トーハツツインアローの思い出。
所有期間 1965ー1966
クラスメートが1964年に会社更生法を申請してバイクの生産を止めた東京発動機(株)トーハツのバイクが安く買えると誘ってきたのは高校2年の時。
東京発動機(株)は一時期は日本最大のバイクメーカーで50ccランペットの名声は僕でも知っていた。
ツインアロー:空冷2シリンダー2キャブ●123cc●12HPS/5000rpm●Max115Km バンキング角度50度●130kg●12万9000円
1年半の所有期間は壊れることもなく、自身も高校生ゆえメンテとしては愛情を持っての清掃程度しかしていない。
東京の大学に行っていなかったら長く使っていたと思う。
上京の日に父の取引先の方にもらわれていった。
父に相談するも、「バイクは危険」と固く禁止されたてまった。
そこで、小学校時代から趣味で集めていた記念切手を、切手ショップに売りに行って7万円に。
当時は郵政省の記念切手発行数が現在に比べると遥かに少なく、切手収集をしている人は多かった。
小学校を半休して、中央郵便局の大きなビルを半周する皇太子殿下ご成婚記念切手をシート買いしたことも。
思い出の多い記念切手収集だったが、メインの切手を売ってしまったので徐々に先細りとなりました。
バイク屋に現金を持って「これが全てだけど・・・」とお願いしたら「OK。」と言うので、父母に黙って即決。
本当はランペットがほしかったのだが、それはすでに在庫が無いとか・・・。
友人ともども、125ccのトーハツツインアローを購入した。
保管は近くの”自転車預かり”に保管してもらうことに。
当時は今のようなオープンスペースの駐輪場などは無く、貸主が自宅で専業として自転車等を預かっていた。
ほどなく、僕がトーハツを預けた時の領収書が学生服のポケットに入っているのを母に見つかり、父から大目玉を食らったのだが、「買ってしまったものはしょうがない。」ということに・・・。
高校はバイク通学禁止だったのだが、どこ吹く風で毎日バイク通学をすることにした。
ある時、帰ろうとしていたら、指導部の教諭が「OO、ちょっと来て手伝ってくれ。」と言うのでついて行くと、校舎裏に駐めた僕のバイクのところに。
一緒に教員室裏に移動したのだが、急いでバイクで下校。
その後は、学校敷地外に駐車したのだが、何事もなく1年が過ぎた。
当時は大都市でもバイクはノーヘルで乗ることができた。
毎日の通学は学生服に学生帽で方からバッグを下げてトーハツツインアローで通学したが、運良く転倒事故もなく過ごした。
当時はバイクに乗るときは、車が突っ込んできても交差点で逃げれるように、絶対にニュートラルにはしないのが鉄則だった。
舗装してある道路でも路肩近くは砂がかぶっている。
当時の名古屋では青信号が黄色になる前に、青の点滅があった。
黄色になる前急いでに加速してくる自動車もあって交差点では気が抜けない。
ふらふらと荷物を積んだマツダの三輪トラックが道を曲がってくるときには、注意を要する時代だった。
奈良公園にて。
クラスメートとは大学入学が決まった時に、同じツインアロー2台にもう一人のクラスメートを乗せて3人で京都・奈良へツーリングに出かけた。
さすがに名神高速道路ではヘルメット着用が義務付けられていたのだが、125ccの高速道路での2人乗りは許されていた。
小学校修学旅行以来の京都は先斗町に泊まって楽しかった。
ツインアローで嵐山でも猿を横目に見ながらグイグイと登っていく。
帰路、後もう少しで帰り着くという高速道路上で友人のツインアローがガス欠。
当時はガソリンとは別に混合オイルを燃料に入れるのだが、少し焼き付いたか?
分解してなんとか走るようになった。
原付き2種とはいえ、パワーが有って、とても乗りやすい楽しいバイクで、オープンカーに憧れる基をつくった愛車でした。
1年数ヶ月の間、浅間やマン島レースの詳細は知らなかったが、モーターサイクルの醍醐味を味わった。
カーグラ連載の「北緯40度線探検隊」には心を踊らせた。
読み直そうと調べたら、筆者は逝去していて、著書はAmazonでは5,800円!
原付き2種の運転免許は後の免許改定で自動的に大型2輪免許に更新され、大きなバイクにも乗れることになった。
43年後に台湾製 KYMCO 250ccスクーターまで乗ることはなかった。
今でも車の脇を走る大きなモーターサイクルを見ると、時として羨ましくなるのは歳になって乗れなくなったせいだろうか・・・。
KYMCOスクーターは国産スクーターが大きなボディで加速が悪い中、軽量ボディで抜群の加速をしてくれ、年甲斐もなく対バイクでもギアチェンジの間に追い越すことができる俊足車だった。
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車履歴 | 日記
Posted at
2021/04/19 13:03:50