関谷学校
寛文6年(1666)、領内巡視をしていた備前藩主池田光政は和気郡木谷村の北端・延原の静かな地を訪れた。この時彼の脳裏に浮かんだのが、学問の理想郷、庶民のための一大道場の建築でした。その思いを実現すべく同8年にはこの地に手習所を設置、ついで同10年には重臣津田永忠によって本格的な工事にとりかかり、地名も閑谷と改められました。この学校建設にあたっての光政公の情熱は熱く、たとえ池田氏が移封となっても自立経営できるようにするなどの処置がとられていました。建築物の屋根瓦は備前焼が用いられていますが、そのために近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いて用意しました。
この情熱は次の綱政公にも引き継がれていきました。現在残されている諸施設は綱政公と津田永忠によって元禄の頃に完成されたもの。しかし、そのデザインや建築技術は現在においても決してその輝きを失っていません。またこの学校は領内の庶民と武士の子弟はもちろん他領の者も入学を許しており、光政公や永忠に始まる創学の精神はその後も連綿と受け継がれ、頼山陽などの学者文人がたびたび足をとどめるなど、岡山城下にある藩学校と並んで二大教育道場となっていました。明治になってもその歴史と伝統は消えず幾多の人材を世に送りだし、今日に至っています。
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