
第一次信州真田の陣(5/2)、初っ端に訪れたのは、戦国好きなら誰でも知ってるであろう「砥石崩れ」の舞台、砥石城。
武田信玄の数少ない負け戦のひとつなんですが、此の砥石崩れと云うのは、攻城戦の失敗じゃなくて、撤退戦の失敗だったんですねえ。
武田信玄が自ら「当家の凶事なり」と嘆いたんですが、其の砥石城を真田幸隆が乗っ取りに成功。
どんな手段を使ったかは、稗史・小説の類の世界なんですが、此れによって真田が本貫を回復し、飛躍して行くきっかけになった特別な城と云うのは、間違いないでしょうね。
砥石城
築城者・時期については不明で、歴史に登場するのは、村上氏が小県方面に進出し、同氏の有力な支城になってからである。
天文19年(1550)武田信玄が攻めたが、撤退するのに失敗し、殿軍の横田高松をはじめ兵1000名が討ち死にした。
所謂「砥石崩れ」である。
併し、翌年真田幸隆により砥石城は乗っ取られ、以後は武田氏の属城となった。
後に真田氏の居城となり、上田城築城以後も重要な支城となった。
真田氏が松代に転封されると、廃城となった。
い 陽泰寺

砥石城へは、国道144号から案内標識が出ているので、其れに従って行けば、駐車場に行く事が出来ます。
其処から登山道があり、砥石城と米山城の間の尾根に出るんですが、僕は東嶺にある内小屋(城下集落)から、大手を行く事にしました。
此の陽泰寺は、海野氏所縁の寺院だそうで、山号は砥石山。
ろ 空堀

内小屋の入口右手を守る空堀。
先は急崖となって神川に落ちて行きます。
現在は畑となってますが、当時はもっと深かったようです。
は 竪堀其の壱

左手を守るのは、尾根上から落ちてくる竪堀。
に 内小屋

現在は畑になってますが、削平された跡に屋敷が建っていたと想像されます。
参考にした「戦国・江戸 真田一族」と云う本では、砥石城は山頂を守るのではなく「谷を守る山城」とあり、此の内小屋を重要視してます。
また上水道施設の工事をした際に、当時の兵糧米が出て来たそうです。
ほ 竪堀其の弐

内小屋から案内標識に従って、大手道を登って行く事になるんですが、つづら折れになっていて結構キツい(;´Д`A ```
山頂と水の手の分岐点近くに竪堀がありました。
へ 水の手

大手道の中腹には、幾つもの段曲輪があり、家臣達の居住スペースでした。
其の一角にある水の手は、現在も水が湧き出てます。
と 矢竹

枡形城と本城との間に生える矢竹。
戦国時代に、矢(矢柄)に使うために植えられたモノなんだとか。
ち 枡形城

砥石城は、尾根沿いに「枡形城」「本城」「砥石城」の三つ(米山城も合わせて四つの場合も)の区域に分けられています。
枡形城は、北を守る要害で南側に二段の曲輪があります。
り 枡形虎口

此処が、枡形城の由来ともなった枡形虎口なんですが、云われてみればそうかなあと、思える程度。
枡形城は、城内で最高地点にあり、此処が本城とされていた時期もあったとか。
ぬ 堀切其の壱

枡形城の北尾根を断つ堀切。
此の先にも曲輪があり、眺望が非常に良く、物見として充分な役割があります。
此の日は残念ながら、黄砂で眺めは今イチでした。
参考文献:日本城郭大系8、戦国・江戸 真田一族
参考サイト:
埋もれた古城
本日は此れ切り。
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信州真田の陣 | 旅行/地域
Posted at
2011/05/07 22:47:54