結婚20周年を記念して、妻そして娘と連れ立って故郷である九州へと旅立ち、長崎・熊本・大分、そして私の親兄弟が暮らす福岡を三泊四日の行程で巡る。
残念ながら、中二病の重症患者である息子は親と行動を共にしたがらず、部活が忙しいからとの理由を付け、独り、東京に残ることになった。まあ、義父母に預ってもらったので心配はなかったが。
先ず初日は羽田から長崎空港に降り立ち、レンタカーで直ぐさま九十九島へと向かい大小様々な島々を遊覧船で巡る。生憎天候は良くなかったが、碧く透き通った海と松等の常緑樹が茂り、生き生きとした美しい表情を見せる島々に妻と娘は魅せられた様で、スマホのシャッターを切り続けた。
小一時間ほどで島巡りを終えて岸に辿り着くと、今度は名物であるハンバーガーを食すために一旦佐世保へと引き返す。そしてその後は、ホテルのあるハウステンボスへと向かった。
佐世保に着くとじゃらんを片手に佐世保バーガーの有名店を捜し当て、少しばかり並んで狭い店内で頂く。うん、確かに美味しくはあるが、ちょっとばかり小振りなところが残念。だが、食の細い娘が二つ平らげる姿を見ると嬉しくなる。
夕刻にはハウステンボス内にあるホテルにチェックインし、三人で園内を散策する。様々なアトラクションを楽しみにしていた妻と娘には二つばかり付き合ったところで、あまり興味の無い私は別行動。と言っても、喫煙所を探しながらぶらついては、タバコを燻らせていただけだが。
夕食は園内の中華料理屋で麺類とちょっとした丼物を食す。どうせ高い・不味いであろうと覚悟を決めて私はちゃんぽん、女二人は担々麺。しかし嬉しい誤算で、これが実に美味だった。担々麺は胡麻の風味が豊かで、チャンポンに至っては、私の知るところでは歴代一位と言ってよい。そして副食に頼んだ400円台の豚バラ丼も美味。小さな事だが、穏やかな夕食のひと時を妻と娘と共に過ごせて心が癒されるのを感じた。
2日目は9時にチェックアウトを済ませ、今回の大本命である熊本・大分を目指す。これは、菊池渓谷・大観望・阿蘇神社、そして我が血族の始まりと言われている豊後の緒方町を巡るという、ちょっとした強行軍となる。
この旅は私にとって単なる結婚記念ではなく、今後の残された人生を如何に生きて行くか、そのためには今一度、朧気となりつつある「志」の記憶を甦らせんがため、若き日々を父と母、そして姉・兄・弟と過ごした九州の地で再確認する必要があったのだ。
宝石のような水の流れを抱く菊池渓谷は、生憎にも震災の影響で閉鎖。なんと、翌日一般解放とのことだった。娘には是非見せてあげたく残念だったが来た道をそのまま駆け上り、我が国有数の絶景の地、大観望へと至る。そこから眺められる阿蘇の高岳や中岳付近はまだ雪を被っており、美しくもその強く毅然とした佇まいにしばし見とれることとなる。
阿蘇神社は周知の通り、先の震災により修復中であったが、妻と娘と共に国家の安寧と家族・血族の発展を心より祈願し、そして門前町で見つけたステーキ屋で赤牛を神々より有難く頂戴する。この阿蘇赤牛、脂肪のさしは少ないが肉本来の旨味が凝縮されており、量を食すと脂で気持ち悪くなる有名和牛よりも美味しかった。
阿蘇の地を後にした私たち家族は、その血族の発祥とも言われている豊後の緒方町を一路目指す。この竹田や大野の辺りは神々が降り立った高千穂にも近く、また私の抱く一途なる想いもあってか、近付くにつれて神妙な面持ちとならざるを得なかった。
実は2年前に阿蘇に来た時にも訪れる予定であったが、宿のある別府に早く戻らなければならず、時間切れで至らず終い。過去には母や兄弟は難なく辿り着けていたようだが、私が未だ福岡に住んでいた時も道に迷ったりと、まるでこの地に足を踏み入れる事を拒まれているかのようだった。
しかし、今回は私の切なる想いが通じたのか、思い抱いてから苦節30年、無事に辿り着くことが出来た。しかも、妻と娘も一緒に。・・・感無量。
夕暮が迫り、辺りの空気が鎮る中、我が氏族の基となったと伝えられる源平時代の雄、緒方三郎惟栄の碑に参拝しその想いの丈を伝える。そして後は、ほど近いところに在る豊後の名所の一つ「原尻の滝」へと向かう。
原尻の滝は「東洋のナイアガラ」とも言われ、全国的にも有名。未だ写真でしか拝見したことのなかった私にとっては、その安っぽい仮名も手伝ってか、まったくの期待薄であった。だが、私たち家族はその姿に圧倒されることとなる。
確かに滝そのものもそうだが、しかし、その辺りの霊気に私たちは畏れを抱いたのだ。物事の大きさとは五感で認識できる姿形の大きさではなく、その内在される精神性及び霊性の崇さに由来するものであることを改めて教えられた。
普段は何を考えているのか理解出来ぬ不思議ちゃんな娘も、この時ばかりは何かを感じ取ったのか、背筋を伸ばし目を潤ませていた。
滝口近くの川中には、緒方三郎惟栄が建立した緒方三社の一つである二の宮社の大鳥居が悠然と建ち、川岸から始まる参道の途中にもまた一つ凛と構える大鳥居が。そして、田畑の中を本宮へと繋がって行く。
過去に訪れようと試みても叶えられなかったその因は、私そのものの姿勢によるところが大きく、足を踏み入れることを神々は拒まれたのであろう。しかし今回は人生も終盤を迎え、微々たる私でも「誰が為に生きる」ことへの切なる祈りを受け入れて下さったようだ。田畑に囲まれたこの地は愛情に溢れ、心はいつになく穏やかになれた。私は生涯、決してこの記憶を薄れさすまいと神々に誓う。
実を言うと娘には申し訳ないが、本当は跡継ぎである息子とこの地に立ちたかった。しかし、血の願いは、結婚して氏名が変わるであろう、ちょっぴり不思議ちゃんな娘に託されているのかもしれぬ。4人兄弟中、次男である上に欠陥だらけな私がただ唯一子供を残せたように。どうやら人知では測り知れないものがあるようだ。
そして私は、その二の宮社の大鳥居の下で高校生の娘を諭し、また、託す。この地の記憶を魂に刻み付け、生まれ来るであろうお前の子供たちに伝えなさいと。今や亡くなった過去の者たちも同じ想いだったに違いない。そう、この地は、綿々と継がれて来た「魂の故郷」なのだから
その夜は、久住の高原ホテルで就寝する。眼下に雲海が広がった青天の翌日、杖立温泉と日田を一般国道で抜け、大分自動車道・九州自動車道、そして首都高速を経由し実家のある福岡市へと駆け抜ける。
少し前に腰の手術をした八十過ぎの母は、六十台にしか見えなかった2年前よりもかなり老け込んで、いたたまれぬ思いを抱く。そして脳裏を過るのは、若かりし頃の母と虫取りに興じた幼い日々。どうか、この母をお守り下さいと、豊後の地で出会った神々に手を合わせるしか術がない小さな私だった。
後ろ髪を引かれる思いで実家を後にした私たち家族は、柳橋連合市場の近くに昨年オープンしたホテルにチェックインし、娘の達ての願いである「長浜ラーメンはしご」を行うため、長浜大通りへと出向く。と言っても、夕食を済ませていたので2件が精一杯であったが、食が大きくなった娘には親としては嬉しい限り。
夜の長浜通りを散策すると、眼に映るものは首都圏生れの女二人には興味が惹かれるものばかりだったようだ。夜の長浜通りに目を輝かせる娘が途中、三杯目も行きたいと新たな店を指差したが、さすがに妻が拒んでこの日は終了。
駐車場に引き返す間、再開発のためか大半の店がシャッターを閉じた薄汚い飲み屋小路に出くわす。妻たちは気味悪いと言って立ち入ることはなかったが、私は構わず自ら迷い込む。本来私は、この様な俗な情欲に溢れた世界を忌み嫌う者なのだが、この日ばかりは違っていた。妙に懐かしく、愛おしかったのだ。店の表に出て雑談を交わす一種独特な雰囲気の老女たちにも親しみを感じる。何なのだろう、あの感覚は。たぶん、このような負の記憶も、私の魂をかたち造ったものだからだろう。そう、この様な世界も私の血肉そのものだからに他ならない。
早く来いと、無垢な女二人に急かされその小路を離れる時、自然と頭を垂れて感謝の合掌を行う私だった。
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2018/03/31 17:58:53