20180505 デザイン崩壊はクルマ文化そのものの崩壊を意味するVol.1
投稿日 : 2018年05月05日
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「マイルドヤンキー」で一躍有名になったトヨタの某車がマイナーチェンジして、そのエグサに一層の磨きをかけた。
そのエクステリアデザインには多くの否定的な意見が多いが、いえいえ、実際には高額車にもかかわらず売れているのだから大したものだ。
たぶん、それは外観のエグサは別にして内装の豪華さとか静粛性などなどクルマとしての日本人が重要視するポイントを掴んでいるから売れるのだろう。
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そのトヨタの高級ミニヴァンのフロントや、その他のトヨタのフロントグリルを見ていて、僕はフト昭和30年に試作で終わってしまった 「オオタPX」 を思い出した。
皆さんは「オオタ」なんてメーカーは知らない人が多数だろうが、いえいえ、戦前から戦後まもなくまではDATSUNを驚愕する技術力とデザインを持った国産のメーカーだったのだが、末期にはこんなひどいデザインのクルマばかりになって「絶滅」してしまったメーカーなのだ。
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「オオタ」は東京品川区東品川に、当時最新鋭の米国ダイヤモンド・トラス社の特殊な鉄筋コンクリートを使用して「柱の無い工場」を持ち、その工作機械は、当時の最新鋭の工作機械が輸入され設置されていた。
画像は1937年式のODカブリオレで、X型フレームを持ち、フロントサスには「縦置きリーフ」が奢られ DATSUN より近代的なデザインとメカを持っていた。
確かに今の目で見ても十分に美しいデザインだ。
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DATSUN や トヨダ に比べて後発の「オオタ」は、信頼性向上と、知名度の向上の為に積極的にレースにも参加した。
写真は 1937年(昭和12年)5月に開催された「多摩川レース」でDATSUN
を苦も無く打ち破ってしまった!!
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それから戦火の波は 「オオタ」 にも無縁ではなく、戦後までの空白期間ができるが、戦後いち早く乗用車の生産を・・という事で製造を開始したが、まだ日本には個人所有のクルマは皆無に等しく、そのうち、オオタのデザインを担っていた 「太田祐一」が独立して、大手メーカーのデザインを手がける会社を設立した。
彼の最初の作品は、DATSUN DC-3 でこれが戦後初のオープンスポーカーとなり、さらに進化して DATSUN S211 (ALL FRP ボディ) となり、さらに SPL212 に進化を遂げた時「フェアレデー」として華々しく国産スポーツカーとして海外にもデヴューした。
そのころ「太田祐一」は正式に日産の社員となった。
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オオタのデザインのキーパソンである「太田祐一」が抜けてからは技術には定評のあった「オオタ」だが、デザインが悲惨を極めてしまった!
前記の「PX」に始まり、アメリカ車のデザイン、売れているアメ車のデザインを集めれば売れるだろう・・・という事で登場したのがこの「VC型」で、もうこうなると一体何をしたいのか分からない状況になってしまった。
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さすがに「VC」は売れることなく、これはきっとデザインがアメリカ寄りになり過ぎたからとばかりに、PF-1 型を作ったが、考えてみて欲しい、去年はギンギラギラのアメリカ調のデザインが一転して、今度は欧州調とコロコロ変わるデザインにユーザーはどう思うだろうか。
この頃から「オオタ」は破滅の急坂を下って行くのであった。
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オオタ末期に近いモデル「PK型」。さすがにデザインを何とかしないといけない・・・という事で、オオタが取った奇策は、クルマとは無縁の彫刻家にデザインを委託してしまった。
結果、やはりクルマと無縁の「素人」なので、何かを参考にしなければという事で、アメ車の「フォード タウナス12」を模したデザインとなってしまった。
この頃にはオオタの財務状況も悪化し、支払いもできず 日本内燃機製造(株)(クロガネ)に吸収され、さらに東急の資本が入り、その段階で倒産。
ただ会社更生の中で、東急機関工業として日産の下請けをして歩んで、昭和45年、東急から日産へ全株式が「譲渡」され「日産工機」となった。
技術があっても見てくれが悪ければ衰退してしまうというまさに好例がオオタだったのかもしれない。
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