大阪市営地下鉄御堂筋線

「命のビザ」のエピソードで知られ、映像化もされたリトアニア駐在外交官(領事代理)・杉原千畝は、その英雄的行為の裏側で、本国に無断で通過査証を発行した行為を戦後になって外務省から咎められ、不遇の内に外務省を去った。
自らの行動について多くを語らず、その勇気ある行動が世間に知られたのは戦後も暫く経ってからのこと。ちょうど映画「シンドラーのリスト」が公開されて以降だった。
同様の人道的な行為は、第二次大戦中ナチス・ドイツ占領下のポーランド・ワルシャワでも実行され、ポーランド人女性・イレーナ・センドラーによってユダヤ人の子どもたち約2500人が救われた。
センドラーは社会奉仕家の立場を利用してゲットー内に入り込み、幼児たちをスーツケースやスカートの中に隠すなどして脱出させることに成功。銃殺刑に処せられる危険を冒しながら、2年以上も脱出の幇助を続け子どたちを孤児院や病院、教会に逃がし匿ったとされる。
しかも、ただ逃がしただけでなく、子どもの姓名を克明に記録。その記録が、戦後になって生き別れになった家族を結びつける、重要な手掛かりとなった。
1943年に活動が露見しゲシュタポに逮捕され、強制収容所行きに。尋問の過程で拷問を受け、足や腕を骨折。仲間が看守を買収し一命を取り留めたものの、意識不明のまま強制収容所近くの森に放置されていたところを救助され、戦後を迎えることになる。
センドラーの行為を後世に伝えるべくノーベル平和賞候補にも挙がるなど、ユダヤ人社会は当然のこと世界中で称賛されたが、本人だけはそう思っていなかったようだ。
「私はほんの一握りの子どもしか救えなかったことに、今も良心の呵責を感じ続けているのです」
センドラーといい杉原といい、真に英雄たる人は、かくも寡黙で謙虚なのかと、思い知らされる。
同じ第二次世界大戦末期だが、場所は大きく変わって大阪市中心部。
3月10日の東京大空襲に続き、3月13日~14日未明、米軍の大編隊は大阪上空に出没。後世「大阪大空襲」と呼ばれる悲劇が始まった。
戦略爆撃機B‐29による無差別空爆が激しさを増す夜半過ぎ。
大阪の中心街・御堂筋には逃げ惑う人々で溢れかえる。
御堂筋には戦前から地下鉄が通っており(現在の御堂筋線)、防空壕代わりに避難しようと地下鉄駅入口を目指す人々もいたが、既に地下鉄の運行は終了しており、駅入口は総て閉ざされている。
地下鉄が入口を閉ざしていたのは、防犯上の理由も然ることながら、米軍の空爆に対して地下構造物が無力かつ危険という、現実的な判断も働いていた。
焼夷弾など比較的軽量な爆弾に対しては、地下鉄の駅・トンネルは十分シェルターとして機能するが、コンクリート構造物の破壊を主眼に置いた2000ポンド爆弾(日本側通称1トン爆弾)・1000ポンド爆弾(同500㎏爆弾)の破壊力に対しては、全く無力。
現在建設中の地下鉄のように、大深度をシールドトンネルで通っていれば話は別だが、開削工法で建設され土被りも薄い初期の地下鉄では、爆弾の破壊力を防ぎようがない。
地下壕代わりに地下鉄へ避難したとしても、トンネル上部に直撃弾があった場合、逃げ場が無い分却って危険ではないか、と考えられていた。
激しい空爆で、ミナミの難波・心斎橋は既に猛火に包まれており、避難民の波は広い空間を誇る御堂筋に集中。その御堂筋とて、周辺建物の火災が放射する炎熱に曝され、決して安全な場所ではなくなっていた。
その時、奇跡が起きた。
当直で詰めていた駅員が行動を起こし。硬く閉ざされていた地下鉄駅入口を開放、被災者を駅へ誘導し始めた。
仮にトンネルや駅が爆弾に対して無力であったとしても、火の回らない地下へ入れば、とりあえず炎に焼かれることだけは避けらる。
行動したのは駅員だけではない。乗務員も、急遽梅田行き電車を運行し避難民を収容。人々を迅速に被災地から避難させた。
この勇気ある地下鉄職員の行動によって、数百名の人命が救われた、、、、とされる。
しかし、この経緯は大阪市の公式な文書・記録には残されておらず、戦後も長らく事実関係が不明のままだった。
戦後40年以上が過ぎ、ある新聞の投書欄に話が出たのをきっかけに証言者が現れ、公に知られることとなった。
ただ現在に至っても、臨時運行された地下鉄電車に乗車した、という証言者はいても、「私が鍵を開けて誘導しました」「私が電車の運転を担当しました」という、運行した側の証言者が現れず、空襲の最中運行された「臨時列車」の詳細ははっきりしない。
戦時下で労働力が不足する中、地下鉄の職員は徴兵前の勤労学生や徴用された女性乗務員が数多く配属されていた。鉄道員として経験が浅い彼らが、自主的に判断して電車を運行させたとは考え難い。
一説には、当時運輸通信省大阪鉄道局長の職に在り、戦後首相となる佐藤栄作の指示で地下鉄を運行できるようにスタンバイしていた、とする推測がある。
佐藤栄作は鉄道省(後に運輸通信省に改組)のエリート官僚で、大阪鉄道局長の前は本省の局長職に在った。大都市大阪とはいえ地方の鉄道局に左遷されたのは、所管業務を巡って軍と衝突したためだ、という。
大阪の地下鉄駅は、軍の横槍で軍需物資の備蓄倉庫として使われていた。軍の管理下に置かれていた地下鉄駅を、鉄道局長の権限で開放させたのだとすれば、軍靴で役人としての尊厳を踏み躙った者どもに一矢報いるつもりだったのかもしれない。
鉄道は、駅員や運転士だけで動かせるものではない。通常運行できる完全な体勢でないまでも、なんとか電車を動かせる程度の準備をしていた、と考えるのが妥当だろう。
実際に、地下鉄の電力供給担当者は終夜体制で詰めていて、運行終了後も給電を絶やさないようにしていたことは事実だ。
とはいえ、避難民の命を救った勇気ある行動が現場判断だったのか、役所の指令があったのか、「地下鉄のシンドラー」が一体誰であったのかは、この際あまり重要ではない。
地下鉄職員もまた、杉原千畝やセンドラーと同様に、或いは彼ら以上に「寡黙な英雄」だったということだ。
英断を下し実行した戦時下の鉄道マンと、地下鉄によって命を救われた多数の人が存在したこと。そしてその人々が戦後復興に尽力し今に至っていること自体が、とても輝かしいことなのだ。
住所: 大阪市中央区心斎橋筋1丁目8-16
電話 : 06-6251-4460
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