袋町小学校平和資料館(旧袋町小学校西校舎)

広島の中心、本通のすぐ南にある小学校。
当然に原子爆弾の被害を受けており、爆心地から500m足らずの位置にあった当時の袋町国民学校に登校していた生徒および教師176名の殆どは即死したと見られている。遺体すら見つからず生死不詳となっている方も多く、生存が確認されているのは校長(3日後に死亡)・教頭など数名に過ぎない。
この周辺には、広島アンデルセン本社ビル(旧帝國銀行広島支店)、旧日本銀行広島支店(旧館部分)など被爆建物が残されており、袋町小学校もその一つだったが老朽化の進行や耐震面の脆弱さには抗えず、21世紀を目前にした2000年に惜しくも解体されてしまった。
現在は西校舎の一部(エントランスおよび地下~2Fを繋ぐ階段とその周辺)が保存され、「平和資料館」として一般に公開されている。
校舎が残っていた当時は私自身も広島在勤中で、よくこの校舎の脇を通って客先に通っていた。
貴重な被爆建物として校舎全体を保存を要望する意見も多く聞かれ、熱心な保存運動も続けられていた。中でも最も運動が盛り上がったのは、被爆直後の「伝言」の数々が発見された99年3月だった。
水洗トイレやダストシュートなど戦前としては先進的な設備を備えたモダンな鉄筋コンクリート造校舎は、原子爆弾の熱線で焼け落ち、爆風で爆心に面した壁面が破壊されたものの、躯体そのものは耐えて残り焼け野原に佇んでいた。生徒・教師が死に絶え無人となった校舎は、被爆翌日からは臨時の救護所となり、大火傷を負った市民が数多く収容された。
負傷者が多数収容されていたこと、混乱で生徒・教師の安否を伝える術がなかったことから、自然発生的に黒焦げになった校舎壁面が伝言板となったらしい。焼け残った学校備品と思われるチョークで、
「オ願ヒ オ知ラセ下サイ」
「本校一年生 ○○ 生死不明」
「火傷シテ治療ヲ受ケテヰマス」
「右者御存知ノ方ハ左記ニ御知セアリタシ」
といった伝言が書き込まれた。
終戦翌年の6月には、早くもこの校舎で授業が再開。学校として整備・修繕が進む過程で、教室の壁には新しく黒板が掲げられ、階段の壁は漆喰が塗られ、半世紀以上もの間「伝言」は封印されたままとなっていた。
戦後の被害実態調査に際し、袋町小学校校舎内の写真が撮影されており「伝言」の存在そのものは知られていたようだが、実際に「伝言」が発見されたのは校舎解体を前にした広島市の調査においてだった。
黒板裏や、慎重に漆喰を剥がした壁面には、被爆当時の煤と共に、鮮明な白い文字が浮かび上がる。記載内容を頼りに、NHKや地元の中国新聞が特集を組み、伝言当事者のその後を追っているが、それほどに保存状態も良く、爆心地周辺にいた人々の苦しみや悲痛な叫びが時を超えダイレクトに伝わってくる発見だった。
広島市は「伝言」の発見を受け、校舎を保存する範囲を拡大する見直しを行ったものの、結局校舎全体が保存されることは叶わなかった。
校舎として活用され続けていたら、伝言は未だに封印されたままだったかもしれない。また、無造作に校舎を解体してしまっていれば、「伝言」の数々は瓦礫と共に処分場で埋め立てられてしまっていたことだろう。
被爆当時の記憶が詰め込まれた「伝言」が発見・保存され、未来に繋ぐことができたことだけでも、幸運と受け止めるべきなのか。
住所: 広島市中区袋町6-36 広島市立袋町小学校内
電話 : 082-541-5345
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