2020年10月03日
第54回スプリンターズステークスGⅠ
◎2 モズスーパーフレア
○10 グランアレグリア
▲13 レッドアンシェル
△3 ダノンスマッシュ
△5 メイショウグロッケ
△6 ライトオンキュー
かな?
Posted at 2020/10/03 22:48:01 | |
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2020年10月03日
アンドレ・クリュイタンス(1905年-1967年)
ベルギーのアントウェルペン出身で、主としてフランスで活躍した指揮者
1905年アントウェルペンで代々音楽家の家系に生まれた
父も音楽家で、幼少時より音楽教育を受けて育つ
9歳からアントウェルペン王立音楽院でピアノ・和声・対位法を学び
同時に王立劇場の指揮者であった父からも教えを受けた
多言語国家ベルギーは、フランス語、フラマン語(オランダ語の近縁言語)
ドイツ語を公用語としているものの、話者の割合は前二者が圧倒的で
ドイツ語は王室の言語でありながら1%程度しか使用人口がない
しかし、クリュイタンスの父は「フラマン語のオペラなどないのだから、
そんなものを学んでもどうにもならない」と言って
息子にドイツ語を教えたという
このようにしてフランスのラテン系文化とドイツのゲルマン系文化を幼少時より身につけ
この教養は、クリュイタンスがドイツ音楽とフランス音楽という
一般には相反すると考えられるジャンルの音楽を自在に演奏することに繋がっている
ドイツ音楽も得意とするフランス語圏出身の指揮者としては
ピエール・モントゥーと双璧的存在と評価されている
アントウェルペン王立音楽院を卒業し
1922年に王立歌劇場の合唱指揮者となる
1927年には同歌劇場第一指揮者に任命
ビゼーの歌劇『真珠採り』をヨーゼフ・クリップスの代役として指揮し、高く評価される
1932年からフランスの歌劇場でも活動を始める
その後もキャリアを重ね、1944年にパリ・オペラ座の指揮者となり
1949年にはミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に就任する
サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付」
以降1967年にクリュイタンスが逝去するまでこのコンビは黄金時代を築くことになる
それと並行してフランス国立放送管弦楽団、ベルギー国立管弦楽団の指揮も兼任した
1955年には初のベルギー人(フランス人系)指揮者として
バイロイト音楽祭に参加し歌劇『タンホイザー』を演奏した
翌1956年には急逝したエーリヒ・クライバーの代役としてカール・シューリヒトと
ともにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のアメリカ演奏旅行を行い、成功を収めた
その後もしばしばベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などに客演を重ねた
またチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートにもたびたび出演した
1964年5月に大阪国際フェスティバル協会の招聘によって
パリ音楽院管弦楽団とともに来日した
ベートーヴェン・ブラームス・ベルリオーズ・ラヴェルなどを演奏
「あまりの素晴らしさに、日本のオケに絶望すら感じさせた」と評され
日本でのクリュイタンスの評価は不動のものとなったが
1967年6月3日パリで胃癌により急死したため、最初で最後の来日となった
クリュイタンスは演奏活動のほかに、自身が首席指揮者を務めた
パリ音楽院管弦楽団の運営元であるパリ国立高等音楽院では教鞭も執った
指揮法を師事した指揮者としてはジョルジュ・プレートルや
カレル・フサ、フローリアン・オラールなどがいる
なおクリュイタンスの死去に際して
パリ音楽院管弦楽団は発展的解散を遂げ、パリ管弦楽団へと改組された
フランス系の指揮者として当然のことながらフランスの作曲家の作品に熟練し
ラヴェルの管弦楽曲集、ビゼーの「アルルの女」組曲
ビゼー:「アルルの女」第一組曲
ビゼー:「アルルの女」第一組曲
ベルリオーズの『幻想交響曲』や序曲「ローマの謝肉祭」
フォーレのレクイエムなどは現在でも不朽の名盤として語り継がれている
フォーレ:レクイエム
ダンディ:「フランスの山人の歌による交響曲」
ドイツ音楽にも巧みであった
とりわけベートーヴェンの演奏が知られており
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初めてのベートーヴェン交響曲全集の録音は
当時の常任指揮者であったカラヤンではなく、クリュイタンスが行っている
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
指揮の動画
ムソルグスキー:「展覧会の絵」
Posted at 2020/10/03 22:13:24 | |
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