私は相撲はスポーツなんかじゃない、もちろん神事でもなく武道だと思うのである。さて、ではスポーツとは一番の誤解は強いものが勝ってはいけないというのがスポーツの基本の考えだ。強いものが勝のがスポーツだっていう誤
神待ち解は蔓延している。どちらが勝かわからないという条件のもとで勝負を決める勝敗はフィフティフィフティというのがスポーツの基本だ。だから、観客が賭け事の対象にできる。強いものが勝のなら勝負にならない。どちらが勝かわからないから、応援のしがいもあるし、賭けることもできる。競馬でも強い馬にはハンディが与えられるし、ボクシングには体重制があるなんて毎年レギュレーションが変わる、このままいくとエンジンは気筒に制限されそうだ速い者は勝っちゃいけない反面、古来の武道では負けたら命が無いから試合うという制度になってからも、負ければそれなりのダメージを負う。けだし、剣道も合気道も拳法もスポーツ団体にはしていないし、オリンピックの種目になることも固辞している。これは強いものが勝し、勝ち負けを競技ではなく、相手を殺す技術を身にける事を目的にしているあるいは殺されないための、あるいはその技を磨くものだからだ。このあたりは、昔読んだ、という本の受け売りだけど体の使い方も、相撲の四股は体重を縦方向に利用するための基本動作だし、長拳太極拳の単鞭はテレビで見る限りではただの踊りだけどきちんと発露させればジャッキーチェンの映画みたいに相手を飛ばすこともできる。こういう技を身にけて戦うのが相撲で、横綱は頂点に登り詰めた見識が求められる。だからのレギュレーションを決めるように相撲をいじってはいけないと思う。まして、日本の古来からの意思決定は合議ということで物事を決してきた。リーダーシップを発揮して皆を引き連れたりということはなかった少なかった。だからに相当する日本語はないように思う。ちなみに空港には着した機体をスポットまで誘導する車の後ろにはと書かれている。わが朝には八百万の神がおわしますという神道にはゼウスのようなリーダーの神はいない。一神教と違い万人も人口がいる。神無月には一斉に出雲大社に集まって事物を決している。なんと民主的な世界だろう。そして長い歴史の中で培われた世界に冠たる民主主義国家である日本の価値観や政治体制、そして教養としての文化和算では戸時代に微積分はかなり流布していたらしいし、ピタゴラスの定理なんて子供の常識だったをもっと評価すべきじゃないだろうか。
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2011/04/30 07:31:14