羽生城址
投稿日 : 2008年09月15日
1
今回訪れたのは、埼玉県羽生市にある羽生城址。
羽生城は古河公方の家臣である広田直繁・木戸忠朝兄弟が、功治2年(1556)頃に築いたと伝えられている。
羽生城は、利根川沿いの低湿地に長く張り出した低い台地に築かれた「平城」である。
城の敷地は、24町歩(24㌶)もあったそうである。
2
※小田原北条氏が関東に進出すると、江戸・川越・松山など扇谷上杉氏の配下にある関東の諸城は、次々と攻略され、その後、足利晴氏の古河城が天正2年(1574)に落城したのとほぼ同時期に、羽生城も北条氏の手に落ちた。
その後、上杉謙信によって奪われ、上杉方の城として15年間機能し、謙信が関東から撤退すると、忍城城主・成田氏の持城となる。
3
現在は古城天満宮という神社になっていて、城の面影は「古城」の名と石碑くらいしかない。
※天正18年(1590)の小田原の役後、家康の臣・大久保忠隣が城主となった。羽生の城下町が整ったのは、江戸時代に入り、大久保氏が羽生に入城して以降のことであるといわれる。また大久保忠隣は幕府の要職にあり、江戸詰めが多かったことから、城の運営は旧城主・木戸忠朝の家臣に全て任せていたと言われている。
4
不気味な遊具(?)
何に使うのかさっぱり解りませんでした。
※その後、忠隣は大久保長安事件に連座し改易になってしまう。城は慶長19年(1614)に廃城になってしまう。
約400年後のこんにち、城跡と推定される古城天満宮に石碑が残るのみである。
5
看板1
※なお、城主・大久保忠隣の叔父であり『三河物語』の著者で「天下のご意見番」として有名な大久保彦左衛門は、2千石を領し羽生城内に住んでいたとも伝えられている。
6
謎の建物。
※羽生城で特筆すべきは、15年間も上杉方の最前線の城として持ちこたえたことであると思う。
天正2年(1574)、北条方に落ちた際、城主・木戸忠朝、重朝父子は戦死したが、次男元斎は上杉景勝の下で功績を上げて木戸家を再興している。
7
中に入ると奉納額が沢山。
明治時代のものだろうか・・・
劣化が激しいのも趣があって好きだけれども、
中には殆ど消えてしまっているのもあって残念。
8
江戸時代?のものだろうか・・・
※余談
徳川家の旗本になった忍者の頭領で有名な服部半蔵は、江戸で知り合った羽生・大光院の住職を尊敬していたという。
ある日半蔵は、大光院を訪れ、故郷にまつってあった守り本尊の三大尊像を納め、武運長久と子孫繁栄をお願いしたという。現在もこの守り本尊は信仰を集めているそうである。
タグ
関連コンテンツ( 歴史 の関連コンテンツ )
関連リンク
注目のオークション
[PR]Yahoo!オークション
おすすめアイテム
[PR]Yahoo!ショッピング