扨既に運命といふものが有つて、冥々に流行するといふ以上は、運命流行の原則を知つて、そして好運を招致し、否運を拒斥したいと云ふのは、誰しもの抱くべき思念である。そこで此の至當な欲望に乘じて、推命者だの、觀相者だの、卜筮者だのが起つて、神祕的の言説を弄するのであるが、神祕的のことは姑らく擱いて論ずまい。吾人は飽までも理智の燭を執つて、冥々を照らす可きである。こゝに於て理智は吾人に何を教へるで有らう。
理智は吾人に教へて曰く、運命流行の原則は、運命其物のみ之を知る。たゞ運命と人力との關係に至つては我能く之を知ると。
運命とは何である。時計の針の進行が即ち運命である。一時の次に二時が來り、二時の次に三時が來り、四時五時六時となり、七時八時九時十時となり、是の如くにして一日去り、一日來り、一月去り、一月來り、春去り、夏來り、秋去り、冬來り、年去り、年來り、人生れ、人死し、地球成り、地球壞れる、其が即ち運命である。世界や國家や團體や個人に取つての好運否運といふが如きは、實は運命の一小斷片であつて、そしてそれに對して人間の私の評價を附したるに過ぎぬのである。併し既に好運と目すべきものを見、否運と目すべきものあるを覺ゆる以上は、其の好運を招き致し、否運を拒斥したいのは當然の欲望である。で、若し運命を牽き動かす可き線條があるならば、人力を以て其の幸運を牽き來り招き致しさへすれば宜いのである。即ち人力と好運とを結び付けたいので、人力と否運とを結び付けたくないのである。それが萬人の欺かざる欲望である。