小鳴門橋
民間資金で進められたパイロット・プロジェクト
2012年06月10日

渦潮で有名な鳴門海峡。その四国側にある大毛島の東側を縦断し、大鳴門橋の袂へ至る徳島県道11号・徳島公園線の起点、阿波街道(県道42号)大桑島交差点を曲がった直後にある長大橋。
名称は「大鳴門」に対する「小~」ではなく、この橋が飛び越える「小鳴門海峡」に由来する。
東側には、大鳴門橋に繋がる神戸淡路鳴門自動車道本線が並走(橋名は「撫養橋」)している。
小鳴門海峡には、他に「小鳴門新橋」「小鳴門大橋」など似た名称の橋が多い。特に徳島県内でも最大規模の斜張橋である「小鳴門大橋」は、橋の構造は大きく異なるが大鳴門橋とも小鳴門橋とも名前が紛らわしく、間違って渡ってしまうと対岸の大毛島内で道に迷う羽目になる。
小鳴門橋の開通は、大鳴門橋竣工(1985年)の遥か前、1961年のこと。当時は日本一の径間長を誇る吊橋だった(翌年、福岡県北九州市の若戸大橋に抜かれ陥落)。
構造的には大鳴門橋と同じ吊橋ながら、主塔3基4径間の珍しいレイアウトで、一般的にイメージされる吊橋とは印象が異なっている。
「小鳴門橋」を通る徳島県道11号線は、「大鳴門橋」とは直接繋がってはいない(この先、鳴門北ICで接続)。
しかし歴史的には、この橋が「大鳴門橋」のパイロットプロジェクトとして着工され、成功したからこそ現在の淡路鳴門ルートがある。道は繋がらずとも、本四間を橋で結ぶ一連の壮大なプロジェクトの第一歩だったのだ。
戦前から鳴門海峡に橋を架け、淡路島を経由して本州へと至る鉄道・道路の構想は打ち上げられてきたが、技術的な問題と高額になるであろう事業予算から実現性に疑問を呈する声も多く、具体的な進展を見ないままでいた。
日本が高度成長を成し遂げ、経済が力を蓄えてくると、架橋技術も目覚ましい発展を見せ、本四間を跨ぐ長大橋の建設に見通しが付き始める。いよいよ本四架橋構想が具体的になり、将来着工が見込まれる有力なルート周辺自治体では誘致合戦が激化。民間レヴェルでの活動も活発化していた。
1950年代後半、日本は戦後の復興期から脱し本格的な好景気を迎えたが、地方自治体は組織の肥大化に伴う人件費の膨張、団塊世代が成長するにつれ増加する学校建設・教育関連予算、経済の規模拡大に追いつけない徴税体制に起因する税収の低迷で、財政が極端に悪化していた。
徳島県では更に、1953年に開催された国民体育大会のための会場整備支出や、莫大な災害対策費用が追い討ちをかけ、1956年に財政再建団体(現・財政再生団体) に指定、言わば破産宣告を受けた状態に追い込まれる。
そんな状況下にあっても、本四架橋の誘致活動に失敗し鳴門海峡に橋を架ける夢が潰える事態だけは避けなければならない、と考えた県知事は、国への働きかけを継続しつつ、本四架橋構想が具体化しないなら地方自治体で小鳴門海峡に橋を架ける計画を打出したのだ。
しかし徳島県の財政は破綻状態。財政再建団体に指定され、文房具の調達にも制限が掛かる状態で長大橋の建設予算など捻り出せるはずがない。
そこで日本道路公団に事業化の陳情をするが、敢無く拒否。
国に対しては、直轄国道として整備するよう請願するが、これも色よい返事を得られずじまい。
最後に引き出された驚きの「飛び技」が、電力会社からの資金融資による着工だった。
関西電力および四国電力は、相互に電力を融通するための電力ケーブル敷設計画を練っていた。
関西電力管内の最大消費地である京阪神間と、四国を最短で結ぶルートは言うまでもなく明石~淡路島~鳴門の筋だが、鳴門海峡を越える部分が大きな障害となった。
鳴門海峡周辺は国立公園に指定されており、著名な観光地であることから、景観に悪影響を及ぼす人工構造物(鉄塔・架空線)を無闇に設置できない。
海底ケーブルであれば景観の問題は解決できるが、渦潮が猛り狂い強力な潮流が複雑に走る鳴門海峡の海底にケーブルを敷設するのは、施工の面でも安定的な運用・保守の面でも現実的でない。
(以下執筆中)
住所: 鳴門市撫養町大桑島字辷岩浜48
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