私として氏の考え方についてはとても感銘を受けました.
しかし問題あるようでしたら即刻削除致します.
またコメントについても答える立場に有りません.
今私と交流がある若い人達が免許を取るずっと前の話である。
速いと言われている人に共通する条件はいくつかある。彼らは練習量が多い。それに練習の質もよい。質のよい練習を積む為に考える癖を持っている。つまり頭がよいという事だ。
私の先輩は、自動車部が走り屋と異なるのは技術を伝承する事であると言っていた。私が走り始めた頃の先輩諸氏は皆我流で走っていた。確かに”前荷重”という単語は連呼されていたし、その概念も口頭で伝承されていたが、論理的に説明できる人間は皆無だったし、その必要も無かった。伝承された技術など全く無かったのだ。
しかし皆それなりに速かった。それは練習量により支えられていたと言える。
飛び抜けて速い人の練習量はさらに多かった。こういう人は自分の練習量の大半を無駄だと言った。そして無駄な部分を排除した技術を伝承する事で後進はより効率よく速くなれると私や私の先輩達に説いた。
この先輩は幾度も練習会を開き、しまいには自分の車さえ貸し出す程の熱の入れようだったが、氏以降に劇的に速くなった後輩は現れる事は無かった。
練習量を稼いで皆一様にそこそこ速くなれた理由の一つに、車種が一様だったということもある。解体屋から車を買って先輩から後輩へと受け継いでいた時代は車の選択肢が狭く、練習量が同程度なら速さも同程度であった。当時の自動車部では2速→1速のヒールアンドトゥを身に付け、さらに2速のカーブを無駄なく曲がれるようになればタイムは似たり寄ったりとなる。
昔は余計な情報が無かったから練習熱心だった。まず、先輩か解体屋以外に車を手に入れる手段が無かったから車種に対して欲が無かった。自分の車のスペックすら知らない部員もいた。ショックやデフといったパーツも知らないから特に欲しいと思わなかった。車種が限定的なのでこれらのパーツはガレージに転がっており買う必要も無かった。タイヤだってみんな同じようなサイズだから経済状態に合わせて他人と融通できた。そして自動車部以外に金を食う趣味が無かった。つまりガソリン代以外に金を使う必要がなかったのだ。
皆似たような環境だから練習してタイムアップすればそれは技術の向上と呼んでもいいだろう。
問題は極端にパフォーマンスの劣る車に乗る場合だ。同じ技術レベルで軽自動車を運転しても1600ccと同じタイムは出ない。私がそうだった。もちろんそんな事は周りも承知している。先輩は「おまえの車が遅い事はみんな知っている。だから絶対に車を言い訳にするな」と私に言った。私が運転技術の理論化に執着しはじめたのは車の差を技術で埋めようとしたからである。
現在はいささか状況が異なるようだ。
オークションで好きな車を購入できる一方で欲しい車を安く買えても維持費を払えない人間がいる。その解決策が練習量の削減である。情報は溢れているからいつでもパーツを購入できる。しかしそれを使いこなす知識と技術がない。練習内容は昔と変わっていないのに皆がバラバラの車に乗るからタイム差が常に発生する。そしてそれを当然の事としている。つまり欲しい車に乗る事で得られる満足感がタイム差を縮めたい欲求に勝ってしまっているのだ。
そんな中、偶然過去と似たような状況になった時期がある。部内にS13シルビアが2台発生したのだ。互いにライバルとなる事で持ち主の2名はようやく危機感を持ったようだ。
なりふり構わず速くなりたいという彼らに私は持っている理論を全て投入した。そして短期間に彼らは見違えるほど速くなった。何世代かに渡って続けると、これまでに無いくらい速いドライバーが育つ事は間違い無いだろうと確信した。
が、
まるっきり応用の利かないドライバーが完成してしまった。
彼らは数日間晴天続きで路面コンディションが最良の時は最高のタイムを出せるが、少しでも路面コンディションが悪くなるとタイムを残す事はおろか完走すら怪しいという状態となる。
かつて先輩が私に言った「練習のほとんどは無駄」という言葉の意味を取り違えていたのではなかろうか。練習によって得られたエッセンスだけを抽出して与えて、少ない練習で同じ技術を身に付けられるならそれに越した事は無いが、経験値が減ってしまっては意味が無い。練習方法を探す為の練習は結果的に無駄となるが、模索の上確立した練習方法によって得られる結果よりも、その練習方法こそが必要だったのだ。そして私はそれを誰にも教えていない。
今は当時強化された連中が後輩の指導をしているようだが、聞きかじりのエッセンスを口頭で伝えても何も生まれないだろう。暗中模索の時代はしばらく続きそうである。
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今回の話もハイエンドの方は対象にしていない。
車部にしても走り屋にしても運転技術の習得はスポーツドライブの基本素養である。その技術はおおまかに二つの段階に分類されると思う。ここで細かい技術論を展開する気は無いので簡単に説明する。
第一段階は運転のメリハリをつける事だ。直線は目一杯加速してカーブの手前で安全な速度まで減速する。運転者はやがてタイムを縮めるにはカーブの進入速度の見極めと、無駄の無い減速の為のブレーキングポイントを知る事が重要だと思うようになる。さらにその為にヒールアンドトゥなどの基礎技術も身に付けなければならない。
練習を続けていると、ある壁にぶつかる。進入速度を上げてもアンダーステアが出るばかりでタイムが縮まなくなるのだ。この壁にぶつかった時、運転者は自分の車が限界に達したと感じる。タイム差は車の性能差である。より加減速旋回性能に優れた車に乗り換えるか、手持ちの車の基本性能を引き上げない限りタイムが縮む事は無い。
多くの人は自分の車が好きなのでチューニングという手段を採る。加速性能を上げるにはブーストアップ、減速性能を上げるにはブレーキ装置の交換、旋回性能を上げるには高速対応サスペンションと接地面積を補うハイグリップタイヤ装着となる。これでまた次の壁に向かってタイムを削るのだ。これ以上チューンしてもタイムが縮まなくなった時、それが車の限界であり乗り換えの指標となる。
このレベルの運転者には共通した特徴がある。タイム差には車の性能差がそのまま反映される事と、走り慣れないコースでは全くタイムが出ない事だ。
第二段階の存在に気付く人は稀である。
ここでは第一段階の方法論を完全に捨ててしまわなければならないが、第一段階の壁にぶつかった人間しかたどり着く事はできない。
まずハンドルを切っただけでは曲がらない速度で進入する事から始まる。四輪のグリップバランスを荷重移動により故意に崩す事で車を曲げる。感覚で身につけてしまう人もいるが、努力で見つけ出すにはメカニズムへの深い造詣が必要だ。チューニング策よりも速く走れるのは間違い無いが、より多くの練習時間を必要とする。
このレベルの運転者に共通する特徴は、どこを何本走っても同じリズムで似たようなタイムしか出ない。
世の中、第一段階で止まってしまう人のなんと多い事か。それは車の性能の限られた部分だけを見ているに過ぎず、運転者の技術論が入り込む段階ですらない。それが世間で言われる”ドラテク”の実態だ。
私は走り屋の車の楽しみ方は正しい方法の一つだと思う。彼らは勤労者が多いので週に何度も練習できるわけではないし、世間体もあるから日常的に使う車をぶつけるわけにもいかない。そういう人達がより速く走る為の手段としてチューニングは有効な方法だ。
金が無い連中は、全ての資金をハイオクガソリンと普通タイヤとやや良ブレーキに費やし、平日の睡眠時間を空いた道路での練習に費やして技術を磨くのが良いと思う。将来働いて並の性能の車を買えるようになったら圧倒的な強さを得られるはずだ。
その為に若い連中にヒントを与えてきたつもりだった。昔の先輩達が言う技術の伝承とは、この理想形を示していたのだと思う。皆がそれぞれ手探りでもがいていた時代は第二段階へ達する人は稀だったが、何らかの形で第一段階の壁をわずかに超えて独自の技術を確立していた。
技術という無形財産を築き上げるにあたって、我々には偏執的なまでに金に頼らない事を良しとする空気があった。ハイグリップなタイヤでタイムが縮んでもそれは当然の結果であり技術の向上ではないと自信を持って言えたのは、貧乏人の集まりなので中途半端に金をかけるくらいなら全くかけない方がマシだという消極的な理由よりも、技術への素直な感動があったからだ。
その感動は助手席に乗っている時に得られる場合が多い。同じ目的に向かって手探りでもがき続けたライバルに「すごい!」と思わせる技術は、タイムという単純な物差しでは計れない。その感動をタイムとして感じられる時があるとすれば、同じクラスの車で圧倒的なタイム差を発生させた時と、同じタイムを圧倒的に劣る車で発生させた時だ。
レギュレーションを満たす最低限の車が用意できないから、貧乏な自動車部員は外部の競技で活躍できない。そこで努力の結果をぶつけ合う場としてタイムトライアル形式の地稽古を開いていた。私はここで貧乏人同士の戦いは車の差よりも技術が重要である事を証明してきた。
今の人達はタイムこそが全てだと言う。私はこういう考え方も良いと思う。タイムを追求する事は技術の追求に他ならない。競技など対外的に通用する総合的な実力は、技術の修練と適切な車の準備の両立が要求され、技術のみの追求よりも厳しい道である。
しかしながら、彼らは運転技術と車の性能が両方とも要求されるものと考えず、等価交換可能であると思っているから、性能が劣る車で技術を磨いて高性能な車に追いつく事に魅力を感じない。一方で2000ccターボ4WDのような圧倒的性能を持つ車でタイムを出すのはずるいと言う。
さらに連中は、同じ排気量で過給器付きの車と自然吸気の車が同じタイムなら、自然吸気の車を駆る運転者の方が腕が良いと言うくせに、軽自動車で普通車に追いつく為の努力の多くは無駄だと言う。
この矛盾はなんだ。
技術を磨かないから誰一人として第一段階の技術域を抜け出すものはいない。そのレベルでは車の差が全てを握っているので、性能差によるタイム差の発生を当然の事だと思い、同クラスの車以外はタイムを比較しない。地稽古では車種ごとにハンデを設定しているから呆れてしまう。一見走り屋のように見えるが、性能至上主義のくせに誰も車に金をかけない。それで走り屋の事を小馬鹿にしているから始末が悪い。
ではタイムが遅いかというと地元ではそうでもない。今どきの人が乗る車では、助手席で見ていて別段技術を要するとも思えない運転で、先人達が苦労して出したタイムを叩き出してしまう。中にはそれに危機感を覚える若者もいるが、多くの若者はそのタイムを見て先人達と同じレベルに達したと思っている。
こうして見ると、自分達に都合の良い世界を作っているのがよくわかる。走り屋にも自動車部員にもなりきれずぬるま湯につかっているだけではないか。
何よりも大きな問題は技術に感動を感じなくなってしまった事だ。助手席で直接見ながら上手い運転とそうでない運転の区別ができなくなってしまっている。
感動を与えられる技術を持つ人間がいなくなったって?
耳が痛い。