Jan.8 京都東山 <血天井・養源院、豊国廟、高台寺>
投稿日 : 2011年01月12日
1
この日は予定通り、京都へ向かいました。
気になったのはお天気です。
ちょうど寒波がきており、日本海側は大荒れの天気。
しかし天気予報では、京都府平野部は晴れ、迷うことなく出発進行!
典型的な真冬の天気です。
太平洋側は快晴、ちょうど御殿場辺りは摂氏2~3℃と寒かったのですが、雪さえなければ大丈夫。
富士山が綺麗に見えました。
2
昼過ぎ京都に到着。
実に10年ぶりの古都、京都です。
学生時代、京都で下宿生活を送ったのでまったく知らない土地ではありません。
まず、東山の養源院に到着です。
このお寺の本堂には、「血天井」という不気味な天井があるらしく、拝観料(見学料)を払って早速中に入ってみました。
ご住職さんがガイドをしてくれます。狭い本堂なので靴を脱ぐとすぐ「血天井」の廊下です。
関ヶ原の合戦前、石田三成が大坂で挙兵し、徳川家康の家臣鳥居元忠らがろう城する伏見城を囲みました。
逃げ道を失った鳥居元忠ら武将たちは、伏見城の床で皆自刃して果てたのです。
床は武将たちの血で真っ赤に染まり、死骸とともに数ヶ月間放置されました。
そのときの伏見城の床を、天井にはめ込んだものです。
(この血天井画像は「おすすめスポット養源院」のなかでリンクしています。)
また、仏壇には(非常に見ずらいのですが)、おそらく日本にふたつとない位牌があります。
養源院の再建者崇源院と夫の2代将軍徳川秀忠の位牌で、「菊」「葵」「桐」の3つの紋が刻まれています。
「菊」は天皇家、「葵」は徳川家、「桐」は豊臣家の家紋です。
3つの家紋が並ぶ位牌には、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った、東福門院(崇源院の娘和子・後水尾天皇の妻)の切なる気持ちが現れているものといわれています。
最後に、養源院は豊臣家の側室となった淀殿(茶々)と、徳川家の正室となり、3代将軍徳川家光の母となった崇源院(お江)の父、浅井長政の院号です。
3
養源院の近く、方広寺の鐘です。
もしかすると、歴史的にもっとも有名な鐘かもしれません。
見ずらいのですが、鐘の左上の白い部分です。
「国家安康」、「君臣豊楽」と彫ってあります。
慶長19年(1614年)この銘文に徳川家康がクレームをつけ、大坂冬の陣を起こしました。
翌年、大坂城は落城、豊臣家は滅亡しました。
方広寺敷地内には、豊臣秀頼が建てた大仏殿跡と明治期に再建された太閤秀吉を祀る豊国神社があります。
4
東山七条から東にまっすぐ伸びた道・豊国廟参道を進むと、右手に京都女子大があり、その先の阿弥陀ヶ峰山頂には太閤秀吉の墓所・豊国廟があります。
この機会に山頂まで登ることにしました。
京都女子大を過ぎると山の中腹に駐車場があります。
珍しく無料の駐車場です。
大型バス数台と、乗用車が数台停めてありますが、ひとがだれもいません。
社務所で参拝料50円を払い、さあ出発です。
この石段を登った頂上に、目指す豊国廟があります。
ちなみに豊国と書いて、地元のひとたちは「ほうこく」と発音します。
太閤秀吉を、「ほうこくさん」と呼ぶそうです。
5
全部で563段の石段を登ると、ありました。
これが豊国廟です。
それにしても殺風景な場所です。
阿弥陀ヶ峰の頂上ですが、雑木林で何も景色がみえません。
墓石には確かに豊臣家・桐の紋が彫ってあります。
慶長3年(1598年)太閤秀吉が亡くなると、遺言どおりに、ここ阿弥陀ヶ峰に遺体は葬られました。
しかし、慶長20年(1615年)豊臣家が滅亡すると、徳川家康は豊国廟をはじめ、山中から麓の豊国神社まですべてを取り壊してしまいます。
家康は後陽成天皇から太閤秀吉に下賜された豊国大明神の神号も取り消し、この辺り一帯は朽ちるまま放置されました。
それから253年後の明治元年(1868年)明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告しました。
明治13年(1880年)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、明治31年(1898年)旧家臣であった黒田家や蜂須賀家のひとたちによって、豊国廟が修築されました。
最後に、この豊国廟ですがあまりひと気がありません。
最大の理由はこの石段です。
はっきり言って、心臓破りの石段です。
ここへ行かれる方は、心して行くのがいいと思います。
6
太閤秀吉とくれば、次は正室ねねが眠る高台寺に向かうことにしました。
高台寺の前を南北に通る、ねねの道です。
ここは先ほどの阿弥陀ヶ峰と違い大勢の観光客で賑わっていました。
古都・京都の情緒を満喫でき、とくに女性に人気があるスポットのようです。
7
高台寺の方丈にある枯山水の庭です。
京都のお寺は、枯山水の石庭がごく普通にあります。
秋には開山堂の庭に綺麗なモミジが咲きほこります。
霊屋(おたまや)には秀吉と北政所ねねの木造が安置されており、その木造の下に、「ねねさん」の遺体が土葬されています。
場所場所で女性のガイドさんが丁寧に説明してくれます。
ガイドさんは、皆「ねねさん」と呼称していたのが印象的でした。
8
高台寺を出て西側に圓徳院(えんとくいん)があります。
大坂城を出て京都に移り住んだねねさんは、慶長10年(1605年)秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築し、建立したものです。
ねねさんは寛永元年(1624年)9月6日に亡くなるまで、19年間ここで余生を送りました。
タグ
関連リンク
[PR]Yahoo!オークション
[PR]Yahoo!ショッピング