大河ドラマ八重の桜は舞台が京都に移りました。今回は新島家と山本家に関する史跡を訪ねてきました。
山本覚馬邸
山本覚馬は『山本覚馬建白(管見)』が京都府に認められ、現在の河原町御池下ル付近の大邸宅に住むことが許されました。この邸宅に隣接していたのが、京都府大参事・槇村正直の邸宅でした。当時の面影はありませんが、この辺りが覚馬の邸宅だったようです。
明治4年(1871)10月、上洛した八重ら山本家はここで覚馬と再会、しばらくこの覚馬邸で暮らすことになりました。
御池通りのすぐ北にあったのが、長州藩邸でした。現在はホテルオークラが建っています。また、河原町通り側には本能寺があり、三条河原町、四条河原町までは徒歩30分以内で行ける好立地でした。
女紅場
鴨川にかかる丸田町橋西詰にあった女紅場(にょこうば)跡です。無職であった八重に女紅場勤務を勧めたのは覚馬でした。女紅場というのは女学校で、八重は明治5年(1872)4月、女紅場の教師となりました。校舎は旧九条家邸で、御殿と呼ばれる大きな建物でした。
ところが明治8年(1875)11月18日、八重は女紅場を突然解雇されてしまいました。その年の9月、新島襄と覚馬が連名で京都府に提出していた「私学開業願い」と「外国人教師雇入れ許可願い」の認可が下りた矢先の出来事でした。
同志社英学校
同年10月、襄は公家の高松保実から御所の東、寺町丸太町上ルにある屋敷(後の新島邸)を仮校舎として借り受ける契約を取り交わすと、同月15日かねてより知り合いであった八重と婚約しました。
しかし、襄が雇い入れた外国人宣教師が神戸から京都にやってくると、京都の僧侶らは一斉に反発、外国人宣教師の追放を訴え、京都府大参事・槇村の元に抗議のため押し寄せました。
すでに2年前、キリスト教は解禁されていましたが、仏教色の強い京都では僧侶らの同意を得られないと判断した槇村は、八重が女紅場でしばしばキリスト教を教えていたこと、また八重が槇村のもとに何度も助成金の増額をせがみに来ていたことを理由に、襄と八重が婚約したことを知ると、その報復手段として八重を女紅場から追い出し、覚馬の京都府顧問を解きました。
さらに襄に対しては、高松保実に働きかけ、襄との仮校舎の契約を破棄するよう命じました。しかし、11月襄と槇村は、学校で聖書の授業は行わないという約束を交わすと、同月29日に無事、高松邸に同志社英学校仮校舎を開校することができました。
当時の日本は、日本人が外国人を雇用することは許されていましたが、その逆を禁じていました。
また、槇村の黒幕は、外務卿(外務大臣)の寺島宗則という人物で、寺島は同志社英学校を外国人が設立した学校とみなし、槇村に直接圧力をかけていたものでした。
同志社英学校は、実質アメリカン・ボードという外国人宣教師団体の資金による学校で、襄は設立当初から苦難に立たされることになりました。
新島八重
明治8年(1875)4月、襄は槇村と覚馬のところに参上し、覚馬から京都で学校をつくるよう勧められ、一時、河原町の覚馬邸に住んでいました。襄の結婚観は、「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と槇村に話したところ、槇村は「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬の妹で、どうだ、この娘と結婚しないか、仲人は私がしてあげよう」といわれたと、後に八重は回想しています。
明治9年(1876)正月2日、八重はキリスト教の洗礼を受け、翌3日めでたく夫婦となりました。御所近くのディヴィス邸で行われた結婚式には、覚馬、母・佐久、姪・みねが列席し、八重の結婚を祝いました。その年の10月、八重は女子塾(同志社女学校)の教師になりました。
新島旧邸
この敷地は、幕末まで幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷があり、明治初年公家・高松保実が所有していました。明治8年(1875)11月29日、新島襄はこの高松邸の半分を賃借して、生徒8名で同志社英学校を開校しました。翌年、学校は旧薩摩藩邸に移りますが、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。
これが今の新島旧邸です。
台所です。キッチンの高さは八重の背丈に合わせたものです。また、画期的なのは井戸が併設されていることです。襄の設計の気配りがうかがえます。
食堂です。八重は学生をしばしば呼んで、食事を提供していたそうです。当時食材の調達が難しかったロールキャベツやステーキを作って、ふるまっていたそうです。ただ、薩摩出身の学生にはやはり、冷遇をしていました。これを襄に咎められ、改心したという話が伝わっています。
応接間です。八重は正月になると、会津で流行っていた板カルタを学生たちとやるのですが、相当強かったそうです。百人一首を下から読み上げる独特のカルタ取りで、今では北海道の一部でしか残っていないカルタなのだそうです。
オルガンです。今でもちゃんと音がでるそうです。年二回の御所一般公開で使用されたことがあるそうです。
襄がしばしば寝そべっていたというソファです。今も残っているということ自体、新島襄と八重の存在の大きさが垣間見てとれます。
襄が使用していた書斎です。
襄の死後、八重が板間を改装してつくった茶室「寂中庵」です。女紅場時代の八重は同僚教師に、後に裏千家13代圓能斎宗室(えんのうさいそうしつ)の母がいました。明治27年(1894)、裏千家の門をたたいた八重は、圓能斎宗室から大正12年(1923)、79歳のとき「奥秘(おうひ)」を授かりました。
新島旧邸の見学は来年3月までインターネットによる予約が必要です。
徳富蘇峰
同志社英学校に在学中の若き徳富猪一郎は、八重と襄が互いに、「八重さん」「ジョー」と呼び合うことや、八重が和服に西洋式のブーツを履くその格好にただらなぬ反感をもっていました。ある日の演壇上、ふたりを目の前に学生たちが聴衆するなか、八重を鵺(ぬえ)と罵りました。
また、自責の杖事件では、中途入学者と正規入学者のクラス合併問題に腹をすえ、授業を集団欠席させる首謀者となりました。襄はすべての責任は自分にあるといって、学生たちの面前で、左手を木の杖が折れるまで叩き続けました。徳富猪一郎はこれを機会に自ら退学しました。
明治23年(1890)1月、神奈川県大磯の旅館百足屋(むかでや)で襄が危篤になった知らせを聞くと、襄の元に駆けつけ、襄に謝罪し、臨終を見とどけました。
山本みね
覚馬と前妻うらの娘・みねは、同志社女学校を卒業後、徳富蘇峰の従兄にあたる熊本藩士・横井小楠の息子・横井時雄と結婚しました。時雄は同志社英学校卒業の一期生でした。ふたりはキリスト教の洗礼を受け、各地に伝道活動を行っていました。
明治20年(1887)1月、二人めの子供を産みましたが、産後の肥立ちが悪く、早世してしまいました。墓は横井家の菩提寺、南禅寺にあるそうです。向かって右側の女性です。
山本時栄
山本覚馬の後妻・時栄は慶応年間に覚馬の知り合いであった兄の勧めで、目が不自由になった覚馬の身の回りの世話を行い、明治4年(1871)に長女を出産、河原町で生活を共にすることになりました。ところが、明治18年(1885)、山本家で「一寸むつかしいこと」が起こりました。
『徳冨蘆花 黒い眼と茶色の目』から
明治18年(1885)山本家は養子として、会津から18歳の男子を迎えた。時栄さんは35歳で、その青年
は同志社の寄宿学生で、時々山本家でも寝泊りしていた。時栄さんは私が17のときに生れた子とい
い可愛がった。
そのうち、時栄さんは病気になった。ドクトル・ペリーの診断を受けたら、思いがけなく妊娠であった。
ドクトル・ペリーはおめでとう、もう五か月です、といった。
声が山本さん(覚馬)の耳に入って、俺は覚えがない、と言い出した。
山本家は大騒ぎになった。
新島家と横井家はその処分に苦心した。
相手はすぐ養子の青年と知れた。
時栄さんは最初、養子を庇ってなかなか白状しなかった。
鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知れぬ男に犯されたといった。
その口、実が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけた。
最後に自身養子を誘惑した一切の始末を白状して、涙とともに許しを乞うた。
永年の介抱をしみじみ嬉しく思った山本さん(覚馬)は、許す心であったが、八重とみねが否応なし
に時栄を追い出してしまった。
山本久栄
明治19年(1886)2月19日に離婚が成立し時栄には、覚馬との間に久栄を残していました。久栄に送られてくる手紙は、新島家が厳重に管理していました。
明治19年(1886)9月、自責の杖事件で兄・徳富蘇峰とともに同志社英学校を退学した弟の健次郎(後の徳冨蘆花)が再入学してきました。従兄の横井時雄(みねの夫)邸に寄宿していた健次郎は、みねの異母妹・久栄に恋をします。久栄は健次郎より3歳年下の17歳、同志社女学校の学生でした。ところが、久栄には女学校で盗みをしたなど、よからぬ噂がつきまといます。
ある日健次郎は、手紙を差し出し、久栄を御所近くの寺に誘いだしました。ところが、健次郎が久栄に差し出す手紙はすべて、従兄の横井時雄らの知れるところとなっていたのです。横井家は久栄との交際を反対しますが、すでに健次郎は久栄と婚約をしていました。
しかし、横井家だけではなく、新島家からも反対され、久栄と会うことを禁止されてしまいます。やがて、学校中知れ渡ってしまった健次郎は同志社の退学を決意します。久栄に一旦別れの手紙を差し出した健次郎でしたが、一目顔を見ようと同志社女学校の門をたたきます。そこに現れたのが八重でしたが、八重は襄と久栄と4人なら新島邸で会わせてもよいと承諾します。結局、失恋をした健次郎は久栄と言葉を交わすことなく京都を去りました。
この後、健次郎は東京の雑誌社に就職し、別の女性と結婚しますが、久栄は父・覚馬が亡くなった翌年明治26年(1893)、病気を患い23歳という若さで亡くなりました。
熊野若王子神社
熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)26代宮司・伊藤快彦は山本覚馬が京都顧問をしていた関係で新島襄のことも知っていました。ある時、覚馬から同志社英学校の宣教師が亡くなり、埋葬場所に困っているという話を聞いた伊藤快彦は、当神社の社領地を墓地として新島襄に提供をしました。
さらに、明治23年(1890)、新島襄が亡くなると、葬儀前日に埋葬予定をしていた南禅寺から断られたことから、先の縁で新島家、山本家に墓地を提供しました。
同志社墓地
左京区鹿ヶ谷にある同志社墓地は、新島夫妻をはじめ、山本覚馬、久栄、戊辰戦争で亡くなった山本三郎、権八をはじめ、佐久ら同志社関係者の人たちが集められています。
新島襄と八重夫妻
山本覚馬と徳富蘇峰
山本権八、佐久、三郎
山本久栄
このブログを書くにあたって、同志社大学、女子大学の新島旧邸内の配布資料や、徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』岩波文庫、熊野若王子神社29代伊藤快忠さんの直筆資料を参考にしました。