会津若松市は福島県会津地方にある人口およそ13万人の城下町で、江戸時代には五街道(越後、下野、白河、米沢、二本松)が通る交通の要衝として栄えました。現在でも鶴ヶ城(若松城)をはじめ、市内に歴史上の観光名所が数多くあります。会津若松市と隣接する猪苗代町をブログにしてみました。
日本100名城/鶴ヶ城
鶴ヶ城(若松城)の起源は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で伊勢・松坂から黒川の地に入封した蒲生氏郷に始まります。中世を通して、葦名氏が支配する黒川城がありましたが、伊達政宗によって葦名氏が滅ぼされると、一旦伊達氏の領土となりましたが、秀吉の奥州仕置により黒川領は没収され、蒲生氏郷が新たに入封しました。
氏郷は黒川を「若松」、黒川城を「鶴ヶ城」と改め、七層の天守を築城しました。また、城下町の整備を行い、現在の会津若松市の基盤造りを行いました。
慶長16年(1611)に地震により天守が崩壊しましたが、寛永4年(1627)に伊予・松山から「賤ヶ岳の七本槍」のひとり、加藤嘉明が入封すると、息子・明成の代で五層の天守閣が完成したと伝えられています。
寛永20年(1643)に徳川家光の異母弟・保科正之が新たに藩主となると、保科正之の松平家がその後明治まで治めました。
しかし、9代藩主・松平容保の時代に会津戦争(戊辰戦争)の主戦場となり、会津藩は一ヶ月の籠城戦を戦いましたが降伏し、明治初年に鶴ヶ城は破却されました。
現在の天守は昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造による「復興天守」で、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
昨年3月には、天守が幕末期の赤瓦に葺き替えられ、日本で唯一の赤瓦の天守として生まれ変わりました。
茶室 麟閣
天正19年(1591)、秀吉の命で千利休が切腹すると、利休の茶道が断絶するのを惜しんだ蒲生氏郷は利休の養子・千少庵を上方から引き取り、鶴ヶ城で匿いました。少庵は麟閣を建て、利休の茶の湯を継続しました。
もし、秀吉の手によって少庵にも塁が及んでいたら、現代まで続く、表千家、裏千家、武者小路千家はなかったということになり、歴史的に非常に大きな意味がありました。
麟閣は平成2年(1990)に復元されました。
蒲生時代の石垣
ここからは石垣の違いで、江戸期に組まれた石垣のようです。
会津戊辰戦争終結の地
鶴ヶ城・北出丸から南北に一直線に通る甲賀町通りです。この辺りには会津藩士の屋敷が建ち並んでいました。
明治元年(1868)9月22日、一ヶ月の籠城戦を戦った会津藩は、降伏し白旗を掲げました。
ここ甲賀町通りで、薩長軍の軍艦・中村半次郎(のちの桐野利秋)と松平容保らとの間で、降伏の調印式が行われました。
天皇家に忠誠を尽くした会津藩が、「逆賊」の汚名を着せられての敗戦でした。
文久2年(1862)、京都守護職を幕府から命じられた容保は、周囲から「火中の栗を拾うようなもの」と反対されましたが、幕命に従わざるをえませんでした。
では何故、従わざるを得なくなったのか、それは遡ること200年前、初代会津藩主・保科正之が定めた「家訓十五か条」でした。
松平家御廟
松平家廟所は市内東山町院内の山中に広がる会津松平家のお墓です。藩祖・保科正之の嫡子正頼が亡くなった明暦3年(1657)にはじまり、2代目正経と歴代藩主の子どもや婦人が山腹に葬られ、3代目正容から9代目容保までの藩主は山頂に葬られています。
昭和62年(1987)に国の史跡に指定されています。
各藩主の墓前に建てられている石碑には、生前の生い立ちや功績が、漢文体千数百文字で刻まれています。土台は全て亀の彫刻です。亀は徳川家(松平家)の繁栄を願ったものだそうです。
会津若松市内を出て、磐梯山、猪苗代湖に向いました。最近になくお天気がよく、ドライブ日和でした。
土津神社
土津神社(はにつじんじゃ)は、磐梯山の麓にある神社で、会津藩初代藩主・保科正之の没後、延宝3年(1675)に造営されました。生前、正之は家臣に磐梯山の麓、ここ見祢山に自分の墓を造ることを言い渡しました。
会津戦争のとき、土津神社は薩長軍によって焼かれましたが、明治13年(1880)に再建されました。
保科正之
保科正之は徳川秀忠と侍女お静の間の子で、慶長16年(1611)に江戸神田で生まれました。秀忠には正室・お江がおり、側室が認められていなかったため、お江の勘気を恐れた秀忠は正之を自分の子として認知せず、生涯一度も面会をしなかったといわれています。
正之と母お静は、旧武田家家臣で徳川家康に仕えた穴山梅雪の未亡人で、武田信玄次女・見性院に預けられました。正之の存在を知ったお江は、正之の引渡しを見性院に命じましたが、見性院は応じず、2人の面倒をみました。
元和3年(1617)、正之は旧武田家家臣で信州・高遠藩3万石の保科正光の養子となりました。
ここで武田家伝来の武士の教育をされた正之は、2代藩主に就任すると、江戸城で初めて異母兄・徳川家光と面会しました。家光は異母弟を大変気に入り、出羽山形藩20万石、そして寛永20年(1643)に陸奥会津藩23万石へ加増・転封させました。
保科正之は会津に入るやすぐさま検地を取り直し、正確な石高を測らせると、次に減税を行いました。前藩主・加藤明成は「全村焼き払ってでも年貢を取り立てよ」という過激な殿様でしたが、島原の乱の教訓を生かし、年貢の軽減を実施しました。
また、飢饉に備えて備蓄米を蓄えさせ、いざ飢饉が起こった場合、農民に備蓄米を貸し出しました。返済は豊作まで返さなくてもよいという領民主義に政策を大転換しました。
これらの政策により、会津藩は江戸時代を通して人口、石高とも増加し続け、“最も安心な国”といわれる土壌をつくりました。
藩主時代のほとんどは将軍の補佐役として江戸に詰めました。徳川家光が亡くなると、その遺志を継ぎ、幼い家綱の名代として忠勤しました。
関ヶ原の戦いから家光までのおよそ50年間、お取り潰しになった大名家は150家にも及びました。牢人が市中にあふれ、幕府転覆計画、由比正雪らの事件が明るみになると、「末期養子の禁の緩和」政策をとり、世継ぎがなくお取り潰しになる大名家の減少に務めました。幕府の政治を家康・秀忠・家光時代の「武断政治」から「文治政治」に大転換させました。
明暦3年(1657)1月、本郷から火の手があがり、江戸市中が焼失した明暦の大火では、町の復興のため、幕府の御金蔵を惜しげもなく使ったといわれています。10万人の死傷者のほとんどは、防衛のため橋がなかった隅田川に飛び込み溺死したといわれていますが、このとき初めて現在の両国橋が架けられました。
明暦の大火後、保科正之の命で再建が中止された江戸城天守台
徳川家のために終生尽くすことを誓った保科正之は、会津藩主に就任すると、「家訓十五か条」を藩是と定め、歴代藩主にこれを守らせるよう書き残しました。内容は、「会津藩は、他藩がどうあろうと、将軍家に忠義をつくす藩である」と書き記したものでした。
文久2年(1862)、「火中の栗を拾うようなもの」といわれ、周囲に反対されながらも京都守護職を幕府から拝命した松平容保は、この保科正之の藩是に忠実に従いました。
しかし、皮肉なことに会津藩はこれがため、徳川幕府とともに滅びの道を歩んでしまいました。
野口英世生家
猪苗代湖畔にある野口英世生家(野口記念館)を訪れました。現存建築です。この辺りは豪雪地帯で積雪から家を守るため鉄筋製の屋根が設けられています。
ここにある併設の売店で昼食とお土産を仕入れました。
会津の名物・名産は数多くありますが、身近な食べ物としては喜多方ラーメンが有名ですね。
徳川秀忠のご落胤、保科正之は「家訓十五か条」を残しましたが、結果的にその後の会津藩を日本一不幸な藩に陥れてしまいました。しかしながら、21世紀になってこの家訓を見直す機運が会津若松市内の小学校を中心に高まりました。
「あいづっこ宣言」といいます。
1.人をいたわります
2.ありがとう ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り 年上を敬います
6.夢に向かってがんぱります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです
私たち大人から見れば、ついつい見落としがちな教訓ですが、こんなところで保科正之の家訓が見直されていることに、会津のひとたちの歴史に対する熱い思いを感じとることができました。