2005年03月01日
とはいっても、別に恋患いや物欲という訳じゃない。
や、それはないって訳じゃ、ないんだけどね…(^^;
何時かはしっかり書きたいと思いながら、日々の雑事に追われ記しそびれてきた想い。
それは、ネット上での他者批判や非難のあり方とかに関する話。
あくまで個人的な意見で、同意や反論を求めてのことじゃない。
ただ、余りに見当はずれや場違い、論外の批判とかを観る度に思い出したように湧き起こる。
蒸し返すとか何とか、色々意見もあろうけど。
良い題材でもあるので、昨今槍玉に挙がってたあるグループの団体行動、並びに何処そこ彼処で慣習的に常用されて来た、とある語句の用法の場合でみてみると...。
共に目立っていたのは、各事象の中心人物や目立った存在、あるいは極限られた一握りの集団のみを狙った批判と、集中砲火的な非難の展開。
確かに、時と場合によっては特定個人や限定された集団等を諭し、その言動他を正さねばならないこともある。
その個人や限定された集団とかが万人の目で見て常軌を逸し、公共良俗や常識、公の利益等に反すると目され、判断されるような場合は当然のことと私も思う。
ただ、考えてみて欲しい。
先の事例は、はたしてそういう対象なのか?
まっとうな判断力や良識、理性、行動理念等を備える社会人が何十何百名も集ってなした(あるいは、なしてる)行動の、その正当性や良識等が、ある特定個人や一握りの人達に対して問われるべきことなのかな?
例えその中心が企画し、立案し、集った人達に発した行為や発言等が一般良識や正当性を逸脱したものであったとしても、それを受けた者達にそれを拒否し、意見を差し述べ、正す余地や権利、能力等々が一切合切なかったとでも?
あのイベント内で批判や非難等に値する行為や事柄が例えあったとするなら、それを問われるべきはその行為に同意し、共に実行した参加者全員のはずじゃないのかな?
2つ目の「とある言葉」に関しても、その用法等が問われる必要があるとするなら、それはその発端や常習者に対してだけじゃない。
それに思いを巡らせなかった者やそれを見過ごしていた者、容認していた者達等が全て対象であって、必要があるなら偏ることなく、公に開かれた場で、広く公明正大に訴えることだろうと私は思う。
これらの個々の事象に関する是非はまた、別問題としてね。
最近、ここでも自分達の言動等を改めて考え直し、見直す場や動きが起きてきたみたい。
これは好ましいことだし、実際に意味あることじゃあるけれど。
今回のような、はき違えた個人や個別批判がこうした動きを引き出した等と、更にはき違えが上乗せされた正当化とかが例えあったとすれば、私は絶対に認めない。
こうした動きは飽くまで自発的な結果であって、災い転じて…の諺どおりの事例でしかない訳だから。
ネット環境で起きる批判や非難、忠告などの類は、個人的な付き合い上でのそれとは全く違う。その対象や題材とかの見極めをほんの少し誤るだけで、それこそ取り返し付かない、とんでもない事態を産んでしまうことは実際に多々ある訳です。
人や物事を批判する時というのは、今一歩、慎重になるべきじゃないのかな?と私は思う。
などと、最近日々思いを募らせていたので、長々と書いてみました。(汗
これみる機会があった人は、それぞれで今一度、見つめ直してみて貰えると嬉しいです。^^;
Posted at 2005/03/01 16:31:17 | |
トラックバック(0) |
雑感 | その他