2011年10月25日
偉大なるR32を超えるのは同じ血を引くGT-Rでしかない
スカイラインGT-Rはあくまでもスポーツセダンであり、その枠の中で如何に高性能を求めるかというのが与えられた課題なのである。
従来にない高い目標性能と、とびきりのハードウェアを用意してそれをがむしゃらに実験で煮詰めていくという方法を取ったのがR32GT-R。与えられたハードウェアの性能を100%発揮させて目標性能を達成するため、実験しながら腕力でボディ剛性など土台となるハードウェアを作り込んでいったのがR33GT-Rといえる。
R32GT-Rでは目標性能に対して使用するハードウェアで得られる性能が、セダンとしてのディメンジョンの不利さを充分カバーするものであった。それに対してR33GT-Rの開発では、追加されるハードウェア(アクティブLSD、電動HICASなど)による性能向上に対して、ディメンジョンの不利さ(車重、ホィールベース長さ)が、相当にボディブローとして効いていたのである。
車重が重ければ動性能の3要素(走る、曲がる、止まる)すべてに悪影響を及ぼし、ホィールベースが長ければ回頭性を下げ(ヨー慣性が大きくなるため)、ボディ剛性を低下させるのである。基本ディメンジョンが不利な中で、高性能を如何に達成するかが開発チームに与えられた課題であった。言葉を換えれば、R32GT-Rではハードウェアのポテンシャルが目標とする性能に対して充分に高かったが、R33GT-Rでは、ハードウェアの持つ能力を使い切らないと、その目標達成が難しいということであったのだ。
R32GT-Rの開発では現行車と比べる必要もなく、当時目標とした性能は従来の概念を遥かに超えるものだったので、到達したレベルに当時は満足することができた。しかしR33GT-Rの開発ではR32GT-Rという比較対象車があるため、同等レベルの性能では許されるはずもなく、さらに高い目標性能を立てて、それを達成する手段をどうするかという、この点で生みの苦しみがあった。
この最初の企画段階の違いが、R32GT-RとR33GT-Rの最も大きな差違といえる。R32GT-Rを突然出現したエリートに例えるなら、R33GT-Rは偉大な父親を持つ優秀な二代目というところか。R32GT-Rは、それまでのスタンダードを塗り替える存在であったため自分の土俵で勝負できたが、R33GT-RはすでにあるR32GT-Rという土俵の上で戦うことを強いられながら、新しい土俵を作ることも期待されたのである。
「最新のポルシェが最良のポルシェである」というのは定説であるように「最新のGT-Rが最良のGT-Rである」というのもまた認識としては正しい。
しかし、最新は必ずしも「最高=傑作」とはいえない。72年のポルシェ・カレラRS2.7は性能的には最新の911GT3には敵うべくもないが、まるで慣性がないように鋭く吹き上がるエンジンや踏んだだけ効くブレーキのの素晴らしさは勝るとも劣らないものがある。性能的には最新の911には劣っても「志」や「夢」を持たせるという点では、40年近く昔に作られたクルマの方が遥かに乗り手に迫ってくるものがあるのだ。発進加速では現代の軽自動車にも遅れをとりかねない、S54B(スカイライン2000GT-B)やGC10(ハコスカ)GT-Rが、今もなお大切に乗られている理由の大きな一つは、その時代をリードしたコンセプトとモータースポーツにおける活躍にある。昔憧れたクルマという理由だけではなく、本物だけが持つ輝きが光るのである。
R32GT-Rは、そのエポックメーキングな登場と、グループAレースを29勝無敗=4年連続チャンピオンで席巻したその事実がエバーグリーンな存在にしているのである。「優れた素質(特に運動性能という観点で)=合理的に計画された車両レイアウト+近未来を見通したハードウェアの採用」と「これが我々の望むGT-Rだと納得させることができるスタイル」を与えられたとき、新しいGT-Rは再度名車と称されるであろう。無論、これにプラスして活躍し得るレースフィールドが与えられて、圧倒的な戦績でチャンピオンを獲得することがスカイラインとしては望まれる要件である。しかし、あくまでもスポーツセダンでなければならない。
スポーツカーとスポーツセダンの違いは何か。もちろんスポーツカーは運転を楽しむための2シーターあるいは2+2で、車両の基本レイアウトは動性能(走る、曲がる、止まる)を最優先にしたものである。一方、スポーツセダンとは、前席が優先されるが4人が長距離を移動しても苦痛を感じない程度の居住性を確保し、かつ動性能はスポーツカーに匹敵するものを持つクルマと定義する。加えてスポーツセダンは4ドアセダンか、4ドアをバリエーションに持つ2ドアの4シーター以上のクルマと定義できる。
この定義に沿って分類すると、例えばポルシェ911やフェアレディZはスポーツカーであり、BMW M5はスポーツセダンとなる。フェラーリ612は4シーターでもスポーツセダンとは定義されない。
それではR35はどうなのか? V36が4ドアのバリエーションと考えればやはりスポーツセダンと定義して良いのではないか。スポーツカー以上のスポーツセダンというのが相応しいだろう。
スポーツカーは、前席2人の居住スペースを確保すればよく、パワートレーンのレイアウトやホィールベースの選び方の自由度は高い。前後のタイヤの間、つまりホィールベース間には1列または1列+α(最低限の後部座席スペース)のシートを配置することができれば良いので、ホィールベースを短くすることで車両全長をあまり伸ばさずにエンジンをリアミッドシップ搭載することは比較的簡単である。
これに対して、スポーツセダンではホィールベース間にシートをフルに2列配置しなくてはならず、ホィールベースはある程度の寸法を確保する必要がある。4シーターでリアミッドシップレイアウトを取ると相当にホィールベースが長くなるので4人または5人乗りのリアミッドシップセダンはフェラーリなどでごく一部採用されているに過ぎない。
第15話終了
いよいよ次回が最終回になります。
Posted at 2011/10/25 11:07:20 | |
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R32 | クルマ
2011年10月20日
スポーツセダンという枠の中で常に最強を求め続けるGT-R
ポルシェ959という仮想ターゲットがあったにせよ、日産としては未知の領域の開発に挑んだのがR32GT-Rであった。
企画から設計段階までは一応、机上検討で性能予想をしていたが、実際に試作車できて実験を始めてみると、何もかもが未知の世界で手探り状態であった。R32GT-Rのために用意したハードウェアは当時の量産車としては常軌を逸するほどのものであった。それは、10年経ってR34の時代でも充分通用するどころか追従するものがいなかったという一例を挙げるだけでも理解してもらえると思う。
初代GT-Rがそうであったように、孤高を守ることがGT-Rという称号には要求されているのである。他社が安易なハードウェアで280psという出力だけで追従しても、走る速さやそれを持続できるという点で足元にも及ばないのは、このような理由によることなのである。もちろん、ハードウェア以上にマンパワーを投入した作り込み性能が重要なのは当然である。マンパワーを投入したというのは正しい表現ではない。スカイラインを作り上げることに情熱を持った男たちが、損得を忘れて情熱を傾けたというべきであろう。
R33GT-Rはこのようにして作り上げたR32GT-Rのハードウェアを基本に改良したクルマである。目標性能はR32GT-Rを基準として如何にそのレベルを引き上げるか、そのためにはどのようなハードウェアを追加するかということが課題であった。そして目標性能に対して足りない性能、例えばボディ剛性などは実験しながら補強していくというやり方だった。
R32GT-Rで課題であったアンダーステア問題の解決にしても、重量配分という本質的な問題にはある程度目を瞑って対応する必要があったため、サスペンションとしては前後のバネレートを調整して前後のグリップ性能のバランスを取ることでアンダーステアを弱めるという方法を取らざるを得なかった。
しかし、誤解しないでもらいたいのは、だからといってR33GT-Rで得られた性能の次元が低いということでは決してない。それどころかR32GT-Rでは足元にも及ばない性能をR33GT-Rが有していることは明白な事実である。これはN1レースでの速さのレベルアップ一つを見ても容易に理解できる。
量産スポーツセダンである限り、GT-Rといえども採用できるパワーユニットは限られるし、パッケージングもセダンとして守るべき線を逸脱することはできない。理想的な動性能を得るためのレイアウトを採用するわけにはいかないのである。そのような制約の中で、従来のR32GT-Rを越えるGT-Rを作るために、エンジニアとしての本音はこの部分に手を付けたいところではあるが、そうなると日産GT-Rを作ることになり、スカイラインではなくなってしまうのである。この日産GT-Rとするか否かは、実はR34GT-Rを企画した頃から日産内で議論されていたテーマである。GT-Rが進化して目標性能が上がれば上がるほど、標準車であるスカイラインとコンセプト、それを実現するためのハードウェアの乖離が大きくなっていくのである。これはR32のときから一部で言われていたことだ。「GTS-tとGT-Rは同じ車系とは思えない」と。
実際にそこまで割り切りをし、踏み込んで作られたのが2007年秋に発表されたR35GT-Rである。スカイラインV36とは袂を分かち、独立した車系のスーパースポーツとして誕生している。
R33スカイラインは95年、96年と2年間に渡りルマン24時間レースに挑戦している。当時のルマンの規則では、同一車系に4ドアが存在する車両はGTとしてのエントリーは認められなかった。そのため、R33GT-Rをベースの「日産NISMO GT-R LM」という独立した車種を仕立てて1台車両を製作し、イギリスでロードカーとしてナンバーを取得して車両公認を得ている。R33に対してFR駆動化、前後トレッドの拡大などの改造を施している、この程度の改造レベルなので、誰が見てもその姿はR33GT-Rそのものであった。このようにしてルマンに挑んだのであるが、相手はマクラーレンF1GT-RやTWRポルシェといったスーパーカーやプロト車であり、残念ながらレースでは勝負にはならなかった。
このような経緯を経て、97年は優勝を狙えるGT-1クラスにR390というスポーツカーを用意して挑んだ。これは総合優勝を狙うためにはスカイライン=スポーツセダンを超えるパッケージングが必要であったのがその理由なのである。そう、R390は言うならば日産GT-Rともいうべき車両であったのである。
第14話終了
Posted at 2011/10/20 09:44:27 | |
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R32 | クルマ
2011年10月15日
グループAレースデビュー戦は驚異的な速さでライバルを圧倒した
90年2月に行った西日本(現MINE)サーキットでのテストまでには、レース本番車であるリーボック号、カルソニック号が完成した。そして、レースドライバーの運転で、ともに1分13秒台でラップしている。同時にテストした開発用車両は1分16秒台で、そのときライバルに想定していたフォード・シエラもほぼ同様のラップタイムを記録していた。この時点で、当面の敵であるフォード・シエラをぶっちぎる目処が立ったわけだ。
3月18日に上記の西日本サーキットで1990年シーズンのグループA第一戦が行われた。この日は、復活したGT-Rの走りを見にやってきた観衆でサーキットは埋め尽くされた。駐車場は車で溢れ、レース後は駐車場から出るのに数時間かかったということである。前日に行われた予選では、リーボック号(長谷見/オルフソン組)、カルソニック号(星野/鈴木利男組)ともに1分12秒台を記録してフロントローを独占した。第三位はフォード・シエラで1分14秒台であった。
決勝レースもこの2台が終始レースをリードし1-2フィニッシュを飾った。特に優勝したカルソニック号は、全車をラップ遅れにする完璧な勝利であった。3位に入ったフォード・シエラには2周の差をつけるという、まさにクラスが違うのではないかと思わせる圧倒的な速さを見せつけた。
この後、この2台のR32GT-Rは交互に勝利を重ねていき、90年のシリーズチャンピオンをカルソニック号が獲得した。90年の最終戦であるインターテック(富士スピードウェイ)は、85年にインターテックが始まって以来、初めて日本車が勝利を飾った記念すべき一戦である。
91年シーズンはGT-Rが2台増えて4台体制でグループAレースに参戦した。ライバルであったフォード・シエラは、ヨーロッパでグループAレースが衰退した影響で開発が進まず、戦闘力を急速に落としていった。そして92年シーズンからR32-GT-Rの属する1クラスはスカイラインGT-Rのワンメークレース化した。ライバルが不在となったGT-Rは、エンジン出力を下げて耐久性の向上やメンテナンスコストの低減が図られた。GT-R同士の戦いになり、チーム間の争いは激化した。このためエンジンのメンテナンスを請け負う日産工機はチーム間の出力性能均一化や信頼性向上に尽力した。他チームが少しでも速いとエンジンの出力が違うのではないかと疑われ、エンジンが不調になればメンテナンスが悪いのではないかと文句を言われたのである。そのため、全エンジンの出力データを公開し、抽選により各チームに配給された。
そして93年シーズン終了とともに9年間続いたグループAレースに終止符が打たれたのだ。GT-Rは、参戦以来一度も負けることなく29連勝を記録してその役割を終えたのである。
例え負けることがあったとしても、強力なライバルがいた方がGT-Rにとっては幸せであったかもしれない。開発を進めればもっともっと速くなる可能性を持っていたのだ。そしてグループAレースはまだまだ続いていたであろう。少なくとも94年シーズンから始まった、2lNAエンジンで争われたニューツーリングカーレースのように盛り上がりに欠けることはなかったはずだ。グループAレースに慣れた観客にとって、300ps程度のFF車で争われる2ヒート制のスプリントレースは退屈なものに映ったに違いない。
このグループA・R32GT-Rは、日産のグループCカーとともに日本のレース界を席巻したクルマである。R32GT-Rは4年間(89年のGTS-Rを含めると5年間)、グループCカーは3年間チャンピオンであり続けた。そして、ともにそのカテゴリーを消滅させてその使命を終えている。強すぎるものはレギュレーション変更やカテゴリーの消滅により排除されるというのがレース界の掟なのだ。そして強すぎて排除されることこそレースにおける勲章なのである。
その点、GTカーレースは車両に応じて吸気制限を付け、勝つとハンディキャップ(錘を積む)を付けることで、各社が勝ちを持ち回りしており人気を保っている。レース業界全体が潤うので興行的にはこの方が望ましい。しかし、真剣勝負を望むファンには少し物足りないであろう。
第13話終了
Posted at 2011/10/15 09:08:52 | |
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R32 | クルマ
2011年10月10日
耐久信頼性と出力向上のためニスモ仕様が戦列へと送り込まれた
300psさえ出れば安い方が良いとばかりに、手を抜いて作った自称スポーツカーとは所詮、世界が違うのである。そのことはGT-Rに乗る人達が一番感じて、そして自慢に思っているところではないか。GT-Rのオーナーに、そしてGT-Rに乗りたいと思っている多くの人達にそう感じてもらうことはまた、設計者の一人として何よりもうれしいことなのである。
しかし、レース仕様車の開発を進めていくうちに、ロードカーとレース車ではどうしても相容れないところが出てきた。一番大きな問題がターボチャージャーであった。生産仕様は最高出力300psでレスポンスも充分実用に耐える仕様を選定したのであるが、それ故に、これをそのままレース用に使うことは以下の2点で不都合が生じた。
1)生産仕様の約2倍の出力である600psに対応するためには吸気コンプレッサーの大型化が必要不可欠である。しかし、レース用を生産車に使うと使用域の効率が低くなり性能が低下する。
2)レースでは生産車ほど充分なエアクリーナーの役割が期待できず、セラミックタービンでは走行中に入ってくる異物によりタービンが破損する可能性がある。といって生産仕様にメタルローターを使うとレスポンスが大幅に悪化してしまう。
この問題を解決するためにターボの仕様は標準仕様とニスモ仕様を分けることにした。ニスモ仕様には、コンプレッサーホィールは600psに対応するT04Bを採用し、タービンローターには耐熱性に優れたマーム材を採用して、A/Rも大流量に対応した仕様とした。
このターボ仕様が必要不可欠の仕様変更で、その他にはレース仕様車の開発過程で必要となった小型リアスポイラー(リアのダウンフォース確保)の追加やフードトップモール、フロントバンパー冷却口の追加(冷却性能向上)などの仕様変更したエボリューションモデルがニスモ仕様として設定された。また、ニスモ仕様は軽量化のためレース仕様では必要としていないエアコンやリアワイパー、ABS等を省略して(主として)フロント荷重30kgの軽量化を図っている。レース参戦の直前である90年2月に公認に必要な500台限定で生産、販売されている。
最初にレース用に開発されたエンジンは、先行テスト用で、88年末のことであった。吸気マニホールドは、まだ生産仕様一時試作当時のロングブランチであったことや、カムシャフトも生産仕様のままだったため、先行テストエンジンの目標値であった450psには遠く及ばない、わずか360ps程度の性能であった。
その後、生産仕様の吸気マニホールドの仕様変更やヘッドボルトの強化などを行った2次試作仕様エンジンをベースに開発が進められていった。ピストンはアルミ鍛造材に変更され、圧縮比も生産仕様の8.5から7.5程度まで下げている。ピストンの熱負荷が厳しいのでピストンリング溝を冷却するためのクーリングチャンネルは生産仕様と同様、採用する必要があった。通常、鍛造でクーリングチャンネル付きピストンを作ることはできない。そのため、当時のグループCカー用VRH35Zで採用した電子ビーム溶接による組み立て式クーリングチャンネルを採用してこの問題を解決した。
この他に圧縮比変更に合わせて燃焼室形状を手加工で小変更し、高過給圧下でのノッキング防止を図った。
89年6月にR32新型車発表後、初めて公開でシェークダウンしたレース仕様開発車には470psの、いわば1.5次仕様エンジンが搭載された。富士スピードウェイで行われたこの時のテストでは、高橋健二ドライバーの運転で14ラップ走行し、ベストラップタイムは1分48秒台であった。その後、N1仕様で1分35秒台、ノーマル車を少しチューンナップした程度でも1分50秒台前半で走れることと比較すると、タイムレベルの低さがわかる。しかし、N1仕様でもエンジン出力は400ps程度であることを考慮いただきたい。
その後、2次仕様エンジンで大幅な出力向上を行い、最高出力560ps、最大トルク59kgmに達した。このエンジンは89年9月にスポーツランド菅生でテストされている。当時テストを担当した長谷見昌弘、星野一義の両ドライバーは、「低速トルクがありレスポンスもすごく良いが、高速の伸びが足りない」と厳しい注文を付けている。
このテストの結果を受けて、ターボの改良などを行い、90年1月にレース本番仕様のエンジンを完成させた。エンジン性能は最高出力630ps、最大トルク70kgmに達した。レース本番車は、開発車とは違って計測機器を積んでおらず、また、車体の軽量化も徹底して行った結果、約100kgの減量を果たしている。
第12話終了
Posted at 2011/10/10 21:31:40 | |
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R32 | クルマ
2011年10月05日
グループAレース制覇のため総力を上げて技術力を結集させた
R32GT-RをグループAレースに参戦させる計画は、開発企画の原点であり、開発チーム内では当然のことであったが、正式には1987年8月にモータースポーツ中期基本計画の中に盛り込まれて、日産としてのオーソライズを得た。
この中期基本計画に基づき88年2月にグループAレース車両の開発基本構想が開発役員会に提案され、承認された。このときから正式にグループAレース車両開発がスタートしたのである。
レース車両の基本的な開発業務分担は、車両全体の開発は日産のスポーツ車両開発センター(追浜)で、エンジンは日産工機、トランスファーは富士鉄鋼所で開発することとした。スポーツ車両開発センターは89年9月までの基本開発を受け持ち、それ以降の開発及びレース車両の製作とイベント参戦は日産のレース部隊であるニスモ(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)が担当することになった。
エンジンに関しては、開発からレースイベント用エンジン製作、イベント時のサポートまで一貫して日産工機の分担とした。当時、追浜はグループCカー用エンジンとWRC参戦用グループAラリーカー(パルサーGTI-R)用SR20DETエンジン開発、レースイベント用エンジン製作を抱えており、とてもグループAレース用RBエンジンまでは手が回らなかったのである。
そして、グループAレースで目標とする性能(エンジンで言えば600ps/7600rpm、62kgm/6000rpm)を得られることをスペック上で生産車両開発部門が保証し、実際にその性能までスープアップするのはレース車両開発部隊の役割とした。この業務分担に基づいて具体的な計画が立てられ、88年4月からグループA車両の開発が立ち上がった。
R32スカイラインの標準仕様については89年5月に発表発売、GT-Rを含む4WD仕様は5月に標準仕様と同時に発表し、8月に発売を予定した。この3ヶ月がGT-Rの品質玉成にはどうしても必要だったのである。
グループA仕様もスカイラインの新車発表の場で同時公開を考えていた。グループAレースに勝ちに行くと公言する以上は、同時発表でなければインパクトが薄れるし、意気込みが伝わらないと判断したからだ。本音を言えば、開発を担当した自分たちとしても是非新車発表の場にレース車を置きたかったのだ。
そして記者発表直後の6月から各地のサーキットで公開走行テストを実施し、90年のグループAレースのためのデータ取りを行った。
グループA規則では、連続した12ヶ月の間に5000台以上を生産しないと公認を取れない。8月から生産を開始して1000台/月のペースでも12月にやっと5000台に達する計算になる。翌年3月のデビューがギリギリ間に合う計算であった。本当は発表直後の89年11月のインターテックレースでデビューウィンを飾らせたかったのだが---。
しかし89年はR31GTS-RがグループAレースのチャンピオンを獲得したので、結果的にはこれで良かったという気がする。新型と旧型を同じレースで戦わせるのはあまり気持ちの良いものではない。当然だとは言え、旧型GTS-Rが新型GT-Rに蹴散らされるのを見るのは忍びない。自分はもちろんGT-Rが好きだが、GTS-Rにも劣らずに愛着を感じているからである。
R32GT-Rを企画した当初は、エボリューションモデルは作らない予定であった。標準車そのものでグループAレースを戦うことを潔し(いさぎよし)としたからだ。従って必要な仕様はすべて標準車に織り込む意気込みで開発を進めていた。例を挙げれば、あの巨大なインタークーラーなどは必ずしも300psのロードカーには必要ではない。しかしこうしたひとつひとつの仕様に対するこだわりが、今あるR32GT-Rの「本物である資質」を作り上げたわけだ。
第11話終了
Posted at 2011/10/05 09:33:29 | |
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R32 | クルマ