「レーシングメイト」とは、元トヨタのワークスドライバー式場壮吉、杉江博愛(徳大寺有恒)らが中心となって1965年に立ち上げたカーアクセサリー販売会社である。
同年7月、船橋サーキット(当時は関東唯一のサーキット場)で行われたCCCレースにおいて、同社がメインスポンサーとなったレーシング・エラン(浮谷東次郎)が見事優勝を飾る。
同社は1967年秋にN360用アフターパーツを発表しその名を世に浸透させることになる。
特定車種のドレスアップパーツをパッケージでそろえ、デモカーまで用意して売り出した例としては同社N360用パーツが日本初の試みであった。
しかもN360登場から約半年後という早さでのキット発売。またハーフ女性モデルを使った見開き広告をいきなりCAR GRAPHIC誌へ掲載するなど、当時のアフターパーツメーカーとしてはすべてが常識破りな存在であった。
同社N360はモディファイのセンスが頭抜けていた。
ダークグリーンに白い矢印ストライプというカラーリングは、同年ルマンに出場したジョン・サーティスの「ローラT70Mk3アストンマーチン」に倣ったもので、当時、徳大寺が現地で実物を見て感銘を受け、採用に至った、とも言われている。
同社N360デモカーのフロント部は、枠とエンブレムを残して黒一色のグリル(ブラックマスク)に仕立てられており、このパーツが一番人気となる。
いつの時代も‘まずは顔が一番’ということか。
後にホンダはツインキャブ仕様のマイナーチェンジ「N360T」を発表する際、これを模倣したグリルを採用している。
N360は発売当初、モノグレードだったが、その安価かつ高いスポーツ性能から、たちまち若者らが思い思いの改造を施し、個性的なクルマが街中を走り回るようになった。
それを察したホンダがあわてて同タイプ等を発表した、と言われている。
つまり国産メーカーは、この頃からストリート発のトレンドを無視できなくなるのである。
現在、東京オートサロン等に出展するようなアフターパーツメーカーのルーツは、この「レーシングメイト」だったといえるが、同社設立時、徳大寺がまだ20代であったことを知ると、‘時代の熱量’を感じざるをえない。
同社はカーアクセサリー販売の他、レーススポンサー、雑誌編集なども手掛けたが、70年代初頭に消滅する。
その理由には諸説あるが真相は当事者にしかわかるまい。
しかし短命が故に伝説として根強く継承される物語が他にもあるように、当時の若者たちが憧れたVANなどのアイビーブームとあいまって、日本のクルマ文化を‘所有できる個性’へと昇華させた点において「レーシングメイト」は短くも華々しい成果をあげたことだけは確かである。
かく言う自分も残念ながらリアルタイムで60年代の熱量を感じた世代の子供であり、その親も既に他界している。
最後は、半世紀を経ても‘ブラックマスクのコンプリートカー’に魅せられている者は健在である、という ‘オチ’で この長く退屈な話は終わる。
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2018/12/17 00:06:20