前回に引き続き自動運転絡みのお話。
ふっと浮かんだ考えだけで書き始めると,だいたい最後がまとまらない。
思いつきを記事にするってやっぱり難しいわぁ。
自動運転はじめ,AIや自動化に関わる現在の技術開発は,どうも人間否定の臭いが気になる。
「人間より優れている」機械に何でもかんでもやらせればいい。そうすれば間違いがない。
言い方を変えれば「ミスをする人間は運転などするな。機械に全て任せておけ」。
多くの自動車メーカーはそこまでどストレートに考えてはいないだろう。やや半信半疑感が漂う。
しかしGoogleの自動運転なんかは,もはやそう思っていることを隠そうともしていない。
日産も正直そこはかとなくソッチ系の臭いを感じる。CMだけでの判断だが。
運転は正確無比な機械がやればいい。人間が手を出すべきではない。
――そうかな?
「人間より優れている」部分が機械にあるのは事実だろう。
だからといって「全てにおいて人間より優れている」と考えるのは,発想の飛躍,技術の驕りだ。
「機械より優れている」人間の能力,あるいは可能性。
そういうものを諦めたまま,自分の考える理想を無思慮にばらまいてはいないか。
理想を追い求めて視野狭窄に陥った技術は,ときにカルトの様相を呈する。それも無自覚に。
「人間はミスを~~」のくだりで思い出した作品がある。
神林長平の戦闘妖精雪風シリーズである。聞いたことがある人もいるかもしれない。
ジャンルとしてはSFミリタリーにあたるが,全編に渡り哲学色の強い作品である。
人間とは何かを,人工知能(戦闘知性体と呼ぶ)との関係の中で描いていく,相当ディープな内容だ。
異星体との戦いの中で,人工知能を搭載した戦闘機たちは成長し,進化をしていく。
そのうちに戦闘知性体たちは,脆くてミスをする人間というものを邪魔だと感じ始める。
人間たちの中にも「有人では勝てない,無人機に戦いを任せるべき」と考えるものが出てくる。
主人公の深井零が乗る<雪風>もまた,一度は人間を邪魔とし,零を排除する行動を取った。
1巻は,墜落した<雪風>が零を残し,新型機に自己データを転送して飛び去るところで幕を閉じる。
しかし2巻で,異星体の戦略の変化もあり,<雪風>たち戦闘知性体は人間の存在を見直し始める。
人間の知覚,思考と判断,行動と操作。それらは機械にとっては異質である。
異質であるが,それは機械には入手できない,有益かつ貴重な情報だと気づいた。
人間の認知・判断・操作を,自らが生き残っていくために必要だと見なしたのである。
そしてそれは,人間の側も同じであった。
やがて,零と<雪風>,および彼らの部隊員たちは,戦闘知性体と特殊な共生関係を築いていく。
機械と人間が互いを認知しあい,それぞれの視点から見た世界情報を共有しあう存在。
作中ではそれを「複合生命体」と呼称している。
「互いに自律しよう、余分な負荷を互いにかけることなく、最高性能を発揮せよ」
これは共生であって依存は許さないと,作中で<雪風>が零に促している(by零の独白だが)。
事故ゼロの交通社会実現のため,人間と自動車はどのような関係たるべきか。
そう考えた時,この「複合生命体」があるべき姿なのではないか,と感じた。
人間と機械の両者ともが,それぞれ自らの手法で状況を認知すること。
認知で得た情報を共有しあい判断を下すこと(どこで?と考えると人間の脳内だろう)。
判断を元に人間が操作を行い,機械はその意図通りの動きをするよう精密な支援を実行する。
どちらか一方に大きな負荷をかけるのではなく,両者ともがやるべきことをやること。
人間と機械の共生による運転能力の拡張だ。
機械は,人間単独では収集し得ない情報を集め,咀嚼して提供し,操作の手助けをする。
ただし余計な手出しはしない。過保護は人間を堕落させ,トータルでの性能低下に繋がる。
大切なのは「人間に主体的に運転させること」だ。それも懲罰的にではなく。
運転させるには,人間が運転に集中しない、あるいはできない要因を取り除く必要がある。
そのためには人間を認知し分析するための高度なインターフェイスが不可欠だ。
機械に人間を観察させる。その状態によって支援レベルを可変させれば安全性は高まる。
意識が飛んでいると判断したら,近くの安全な場所まで自動運転で行ってくれてもいい。
まぁ細かい部分のやりようはなんでもいい。今回はあくまでビジョンの提案だ。
人間に寄り添い,人間と一緒になって,高度に最適な形で自動車をコントロールする機械。
事故ゼロ社会のために必要なのは,このような高度な運転支援システムではないだろうか。
機械におんぶにだっこで,堕落した人間ばかりになった社会で事故が起きないとは思えない。