
つねづね、「プチ自給自足生活」が良いと考えていました。「田舎暮らしの自給自足」は定年した自由人でもない限り勇気のいる行動ですが、プチ自給自足なら、都会でも一人暮らしでも気軽に始められます。その考えから、家庭菜園を始めたり、ソーラーパネルで遊んだりと、いろいろ試していました。
そんな折りに東北地方を襲った大震災が起こり、土壌汚染と原発事故との絡みで、東日本全体に「食料・エネルギー危機」が勃発しています。
そもそも、自給自足という概念と、今現在の社会システムである資本主義・自由経済とは相入れないものです。なぜなら、資本主義や社会主義といった社会システムのイデオロギーは「支配するため」のものだからです。つまり国家として、国民を支配し国を運営管理するための仕組みです。大多数の国民は、支配される側。一部の首脳が支配する側という構図です。それに対して、自給自足とは民衆が自らの手で生活していく考えです。つまり個人単位や村単位で自給自足が出来るならば、国家は不要という訳です。ですから、自給自足について学ぶ場は公立機関にはほとんどありませんし、自給自足がブームになる風潮も盛り上がりません。自給自足されると、国家としては税金が入ってこない訳ですから、推奨したくないのは当然です。
以上が、前提となる考え方です。ここで、この問題に関して論じた記事を引用します。
(引用開始)
・「なぜフクシマ後、日本人は半自給自足生活へむかうのか 東日本大災害」
- pikarrrのブログ(2011年4月16日)
(画像はhttp://eco.nikkeibp.co.jp/article/special/20090303/100913/より参照)
復興特需はあるのか
いまの原発は残るとしてもさすがにこのさき新設はないだろう。電力が足りなくなる→供給(生産)が減る→経済規模が小さくなる→雇用が減る→失業者が増える
通常の不況なら、公共投資への増額などで経済規模を大きくするという政策で経済を活性化される方法が取られる。リーマンショックなら、エコポイント、エコカー減税など。しかし今回は、電力不足という制約があるので、復興支援金が経済に落とされても、供給が足かせになり、経済規模の成長に限界がある。
だが生産(供給)はもっと柔軟な形態を取るかも知れない。たとえば工場の半分が夜間操業にシフトするとか、西日本へシフトするとか。働き者の日本人からすれはこれぐらいの柔軟さは問題ではない。復興特需によって短期には雇用は増加し、景気は良くなるかも知れない。
このさき原発の新設ないでやっていけるか
問題は中長期だ。1990年頃の電力ピークが5000万kw、昨年が6000kwということは、500kw/10年で増えている。1990年から生活は激変している。エアコンの普及、インターネットの普及、液晶テレビなど。そして今後も、オール家電、電気自動車、スマートフォンなどなど。次々と製品が納入されて、電気量は増えていく。
だから問題は脱原発ではなくこのさき新設しないでやっていけるかだ。これは単に便利になると言うことではない。このように新たに消費を喚起しないと経済は成長せずに雇用が確保されない。たとえば格差社会で低所得と言われている層も、充実した家電製品、情報機器がそろっているそして高い食物が買えないといってもいまは安い食品も十分おいしい。こういう生活のベースこそを「空気のような」安くて安定した電力供給が支えている。不況といっしょで影響を受けるのは低所得者層だ。
自由主義経済の繊細さ
自由主義とは経済を自由放任することではなく、国策だ。自由主義はとても繊細であり、誰かが維持管理しなければ生まれない。経済はたしかに管理不可能な生きものであるが、また人の経済活動の反映でもある。人は経済活動を行うとき、経済学指標を参考に行う。
人が自由主義経済を全面化させたのは十八世紀以降でしかない。それ以前は農業中心で絶えず自然の影響が大きかったからだ。すぐに自然災害が起こる社会では自由主義経済は成り立たない。
自由主義経済とは、貨幣交換によって成立する。労働者は労働を売って、現金を手に入れて、現金をもとに衣食住から余暇までまかなう。しかし自然災害が頻繁に起これば、生活必需品が安定して供給されるか怪しくなる。
今回の震災で、実際に被災していない首都圏でも買いだめパニックで物がなくなった。すなわち頻繁に災害が起こる場合には、金ではなく、現物が重要になる。逆に言えば、自由主義経済とは、なんでもお金で買えるように安定して商品が供給されるとても高度な状態によってしか成立しない繊細な経済ということだ。
自由主義経済より根深い経済活動
では自由主義経済より根深い経済活動とはなにか。自給自足と略奪と贈与だ。自由主義経済以前には自給自足と略奪と贈与が経済の中心だ。
自給自足と略奪と贈与を中心に経済活動を行う国を自由主義経済へ転換させることはものすごく大変なことだ。法制度、治安維持、国民の教育、そして産業の育成。かなり強い政府のリーダーシップがないとむずかしい。
たとえば後進国が一見、自由主義経済に組み込まれているように見えても、資源を目当てに先進国が一部の権力者と取引しているだけだったりする。国内では相変わらず、自給自足と略奪と贈与の経済であり、人々が貧しいままということは、後進国の一般的な形だ。
たとえば日本にしても、どこまで自由主義経済といえるのか。もともと日本は明治時代から自由主義経済を取り入れたときも、政府や財閥など主導であった。その傾向はいまも変わらない。
大災害の時に、ユートピアが立ち上がると言われる。(「なぜ災害時に「ユートピア」が立ち上がるのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20110209#p1)ここでいうユートピアとは、自由主義=自由競争ではなく、贈与を中心とした相互扶助の経済のことだ。今回、日本人が災害時に略奪が起こらないことを外国人が称賛しているが、通常、大災害時に略奪が横行するということだ。大災害という治安秩序が破れると、贈与と略奪が表れるのは、それらが自由競争よりも根深いからだ。
半農の自給自足生活
今回の震災によって長期的に電力が不足し続けるなら、経済を自由主義=自由競争のみに頼る必要はない。略奪はダメだが、自給自足と贈与へ一部シフトしてもいいのではないか。田舎の安い土地に住み、食料は自分でつくる半農の自給自足生活をすれば、電力消費量はぐっと減る。また最低限の衣食住には困らない。
一部を自由主義経済で現金収入を得て、医療や家電製品など、お金でしか買えないものを買う。それとともに重要なのが、自給自足生活は必ず贈与による助け合いの相互扶助が必要である。脱自由競争した人々が集まれば、自ずと立ち上がるだろう。
電力不足も災害と考えれば、半農の自給自足生活で乗り切るというのは、適切だと言える。現金より、生きるために現物と助けあいの贈与を重視する。ただ略奪などの治安維持、またいきなり半農の自給自足生活に適応出来ないから、政府におる補助は重要であることはいうまでもない。
今回の震災でも、日本人が略奪をしないとか、秩序をもって贈与関係を営んでいるというのは、一つには日本は自然災害が多い国だから、古くからの慣習として刻まれているんだろう。「日本人」という運命共同体は島国という閉鎖領域によって培われたとともに、昔からともに自然災害と闘いってきた歴史によってつくられてきた。
自然エネルギーとスローライフ
自然エネルギーの問題は、1安定性が低いこと。太陽電池は天気が悪いと電気が減る、水力発電は渇水が続くと減る。2 コストが高いこと。ドイツなど欧州で太陽電池が普及しているのは、補助金が出ているからだ。発電所の方が安いから日本では広まらない。
電力は単に必要量の問題だけではない。いまの自由主義経済の発展を支えるためには、「空気のように」安定して安い電力供給が必要であること。それを満たすのがいまは火力と原子力だけだ。このために自然エネルギーはあくまで補助的な役割になる。
しかし生活が半農の自給自足のようなスローライフになれば、必ずしも「空気のような」安定した電力供給は必要なくなる。自然の「気まぐれな」変化に、柔軟に対応することが可能だろう。逆に言えば、自然エネルギーを大胆に取り入れる生活とは、ある程度の脱自由主義経済が求められる。
魔法のような自由主義経済から抜けて
お金さえあれば魔法のように一瞬で欲求が満たされる自由主義経済から抜けられるか。成熟した自由主義経済ではそれは富裕層の話しではなく、低所得者においても商品に囲まれ享受している。半農の自給自足とは、多くの部分を自らの労力でまかなうことであり、自然環境の「気まぐれに」我慢強く付き合う生活である。
脱原発とは江戸時代へ戻ることだという人がいるが、ナンセンスである。電力が不足するだけで、豊かな生活環境がなくなるわけではない。農業にしても生産性がまったく違うし、自由主義経済による豊かさが基礎としてあるわけだから、再び、「マルサスの罠」にもどることはないだろう。
自由主義経済の成熟、高齢化、環境問題、そして今回のエネルギー供給の限界・・・歴史の変曲点に来ている。変化はすぐには起こらないだろう。生活環境や慣習は簡単に変わらないし、多くの痛みをともなう。その中で新たな日本人が表れてくる。
(引用終了)
ここでの論調は、前半でまず直近の問題である電力不足と、それが企業活動に与える悪影響を指摘。その結果、経済も雇用も停滞し、成長が止まることを危惧しています。そして、経済成長が止まると自由主義経済自体が機能しなくなる仕組みに触れ、最終的にはこれから「半農」の生活へ向かっていくと予想しています。順を追って見ていきたいと思います。
まず、電力が不足することで、企業の生産ラインが大幅に停滞するという点です。現状は、主なエネルギーである電力に多くを頼っている生産設備が主流ですから、電力の供給量が生産の上限を決める格好になります。これを日本経済全体の視点で見ると、電力供給量が経済規模を決めるということになります。そして日本は発電のための資源を輸入に頼っている(特に火力発電用の原油)訳ですから、その供給は不安定です。一番供給安定性が高いと言われていた原発の危険性が、一気に世界全体へ広まったいま、原発も火力発電も信頼性を欠いていると言わざるを得ません。
従って、「発電用エネルギーの供給量」が経済規模を決めるという言い方も出来ます。いま地球上のエネルギー資源の多くが、枯渇の恐れがある化石燃料に頼っています。そして、多くの国が自由主義経済という「経済成長が必須」であるシステムを採用しています。つまり、エネルギーが枯渇すると、国家システムが崩壊するということを示しています。ここで言うエネルギーとは、食料や水を含む、人間生活に必要な資源という意味です。
この「エネルギー不足が国家システムを崩壊させる」というXデーに、日本が一番早く近づいてしまった、という見方も出来るのかも知れません。
次に、自由主義経済よりも以前の社会について、記事では「より根深い経済活動」だとしています。つまり、より人類の古い活動であり、直感的なものであるということでしょう。そして、その活動の中心となるのは、自給自足と略奪と贈与だと述べています。略奪は現代国家では犯罪であって、過去においても不道徳とされていたはずなので省きます。すると、自給自足と贈与とは、切っても切れない一連の行為であったことが推察できます。
つまり、自然任せの農作物に頼った自給自足生活では、収量の多い家と少ない家の差が大きかったはずで、近所づきあいとしての物ぶつ交換があったと想像できるからです。それは農作物に限らず、衣食住に必要なすべてのモノについて言えるでしょう。着るものの縫製や、家の建築など、ある程度の専門化、得意分野はあったはずで、物ぶつ交換のように取引はあったと思われます。しかし、国家が国民を管理するというような「通貨」はなく、あくまでご近所での共生が主でした。「大災害の時のユートピア」という表現は、一時的に無政府状態になった被災地で、この旧来のご近所づきあいが発生したことを表しているのだと思います。
最後に述べられている「半農」や「自然エネルギーとスローライフ」という表現は私が考える「プチ自給自足」と符号するものです。つまり、完全な自給自足にいきなり移行するのは難しく、今までの生活を完全に変化させることは困難なので、経過措置として半農、私の言葉で言えばプチ自給自足ということなのです。プランター1個から出来て、TV1台をソーラー駆動化することから始められる、手軽な「プチ自給自足」こそが、これからの方向であると信じています。必要なのは、少しの知識と実体験だけです。まず踏み出してみることが大切だと思います。
●プチ自給自足
http://sevelle.net/spiritual/