
ここ数日は天気が悪いのと寒いのとで、クルマを運転できていません。暖房に当たりながら、読書などをしていました。たまには、読んだ本の感想などを載せてみたいと思います。
●日本人の知らない近現代史
歴史って難しいですね。
いくつかの本を読んで、改めて思いました。学校では絶対に習わない近代史があるということ。そして、それを知らないと、例え英語がペラペラになっても、本当の意味での国際人にはなれないということ。
学校では中学で日本史の外観は学んだものの、高校では社会科が選択制となっていて、私は地理を履修しました。
問題は日本史を、真っ正直に古い順に時系列に学んでいくことにもある気がします。年間の授業時間は決まっていますから、臨時学校行事や学級閉鎖など何か授業時間を減らすの事態があれば、最後が尻すぼみとなってしまいます。実際、私が唯一日本史を学校で習った経験は中学であるにも関わらず、何度が風邪やインフルエンザでの学級閉鎖があり、明治維新以降はかなり駆け足でした。その後は、受験に特に必要にならなかったため、日本史や世界史からは遠ざかっていたのが実状です。
近現代。今日本が直面している問題に対して、一番示唆に富んでいるのは、近・現代に日本が行ってきたことであり、近隣諸国との外交や金融・政治・文化交流にあると思われるからです。
そんな訳で、いくつか読んでみた本の中から一冊取りあげて、気づいた点を共有したいと思います。
★「日本封じ込め」の時代/原田武夫
まだ若い原田武夫氏の経歴は、外務省の元官僚。元外務省の著者ということで言えば、佐藤優氏も有名ですが、原田氏の著書も同様に知られざる内容が満載でした。本書の構成は、一般にあまり知られていない日本による朝鮮統治時代の戦略をまず紹介。それになぞらえて、次の章では現在の日米関係を紹介するというものです。この時点で、ピンとくる方も多いと思いますが、要するに現在の日本が、アメリカにどのようにして操られているのか、という仕組みを解説したものです。
まず、私が全く歴史で学んでいなかった韓国併合の際の、日本が企てた植民地経営について。この時の状況として、日本が朝鮮に置いた統治本部は必ずしもうまく万全に機能していなかったそうです。反日派の勢力もあり、時折大規模なデモや運動が起こることもあったとか。そこで、次のような統治戦略を考えます。本書から一部引用します。
(引用開始)
このとき、演壇から語る彼らに総監督府から課された論法は次の四つであったという。すなわち、
(1)「改革」と連発することで、将来の「善政」について人々に幻想を抱かせること
(2)反日独立運動者が徹底弾圧されていることを喧伝し、聴衆に日本への服従が最善であることを説くこと
(3)日本があまりにも強大である一方、朝鮮独立に対しては国際的な支援のないことを喧伝することで「朝鮮独立不能論」を説くこと
(4)官史のように日本の朝鮮支配への協力者は厚遇されていることを述べつつ、「共存共栄」を説くこと
である。
とりわけ、日本による朝鮮統治がもたらす矛盾を、「白人に対する黄人の団結」という人種的な議論ですりかえる論法は、きわめて頻繁に用いられていたという(中略)。それはいわば、1920年代の朝鮮総督府による政治宣伝における「共通語」「キャッチフレーズ」であった。
(引用おわり)
これを見ると、まさに現在の日米関係を思わせます。日本を「アメリカ」へ、朝鮮を「日本」と置き換えて読めば、そのまま当てはまりそうです。「白人に対する黄人の団結」というのは、「北朝鮮の脅威に対する日米の団結」というニュースでよく聞くセリフです。
さらに、「日本が仕掛けた罠」という項目には次のように記述されています。
(引用開始)
これら民族主義右派(引用者注:反日ながら現実主義として日本寄りの人たち)のリーダーたちは、「民族性改造」「実力養成」「自治」を主張した。そして総督府(引用者注:日本のことです)は、こうした主張を「穏便な民族主義」「文化的民族主義」と評価し、これと対抗しようとする民族主義左派(引用者注:完全な反日の人たち)と対立させたのである。(中略)その後も一貫して総督府が「文化政治」のなかでこうした態度をとり続けた結果、朝鮮人としての自意識を持った民族主義運動は、左右両派の対立、すなわち「内ゲバ」へと転嫁されていった。そして、これが激しくなればなるほど、民族主義右派は総督府に接近せざるを得なくなり、その術中にはまっていくのである。(中略)もはやこの段階で去勢さえた民族主義者右派たちは、彼らにとってつい先日まで「本当の敵」であったはずの総督府、そして日本政府の掌の上で踊る人形にすぎなくなっていたのだ。
(引用おわり)
これも、まさに今現在の日本でも進行している、アメリカによる日本経営にそっくりです。まず田中派(小沢一郎など)や鈴木宗男などの民族派の政治家を、メディアを使って徹底的に排除。アメリカ支配を脅かす恐れのある勢力は、あらゆる手段でつぶします。そして、骨抜きにされた民主党と自民党という二大政党で争わせ、まさに内ゲバへと転嫁されています。どちらの政党が政権を握っても、消費税などの増税を実施し、日本国民のお金を金融・経済の正規ルートでアメリカにお金が渡るように仕組まれています。しかしこのような仕組みを構築した、「本当の敵」であるはずのアメリカには矛先が向かないように、歴史教育が設計されています。
実際学校で学んだ近代史と言えば「日本は間違ったファシズムに走ってしまった。そして近隣国に多大な迷惑を掛けた。二度と武力に頼ってはいけない」というものです。本当にそうでしょうか?本書を読むと、これはアメリカが日本経営の長期化を図るための布石だということが分かります。
本書では、アメリカ側の顕著な例として「金融」と「メディア」による支配を挙げています。金融面ではジョセフMドッジが仕掛けた、日銀に政府名義で特別勘定を設置するという、後々まで日本のお金を融通できる仕組みが紹介されています。この他にも、為替レートで日本企業の貿易収支をある程度コントロールできる仕組みや、日本の利益であるはずの外貨準備高を自由に使えない仕組みなどが有名です。
メディア面では、日本テレビ(4チャンネル)がアメリカの意図によって作られたということを紹介。詳細は「日本テレビとCIA(新潮社/有馬哲夫)」にあります。これ以外にも、電通がアメリカの軍産複合体によって、資金面を握られることでコントロールされていることが有名です。日本のメディア構造は電通と博報堂がピラミッドのトップで、放送局や紙メディアなどがその下に収まるという格好ですから、業界トップの電通が押さえられているというのは、致命的です。
この本書で指摘されている「金融面」「メディア面」の他に、私は「軍事面」が大きいと思います。日本側には第9条を持つ平和憲法を植え付けることで軍事的に無力化し、それとは矛盾する米軍事施設を日本国内に設置するという手法です。
日本本体には防衛手段を持たせないようにした上で、安全保障条約を結んでいる訳ですが、これを「日本はアメリカに守られている」と教えられるようになっています。実際には、二国の共通の脅威に対してのみ在日米軍は動くことが出来きるのであって、その決断にはアメリカ本国の決定がないと動けません。世界の視点で見れば、アメリカが日本のために守るということは一切なく、その反面アメリカ軍に日本が土地を無償提供する、ということはきちんと明記されています。この事実が国民に知らされないのも、メディア戦略のひとつでしょう。日米安保条約の文書を読むと、これらは明記されています。
アメリカがもっとも恐れることは、日本・中国・韓国・北朝鮮・台湾などの東アジアが一致団結することです。経済の面でも軍事の面でも、アメリカにとって地勢学的に最も痛いのがこれです。そのため、メディアや軍事力、諜報機関などを使って、分断しています。実際、日本は中国・韓国を嫌い、韓国は中国・日本を嫌い、中国は韓国・日本を嫌うようになっています。これに北朝鮮、台湾なども加えて、くっつくことのないように注意を払っています。
このアメリカの意図を知っている民族派の政治家は、東アジア共同体構想などを打ち出していますが、今のところアメリカの力によって押さえ込まれているようです。本書に太字で書かれている、次の一文が印象的です。
「日本は米国による『日本管理』から独立してはいない。むしろ、そのもの自体では目に見えない何らかの手段によって、そのことに気づかされていないだけではないだろうか」
冒頭でもぼやいた通り、歴史は難しいものです。それは、教科書や本、テレビや新聞で語られている歴史が必ずしも正しいとは限らないからです。教科書問題にもあった通り、教科書に載っている歴史記述はあくまで日本が公式に認めたものであって正しいものとは限りません。例えば日本がアジア諸国へ侵略したとされる件については、侵略された側の国の歴史教科書には全く違った視点で書かれいるでしょうし、第三者である国の教科書にもまた違った書かれ方をしているでしょう。それもそのはず。ある事件も、立場が違えば見解が違うのは当然なので、一切主観を含めずに事実だけを書き記すというのはとても難しいことです。よく「歴史は勝者が作る」と言われますが、実際その通りでしょう。戦争に勝った国は賠償金を請求するだけに留まらず、植民地経営の手法として教育にも手を着けるのが普通です。そこで、教科書やテレビ、新聞、書籍、映画といった様々な媒体を使って勝者の歴史を刷り込みます。
また感情を纏った記述になることも、よくあります。家族や先祖を、その事件によって失った人は、その事件を「侵略」「暴力行為」だと捉えるでしょうし、その事件を起こした側は「必然性があった」「価値観が正当に勝利した」「最小限の損害でくい止めた」などと捉えるでしょう。それに、同じ規模の暴力であっても、暴力を受けた側は忘れにくく、暴力を働いた側は忘れやすいという性質もあるそうです。
これらのバイアスは、歴史にとって避けられないものです。感情を持った生身の人間の歴史なので、ある意味当たり前かも知れません。必要なのは、こうしたバイアスがあることを知って、それを前提として学ぶ姿勢かも知れません。つまり、1つの歴史教科書だけから学ぶのは危険であって、同じ事件でも複数の視点から学ぶことが、誤解を少なく押さえる方法だと思います。
歴史を見て、つい感情的になることは多いものです。特に被害者側の歴史を強調したものでは、そのようになりがちです。しかし、感情的にネガティブになるだけなら、最初から歴史を知らない方が良いのでは?とさえ思えます。むしろ歴史はただ「ふまえる」ものであって、それを教訓としながら未来に何をするかということが大事だと思います。感情論に陥らずに、方法論として歴史を見れば、今現在にでも生かせる知恵がたくさんあるように思えました。
本書の感想は以上です。他にも過去読んだ本の感想などをこちらにアップしていますので、宜しかったらどうぞm(__)m
http://servelle.main.jp/320/