明けて7日は、待ちに待った「ベスモ同窓会」です。
本題に入る前に、ここでちょっと昔話を……。私の出自は、87年に創刊された『スピードマインド』という雑誌のアルバイトまでさかのぼります。
私がアルバイトとしてはじめて関わった『スピードマインドNo.4』です。まだ雑誌コードがなく『オートテクニック9月増刊』となっていました。
その特集1が「モータースポーツへの招待状」です。参加型モータースポーツが一気に盛り上がろうとしていた時期で、こういう企画が成り立つということ自体に時代の空気を感じます。
当時はJAFライセンス人口がドンドン増えていた時代で、専門誌はもちろん、一般誌でさえライセンス取得の記事が掲載されていました。
この企画はJAFライセンスの取得方法と全国各地のサーキットの概要などがメインとなっています。私も編集部員見習いとして、緊張しつつサーキットに電話し、ファクスで情報を集めた記憶があります。その中に、今回ベスモ同窓会の会場となった中山サーキットもありました。
当時のコース図とともに、中山サーキットの特徴、レースカレンダーも掲載されています。
昔むかし? からレース雑誌を読んでいた身としては、中山サーキットの存在自体は、編集部に入る前から知っていましたが、ベスモ同窓会もはじめてなら中山サーキットに足を踏み入れるのもはじめて。同窓会に参加する方との対面を半ば楽しみに、半ば緊張してその日を迎えました。
はじめて目にする中山のロケーションは、まさにクルマ好きにとっての「まほろば(素晴らしき場所)」にふさわしい佇まいだと感じました。
さて、当日の朝、西大寺グランドホテルからとにとにさんのプレマシーに乗せていただき、中山サーキットに到着。そこでみんカラ上でのお付き合いだったMDiさんご一家、4様。さんなどとご挨拶。もっといろいろな方々とじっくり話をしたかったのですが、私はオフィシャルカメラマン? としてばたばたとしていたこともありご容赦ください。
ピースサインのMDiさんと愛車のビートですが、写真がちょっと切れてしまいました……。
たくさんスナップを撮りましたが、所詮素人カメラマンです。4様。の姿も入っていますね。
10時きっかりにいよいよガンさんのご到着です。私はモータースポーツ誌で編集をしていたものの、ダートラ担当という地味? な立ち位置だったので、これまでご縁がありませんでした。また余談となりますが、が、私は3歳のときにレース好きの父とその友人に連れられて第三回日本グランプリを観戦にいっています。そこで優勝したのが黒澤元治その人。どのクルマがR382だったかまではさすがに覚えていませんが、ビッグマシンが富士スピードウェイのストレートを駆け抜けていったのは鮮やかに記憶しています。
黒澤師範と大井師範代。おふたりが揃うと場も引き締まりますね。
当日は和やかさと緊張感が程よいバランスのイベントだったように感じました。走行会や練習会というよりも、まさに「同窓会」というのがふさわしいでしょう。それもこれも綿密な打ち合わせがあってのこと。 「ベスモ同窓会に初参加(その1)」で、前日の夕食後に局長に秘密の打ち合わせ(当然ですが、局長をないがしろにしたわけではありません……)をしたと書きましたが、そこでは大井さんと波田さんが中心となり、同乗走行、スポーツ走行のタイムスケジュール、参加者が期待しているガンさんとの交流、安全を考慮したオーバーテイクのルールなどが決めらていきました。
特に波田さんは、その場で決まったことを、翌日のためにスケジュールに落とし込んでいく作業とスタッフの方々との意思疎通の必要があり、本当に大変だったと思います。当日、それを思わせないところがまたカリスマ教官たる所以でしょう。運営に関わったすべての方々に感謝致します。
Hawk Yamaさんと波田教官を同窓会終了後にパチリ
私はといえば、最後にHawk Yamaさんに先導されて中山サーキットを6ラップするというご褒美もいただき、「ベスモ同窓会」新参者として感謝に堪えない一日となりました。
その後は場所をガスト備前店に移し懇親会となった模様ですが、私は局長がホテルに忘れたカメラバッグを取りに行っていたために、その様子はわかりません……。その辺のレポートは他の方にお譲りします。
自動車メディアの衰退が誰の目にも明らかな現状ですが、当日参加した方々のクルマへの情熱を目の当たりにすると、「まだ何かできるのではないか」と体感することができました。私もメディアの中の人間として、新しい方向性を目指して歩き出さなければと強く感じました。ただ、取り急ぎは私も走りたいという気持ちが先走ってはおりますが……。
Posted at 2014/04/14 21:14:29 | |
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ベスモ同窓会 | 日記