現在、秋田県内には、25市町村(13市9町3村)が存するのだが
2005年から始まった、平成の大合併前は、実に69もの市町村を数えたのである。
筆者の秋田市も、2005年に川辺町と雄和町を編入し、現在の秋田市となった。
合併前と後では、県内の地図も大きく様変わりしたのである。
ところで、最後まで合併せず、単独行政を選択したのは、
(県北から)
鹿角市
小坂町
上小阿仁村
藤里町
五城目町
八郎潟町
井川町
大潟村
羽後町
東成瀬村
以上10の自治体である。
中でも注目したいのが、最初から『合併しないこと』を宣言した、
鹿角市
小坂町
藤里町
羽後町
東成瀬村
上小阿仁村
大潟村
7つの市町村である。
これらの自治体は、何故近隣市町村との合併をしなかったのであろうか。
何らかの単独運営可能な財源等を持ち、なかんずく、勝算があってのことではないかと仮説を立ててみるのである。
実際は、果たしてどうなのだろうか。
当時から10年を経た今、改めて、訪ねてみようと思う。
ドライブ記だと思って、読んでいただけると幸いである。
ということで、単独市町村の初回は、秋田市にも程近い、大潟村である。
この村は、自宅から一時間もかからない程度だから、筆者もよく知人らと会話も兼ねて、ドライブに来る。
まさしく、本当にただドライブするだけなのだが。
まず、村のデータであるが
人口は、約3,300人
平成27年度一般会計総額は、約35億円
その内訳は、村税等の自主財源が28.4%、地方交付税交付金や、国庫支出金等の依存財源が71.6%である。
ちなみに、県庁所在地の秋田市だが、
人口は、約320,000人
同一般会計総額、約1,350億円(平成26年度よりも9.5%増加したが、これは主に秋田市役所新庁舎建設費のためである)
自主財源46.9%、依存財源53.1%である。
この数字だけ見ると、村の財政運営に余裕があるとは思えないデータではあるのだが…
さて、大潟村は、昭和39年遂に八郎湖の干拓を成して誕生した、県内69番目の市町村である。
つまり、合併前の区分では最後に誕生した自治体なのだ。
男鹿市の寒風山からは、眼下に広がる八郎潟が見渡せる。
他県の人にも、あきたこまちを食べてもらえると嬉しい。
村の歴史等は、干拓博物館に詳しい。
もし、訪れたなら是非一度足を運んで欲しい。
男鹿と大潟村一帯は、ジオパークでもある。興味深い資料も数多く展示されている。
さて4月下旬は、菜の花と桜が美しい頃である。
この時期、村の交通量が最も増えるのではないだろうか。
見慣れぬ県外ナンバーの車も多く見かける。
村内の道路は、どこまでも遮るものがない農地が続く。
オービス等は無いゆえ、ふわわキロも出せるのだろうが、トビやチュウヒの猛禽が優雅に飛び回る様を眺めながら、巡航するのが愉しい道路である。
サンルーラル大潟は、唯一といってもいいくらいの高層であるからドライブ中すぐに分かるだろう。
最上階の浴場は、真西と真北を展望できるから、正面には沈むゆく夕焼けと、条件さえ整えばではあるが、能代方面には、彼方の白神連峰を見ることができる。
この日は素晴らしい快晴ではあったのだが、白神は春霞の中であったから、まあ運がよければの話であるけれど、それでも駐車場の愛車を眺めることはできる。
さて、何故この村は、隣接する旧男鹿市や旧若美町と合併せず、単独自治の道を選んだのだろう。
大潟村役場で伺ったところによると、実際に当時、旧男鹿市と若美町との合併協議会が設けられたそうである。
そして、合併の是非を問う住民アンケートの結果、村民の実に6割が反対の意思を示したため、最終的には当時の村長の判断により
合併しない道を選択したとのことである。
(結果、男鹿市と若美町は合併し、現在の男鹿市となったのである。)
それは、この地を切り開いた人々のフロンティア精神がそうさせたのかもしれない。
ともあれ、昭和32年当時、800億円もの巨費と17年の歳月をかけた国営事業は、琵琶湖に次ぐ我が国第2の湖だった八郎潟の3分の2を干拓し、1万5千ヘクタールの農地を造成するのだった。
満々と水をたたえ、60種を超える魚介の宝庫だった湖に約三千人もの漁夫が、のどかに舟に帆を貼っていた八郎潟は、今や歴史の彼方へ消え去ったものの、もし訪れる機会があるのならば、車窓から見えるこれらの風景が、往時を思い出すよすがとなることを願ってやみません。
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秋田県レポ | 日記
Posted at
2015/04/28 21:41:15