2020年08月01日
この指揮者
岩城 宏之(1932年-2006年)
日本の指揮者
東京府にて大蔵省専売局の官吏の第5子(末子)として生まれた
小学校に入学して間もなく父の転任で京都に転居、9歳で木琴を始める
小学4年生の3学期で東京に戻る
当時は病弱で、小学校5年と6年の2年間に10ヶ月間病欠し
骨膜炎で片脚切断の寸前まで行ったことがある
1945年5月、旧制中学1年生のとき空襲で罹災したため親類を頼って金沢市に疎開
2学期間、旧制金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に学ぶ
敗戦後、父の勤めの関係で岐阜県瑞浪に転居
ここで1年半を過ごし、旧制多治見中学校(現:岐阜県立多治見高等学校)に通学
1947年、旧制東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)の編入試験に失敗して
学習院中等科に編入学、学習院高等科2年の時
映画『オーケストラの少女』を観て感動し音楽家を志す
1951年、学習院高等科を卒業
東京大学独文学科への進学を志していたが第二次試験の前の晩に高熱を発して受験を断念
現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが
授業に出ることなく1年分の単位も取得しないまま6年間在学ののち中退
学生時代から、各所の音楽ホールに忍び込み
観客席ではなく舞台裏などで音楽を聴くことを繰り返してブラックリスト扱いになっていた
指揮者を正面から見るために、舞台上の管楽器用のヒナ段の中に忍び込んで
コンサートを聴くこともたびたびであった
数々の悪行から、後年、岩城が指揮者に就任したのちも
舞台関係者に誤って不法侵入者扱いされたことがある
NHK交響楽団初代事務長有馬大五郎からの誘いと推薦により
1954年の9月からNHK交響楽団指揮研究員として副指揮やライブラリアンの仕事を始め
1960年NHK交響楽団世界一周演奏旅行では常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター
指揮研究員同僚の外山雄三とともに指揮者陣のひとりとして同行
ヨーロッパ・デビューを果たす
ワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガー第1幕前奏曲
これが機縁となり、1963年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれて
オール・チャイコフスキー・プログラムを指揮した
1970年の日本万国博覧会開会式では
NHK交響楽団が当日の式典での楽曲演奏を担当タクトを揮っている
チャイコフスキー:バイオリン協奏曲
1977年、急病のベルナルト・ハイティンクの代役として
日本人として初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の指揮台に登り
ベルリオーズの幻想交響曲他を指揮した
翌シーズンのウィーン・フィル定期にも登場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団や
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台にも立った
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
1987年、頸椎後縦靭帯骨化症を患ったのを皮切りに
1989年胃がん、2001年喉頭腫瘍、2005年には肺がんと
立て続けに病魔に襲われたものの
その度に復活し力強い指揮姿を披露した
しかし、2006年5月24日、東京・紀尾井ホールで
東京混声合唱団の指揮後体調を崩して入院
同年6月13日、心不全のため都内の病院にて没した
73歳没
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
名古屋フィルハーモニー交響楽団初代音楽総監督
NHK交響楽団正指揮者
オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督
東京混声合唱団音楽監督、京都市交響楽団首席客演指揮者、
札幌交響楽団桂冠指揮者、メルボルン交響楽団終身桂冠指揮者を務めた
テレビ・ラジオへの出演、プロデューサー、音楽アドバイザー、執筆など多彩な活動を行った
エピソード
来日中のカラヤンに指導を受け
「オーケストラをドライブしようとするな。キャリーせよ」とアドバイスされたという
これは指揮を乗馬になぞらえたもので、ドライブとは手綱を絞って強引に馬を従わせること
キャリーとは手綱を緩めて馬の自由に任せながら、騎手の意図した進路に馬を導くことだという
メルボルン交響楽団時代にストラヴィンスキー作曲『春の祭典』の演奏で振り間違えたことがある
テレビ・コンサートの公開収録中、並の指揮者なら混乱しつつも何くわぬ顔で演奏を続け
自らの責任を回避しようとするところであるが
岩城はあえて演奏を中断し聴衆に向かって指揮を間違えたことを詫びた
異例の事態に聴衆も楽員も凍りついていたが
テレビ用に編集しやすい部分をコンサートマスターと相談し
楽員全員に演奏再開の箇所を告げた
すると聴衆だけでなく楽員からも大拍手が沸き起こり
岩城に対する同楽団の信頼はより固いものになったという
当時メルボルンの電話帳の表紙になるほど市民に親しまれていた
メルボルンには、名前を冠した Iwaki Auditorium があり
メルボルン交響楽団の練習場としても使われている
クナッパーツブッシュのような小さな動作でオーケストラを巧みに操るスタイルに終生憧れを持ち
実際ベルリン・フィル時代に試みたことがある
しかし後にウィーン・フィルの楽団員に
「クナ(クナッパーツブッシュ)も若い頃は指揮台から落ちるほど
激しく動いていた、それが胃を切除してからは
今みたいな穏やかな指揮がクナにとっての精一杯なんだ
お前も年を取ればそうなるんだから、今のうちに暴れておけ!」
と叱咤されたという。
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Posted at
2020/08/01 20:56:04
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