まだまだ続きます。
荀子に非相の篇が有つて、相貌と運命との關せざることを説いて居るのは二千餘年の昔である。論衡に命虚(めいきよ)の論があつて、生れた年月と運命との相關せざることを言つて居るのは漢の時である。よしや其等の論議が眞を得て居ないで、相貌は實に運命に關し、生年月日は實に運命に關するにしたところで、彼の因襲的從順的な支那人の間にさへ、然樣(さう)いふところの、運命の前定といふが如き思想に屈服せぬ思想を抱いたものが、遠い古から存したことを思ふと、甚だ頼もしい氣がすると同時に、それだのに今の人にして猶且運命前定論に屈伏するが如き情無い思想を抱いて居るものも有るかと思つては、歎息せざるを得ない譯なのである。
實に荀子の言つた通り、相貌は肖て心志は肖ざるものもあり、王充の言つた通り、同時に埋殺された趙の降卒何十萬が、皆同じ生年月を有した譯でも無からうが、其等の事は姑らく論外として置いて、兎に角運命前定論などには屈伏し難いのが、人の本然の感情であるといふことは爭はれない。吾人は或は運命に支配されて居るもので有らう、併し運命に支配さるゝよりは運命を支配したいといふのが吾人の欺かざる欲望であり感情である。然らば則ち何を顧みて自ら卑うし自ら小にせんやである。直に進んで自ら運命を造る可きのみである。是の如き氣象を英雄的氣象といひ、是の如きの氣象を有して、終にこれを事實になし得るものを英雄といふのである。
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2012/01/18 18:51:12