
砥石城は、あまりにも「砥石崩れ」として有名ですが、其の後も歴史の舞台から消える事無く存在してました。
真田昌幸が上田城築城するまでの、「真田氏の本城」と云う肩書きの城は、今回訪れた中で幾つもありました。
此の砥石城は内小屋まで巡ってみると、小さいながらも城下町の雰囲気があり、此処が本城として使われた意図がはっきりと感じられましたね。
上田城が築かれた後も、重要な支城として存在し、天正13年(1585)の第一次上田合戦(神川合戦)では、真田信幸が此処を拠点として、出撃しました。
慶長5年(1600)の第二次上田合戦では、西軍についた真田信繁(幸村)が守ってましたが、東軍についた信幸と真田同士の争いになる事を嫌い、開城してます。
る 堀切

本城の背後の堀切。
を 本城 本曲輪

砥石城の中心部である本城の、更に中心となる本曲輪。
山城にしては結構な広さがあり、案内板にも書いてありましたが、居館があってもおかしくないですね。
わ 土塁

本曲輪北端部の土塁があり、直下の堀切との高低差を稼いでます。
真田の城は、こんな感じで本曲輪の背後に土塁を置いて、其の下に堀切で尾根を切ると云うが、多かったですね。
か 石積み其の壱

本曲輪の虎口付近には、石積みがありました。
一寸崩れて来てますね。
よ 大手口馬場

本城の大手口は、馬場として十分な広さがあります。
背後は、本曲輪にかけて何段もの段曲輪が形成されてます。
た 切岸と堀切

本城から砥石城にかけての尾根は緩やかですが、切岸による急崖と堀切によって、行く手を阻まれます。
当時は、梯子を使って上り下りしてた様です。
れ 砥石城

此処は、砥石城の「砥石城」。
四等三角点の戸石城があります。
そう云えば、城内の案内板は最初「戸石城」と書かれていたみたいですが、全部「砥石城」に直されてました。
何でだろ?
そ 岩場

砥石城から米山城に至る尾根は、こんな岩場になってました!
駐車場から素直に来た人は、此の岩場をロープにつかまって登らなくてはなりません。
僕は降りて行ったんですが、下から来た人はひーこら云いながら登ってました。
米山城
海野氏の一族、小宮山氏の城とも考えられるが、詳細は不明。
砥石城の出城であり、村上氏時代には兵糧城や放火台との伝承もある。
米山城も含めて、「砥石城」と呼ぶ事もある。
つ 石積み其の弐

本曲輪の北面には、石積みがあります。
土留めの為のモノですが、此れを見る為に歴史愛好家が登っている為、逆に土が削れて来てます(^▽^;)
ね 米山城

本曲輪には、村上義清の石碑がありました。
砥石城との距離と関係を考えると、別の城と云うよりも、ひとつの城郭なんじゃないでしょうかね。
ところで、色んな地図を見ると、砥石城の表示はないのに、米山城は載ってたりします。
たまに「何でこんなマイナーな城が地図に載ってるんだ?」って所、ありますよね?
砥石城は、1時間45分ほどの登山でした。
参考文献:日本城郭大系8、戦国・江戸 真田一族
参考サイト:
埋もれた古城
本日は此れ切り。
ブログ一覧 |
信州真田の陣 | 旅行/地域
Posted at
2011/05/08 13:19:38