
河後森城🏯を後にし、次なるは現存十二天守のひとつ宇和島城🏯へ🚙💨

宇和島市に入るとトンネル入口の壁には迫力ある「牛鬼」が描かれていた👏
牛鬼とは、古くは枕草子にも登場した、頭が牛🐮、体が鬼👹という恐ろしい妖怪だが、有名な宇和島の「牛鬼祭り」のルーツは、朝鮮出兵の際に加藤清正が考案した戦国時代の装甲車「亀甲車」で、牛革で堅板の箱を包み、棒に刺した牛の生首🐮を先端に掲げていたのだとか😱
その亀甲車を藤堂高虎が宇和島に伝えたのが「牛鬼」の始まりと云われている😳

センスが光る✨宇和島城🏯天守閣を簡略化したデザイン👏

1601年、築城の名手として名高い藤堂高虎によって築かれた宇和島城🏯は、標高74mの城山山頂の本丸を囲むように二之丸と帯曲輪、北に藤兵衛丸、一段下に長門丸、西に代右衛門丸、東に井戸丸、北東の麓に三之丸を配した梯郭式平山城でありながら、日本三大海城のひとつにも数えられる😳

かつての宇和島城🏯は、城の西と北が海に面する海城であった🤔
不等辺五角形の縄張は「空角の経始」と呼ばれ、実際には五角形の縄張を、四角形の城と錯覚させる設計で、幕府の隠密🥷が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されていたと云う😳

江戸中期のものと伝わる「桑折氏武家長屋門」は、桑折氏屋敷にあった長屋門を移築したものだ🤔

門の先には石垣が迎えてくれる😳

立派な石段だ☺️

三之丸跡👏
かつての御殿は住宅に姿を変えてしまっている😥

天守へと向かう登城道は3ルートあるが、全部舐めるつもりなので、体力があるうちに井戸丸へと通ずる急な石段へ🚶♂️💦
幟には「宇和島ココロまじわうトコロ」とある🤔
U・WA・JI・MAを反対から読むとMA・JI・WA・Uになる😳センス良いなぁ👏

ゴツゴツでかなり急な石段💦
井戸丸の石垣が見えてきた👀

井戸丸門虎口石垣👏

無骨な乱積みがタマらん😆

井戸丸矢倉の石垣👏

水の手を護る直径2.4m、深さ11mの現存井戸👏
幟には伊達家の家紋「竹に雀」がある😳
1614年、伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が宇和島に入り、仙台伊達家の別家として宇和島伊達家が9代に渡り幕末まで城主となる🤔

「竹に雀」の家紋も宇和島笹の方が凝っていて、仙台伊達宗家の下風に立ちたくないという秀宗の強い意志が表されている様だ🤔

藤兵衛丸は城山郷土館になっている🤔
1845年建造の現存例の少ない武器庫で、三之丸から移築されたモノだ👏

藤兵衛丸にあるもうひとつの移築建築物、
明治時代、法学者として活躍した穂積陳重・八束兄弟の生家の長屋門🤔

雷門跡と奥は藤兵衛丸の石垣👏

藤兵衛丸脇の石段を降る🚶♂️

石段と帯曲輪の石垣👏

長門丸は公園になっている🤔

長門丸から見る藤兵衛丸西角矢倉の石垣👏
藤堂高虎による野面積みの高石垣は高さ10mを超える😳

野面積みがタマらん帯曲輪の石垣👏

代右衛門丸の石垣👏

古代遺跡状態の代右衛門丸南角矢倉👏

式部丸の虎口☺️

左手を見上げると、三段石垣の一番上が代右衛門丸矢倉の石垣👏
古い時代と新しい時代に築かれた石垣が織りなす見事な造形美だ👏

式部丸の野面積みの石垣👏この無骨さが好きだ😆

式部丸脇を通り、もう一つの登城道、上り立ち門側へ降って行く🚶♂️💦

搦手口にある現存の門「上り立ち門」は、本瓦葺きの薬医門型式で、桁行3.64m、梁間2.15mと国内に現存する薬医門としては最大級の規模を誇る👏

軒丸瓦には、伊達家の家紋である「九曜紋」があしらわれている🤔
この「九曜紋」は細川忠興が織田信長から拝領したものを伊達政宗が所望したことに由来する😳

搦手からの攻城開始‼️
既に山⛰二つ登った気分だ😅

式部丸の角の取れた打込接ぎの石垣☺️

式部丸脇の搦手口は複数の折れを刻む👏

式部丸の井戸☺️

煙硝矢倉へと続くのは、巨石を用いた見事な打込接ぎの石垣👏

圧巻の代右衛門丸の高石垣👏

その脇の坂を登り、天守を目指す🚶♂️💦

井戸丸の方に周り、天守への石段を登る🚶♂️💦

左手前には二之丸の御書物矢倉の石垣、その上には本丸石垣が見え、疲れも吹き飛ぶ😆

石垣を右に折れると三の門跡‼️
正面の本丸石垣が来る者を威圧する😳

御書物矢倉側から見る本丸石垣の威容👏

また右に折れて本丸石垣脇の坂を登る🚶♂️💦

北角矢倉の石垣と二の門跡👏

二之丸御算用矢倉跡🤔

二之丸から見た本丸一之御門(櫛形門)跡👏
本丸への唯一の門は櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門と呼ばれていたと云う🤔

かつては左に北角矢倉、右に櫛形門矢倉を従えていたと云う☺️

二之丸からの眺め👀
現在は埋め立てられて海から離れているが、築城当時は城の約半分が海に面した海城だった😳

本丸‼️
かつての本丸には、南角矢倉・櫛形門矢倉・北角矢倉・御弓矢倉・轆轤矢倉・御休息所矢倉・御鉄砲矢倉・右髪矢倉が置かれていた😳

キターッ👏現存十二天守 宇和島城天守閣🏯
当初は藤堂高虎による複合式望楼型三重三階天守が建っていたが、1671年、宇和島藩2代藩主伊達宗利によって現在の独立式層塔型三重三階の天守に建て替えられた🤔

白壁の総塗込造の天守は、土台から棟までの高さは15.8m、正面最上層から唐破風、千鳥破風、二つの千鳥破風、更に玄関の唐破風と威圧感の無い上品で優美な姿を魅せてくれる👏

天守を南側から見る👀
有事を意識しない泰平の時代に建てられた天守には、鉄砲狭間・矢狭間、石落しなど防御の備えが無い😳

南東から👀
防御の代わりに全ての面を唐破風・千鳥破風で飾り、全方位に領主の威容を示すことに重点が置かれている🤔

北側から👀
最下層は六間四方、二層は五間四方、三層は四間四方と順次同比率で小さくなっており、どの方向から見ても美しい👏

正面の唐破風の玄関から、いざ天守内部へ🚶♂️
長押に置かれた家紋は、伊達家初代朝宗が1189年、源頼朝より拝領した幕紋二引両を、後代、竪三引両に改め輪郭に入れて図案化し定紋としたもので、伊達家の家紋では最も古いものだ👏

唐破風の天井も上品な印象だ🤔

巨大な矢😳上棟式に使われたモノだろうか🤔

武者走り☺️
戦闘色の薄い天守内部には、障子が張られている😳

甚大な被害を齎した1854年の「安政の大地震」の修復工事の際に作られた1/10サイズの精巧な現存模型👏

現存天守の階段と言えば、急角度の直階段だが、ここ宇和島城🏯ではL字に折れる「かね折れ階段」だ😳
2階へ🚶♂️

通常、天守の破風の内側には、鉄砲を撃つための「破風の間」があるものだが、宇和島城🏯の破風は全て、外観を飾っているだけで、破風の構造が屋内に少しも反映されていない😳

茂本ヒデキチ氏の武者墨絵が飾られている🤔

3階へ🚶♂️

最上層には竿縁天井が張られ、穏やかな雰囲気☺️

宇和島城下絵図屏風のレプリカ☺️

武者窓から覗く紺碧の空と海、そして眩しい緑☺️

武者窓の柱は五角形になっていて、矢や鉄砲をより広角で狙えるようにするための工夫だ👏

改めて見る宇和島城天守閣🏯
ポツンと建つ独立式の天守は何か場違いな印象を受けなくもないが、やっぱカッコイイわ👏

天守台は見事な切込接ぎの石垣だ👏
後ろ髪を引かれつつ、天守を後にする🥹

二之丸から本丸石垣越しに見る天守👏

長門丸まで降り、「宇和島城」の碑☺️

何かの遺構かと思ったら配水池だった😅

もうひとつの登城道を降り、桑折氏武家長屋門へと向かう🚶♂️

長門丸西角矢倉の石垣が見えてきた👀

城内一長い長門丸の石垣は総延長110m、高さ7~8mある👏

50m近い石垣は圧巻だ👏
山上部に曲輪が散在する中世山城の縄張りを色濃く残しながらも、時代ごとに変遷する石垣、山麓部の曲輪など近世城郭の姿、更に海城の一面も魅せる宇和島城🏯
戦国から泰平の世への移り変わりを示す現存天守は350年の歳月を経ても尚、往時の優美な姿を現在に遺す😆宇和島🏯お見事でした👏
⑤へと続く
ブログ一覧
Posted at
2022/08/05 08:18:32