが原因で多くの家臣団の反発を招くことになりました。
翌天正10年(1582)2月、信玄の娘婿で木曽福島城主・木曽義昌が織田方に寝返ると、怒った勝頼は木曽討伐に出兵しましたが、織田軍の返り討ちに遭い撤退すると、これを絶好の好機とみた織田信長は、徳川家康、北条氏政との連合軍で武田攻め(甲州征伐)を開始しました。
勝頼、天目山へ
勝頼は未完の新府城では敵の攻撃を防げないと判断し、3月一族家臣団700名を引き連れ、新府城からおよそ40km東の小山田信茂の居城・岩殿山城へ向けて出発しました。真田昌幸の岩櫃城か小山田信茂の岩殿山城か迷ったあげくの選択でした。
翌日には一行は大善寺で宿泊し、さらに20km東の岩殿山城に向かいましたが、手前で発砲され、ここでようやく小山田信茂の謀反を察知しました。
各地の武田の支城もことごとく無抵抗のまま開城し、唯一勝頼の弟で高遠城主・仁科盛信が抵抗しましたが、落城し、首を獲られました。
勝頼に付き従う従者も50人ほどまでになっていました。
勝頼は後戻りし、天目山棲雲寺を目指しました。
土屋惣蔵片手切りの碑
天目山の麓・田野村から山頂を目指しましたが、すでに滝川一益の追手が待ちうけていたため、田野村に逆戻りを強いられました。
そのとき殿軍を務めた土屋惣蔵(昌恒)が、崖道の脇に隠れ、左手で蔦につかまり、追手の敵方を右手一本で切り倒し、崖下に追い落したと伝わる場所です。
現在の天目山登山道と100年前の登山道
景徳院
天目山から下山した勝頼一行の最期の地となった現在の景徳院(旧田野寺)です。勝頼、北条夫人(北条氏康の娘)、信勝はここで自害し、首を獲られたと伝わる場所です。胴体のみここに埋められ、織田信長の首実検の後、首は京都へ送られ獄門にかけられたといわれています。
没頭地蔵(首なし地蔵)がそれを表現しています。
信松院
景徳院のある山梨県甲州市から、国道20号線(旧甲州街道)を走って、東京都八王子市の信松院(しんしょういん)に行ってみました。
武田信玄五女・松姫
松姫は永禄10年(1567)、7歳のとき、11歳だった織田信長の嫡男・信忠と婚約しました。ところが、比叡山焼き討ち後の信玄の西上作戦により婚約が破棄されてしまいました。
織田・武田両家の関係が悪化する中、松姫は一度も会っていない信忠への操を貫き通し、誰との縁談も聞き入れず年数が経ちました。
天正10年(1582)3月、信長により甲州征伐を起こされると、武田宗家は滅亡し、さらにその3ヵ月後、本能寺で信忠が亡くなるという悲報が入りました。
松姫は出家し尼僧となり、現在の八王子市に信松院を創建しました。
松姫(信松院)の墓
源氏の嫡流、甲斐・武田氏は20代目で滅びましたが、武田の遺領と遺臣は最終的に徳川家康が引き受けました。
赤で統一した勇猛果敢な騎馬軍団に対して、畏敬の念を抱いていた家康は遺臣たちの領地を安堵しました。
武田氏滅亡から18年、関ヶ原の戦いで東軍の先鋒を務め、西軍を壊滅させたのは「井伊の赤備え」、武田騎馬軍団の遺臣たちでした。
時代は変わり、信玄死後の西暦1672年、恵林寺で信玄の百回忌法要がとり行われました。驚いたことに、電話もメールももちろんない時代に全国から数百人のひとたちが集まったのだそうです。
彼らは武士をやめ、商人や職人になった者も数多くいたそうですが、皆信玄の家臣たちの末裔だったそうです。
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
信玄公御歌